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  • 執筆者の写真Masayuki Kano

蓼科高原日記/雨の朝・2017.06.08 THU



NO SENTIMENTALISM, NO ROMANTICISM, NO EMOTION. ONLY IS RELATIONSHIPS THERE.

雨が降った。予報通りだけど、眠っている間、雨音はさほどしなかったように思う。

亜高山帯の森の雨音はとても静かだ。それは「音」というよりはむしろ「気配」といったほうがいいかもしれない。

毎朝野鳥の声で目を覚ます。

これほどしあわせな気分で目覚めることはないだろう。

ここに在るのは自然の音だけ。この季節には野鳥の美しい音楽でゆっくりと覚醒する。

深海からゆっくりと朝日に輝く海面に向かってゆっくりと浮上していく。

それを五感で感じることができる。

わたしはそれがメタファーであることを眠りの中で理解している。

ここには物語がある。

マーケティングでいうところの「ストーリー」ではなく、古来より語り継がれてきたような意味で「物語」が在ることを感じる。

現実と異界との境がとても緩くて気づかぬうちに行ったり来たりしていることに気づく。これは心霊現象とか精神世界とは関係の無い個人的な感覚に過ぎないけれど。

わたしはそうした何か特別な能力を持っているわけでは無い。だれでも、ここでは、そんな在り方をすることが自然にできてしまうだけだ。

現実にのみ目を向けて生きるビジネス・オリエンテッドなひとびとにはなかできないけれど、それはしかたのないことだ。

得るものがあれば失うものもまた等しくあるのだ。

われわれは対価を支払わなければならない。

わたしは(村上春樹氏が自らをそう語るとき同様の)「超個人主義者」なのだろう。

日本的な地域社会などの共同体の一部としてしか存在しえない「公的自我」ではなくて、神とさえ一対一で対峙できる「個人(私的自我)」でありたいと願い続けている。

人が自立するということは「共同体の中でのポジションを獲得すること」ではない。

何ものにも帰属し得なくなったとしても「個」として「人間存在」として在ることのできる、そのような者にわたしはなりたい。

村八分やパワハラで個人を共同体に帰属させるというメンタリティーないし共同体のシステムを変えない限り、わたしたちに未来は無いように思う。

共同体(その極端な例が宗教)のような「閉じたシステム(closed system)」から「開いたシステム(open system)」へと世界は変化している。

それにつけてもこの「みんな仲よく一緒じゃ無いとダメ的社会」をなんとかしないと!

蓼科はどこに行くにもちょうど良い距離にあるいま流行の「ハブ空港」のような存在だと思います。蓼科で心身を休め、ここを起点にして様々な観光地や山歩きやその他の活動に出かける、その基地として最適の立地なのです。

皆様のお越しをお待ちしております。

ペンション・サンセット オーナー 拝

今日の写真:「tateshina 170608」

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Sony α7, Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4 MC VM + Voigtlander VM-E Close Focus Adapter

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