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執筆者の写真Masayuki Kano

蓼科高原日記/アイデンティティー



庭に咲くマーガレットとの対話の日々

NO SENTIMENTALISM, NO ROMANTICISM, NO EMOTION. ONLY IS RELATIONSHIPS THERE.

以前このブログでも書いたような気がするけれど、改めて書こうと思う。

さて、かつて世界中で、そう言って差し支えがあるならば、世界のあちらこちらで心あるひとびとの間ではというべきだろうが…

「アイデンティティー」という概念や言葉がもてはやされ、それこそが我々が求め追求すべきものだとされた。

ある意味アイデンティティーさえ確立できれば人生万々歳、すべては上手くいく。

そんなふうに信じられていた時代を確かにわたしは生きていたことを明瞭に憶えている。

そんな時代には「コンセプト」さえしっかり決まれば広告や販売は成功する。

逆は不可。そんなことが信じられていた時代でもあったように思う。

しかし、きょうは「アイデンティティー」の話だ。

それはいまから30年ほども前の時代だったと思う。わたしもその信者のひとりだったわけだけれど、自分のアイデンティティーを求めて彷徨い続けていた。

しかしどれほど考えてもどれほどさすらいの旅を続けてもアイデンティティーを発見することはできなかった。わたしは自分が誰なのかを知ることはなかった。

「我々は何ものなのか」という問いに答えの無いことを知ったのは個人的にはつい5年ほど前のことだ。

わたしたちは形のないなにものかなのだ。どれほど追求し続けても行き着く先にはなにもない。

わたしたちはいわば「空(くう)」の住人なのだ。確かに存在するがその姿も行動も変幻自在にしてつかみ所が無い自由な在りようが本性なのだ。

アイデンティティーの名の下に厳格に自己規定することは不可能である。もし力尽くでそれを行うことができたとしても、結果は個人としての自己崩壊だろう。

わたしたちは形の無いなにものかであり、常に変化し続ける何ものかである。したがって変化を規制したり禁止すればすべてが停止する。

社会は未だにこの古いイデオロギーに固執して突き進んでいるようだ。アイデンティティーを確立しろ、他との差別化を明確に行え、そして突き進め。

アイデンティティーに対して唯一関与できる要素は「関係性」のみだと思われる。アイデンティティー同様「関係性」もまた変幻自在であり決して静止することが無いからだ。

直接関係は無いかも知れないけれど、似たような問いをわたしはよく知っている。それは「生きる意味とはなんなのか?」というものだ。

それについても個人的には答えを見いだした。

生きる意味という問いに対する答えは存在し得ない、なぜならばそれは我々の関与できない(たとえば造物主たる神の領域の)問題だからだ。創造物たる我々はそれに関与することができない。

しかし「生きる価値」についてならば答えはいくらでも見つけることができるだろう。なぜならば、それこそが我々の問題であり自ら関与することができるからだ。

わたしたちは生きる価値を創造することができる。

個人的に「文体は人なり」と思っているので、今日の文章は気に入らないのですが、今日が初めての文体なのでご容赦下さい。<(_ _)>

蓼科はどこに行くにもちょうど良い距離にあるいま流行の「ハブ空港」のような存在だと思います。蓼科で心身を休め、ここを起点にして様々な観光地や山歩きやその他の活動に出かける、その基地として最適の立地なのです。

皆様のお越しをお待ちしております。

ペンション・サンセット オーナー 拝

今日の写真:「tateshina 160611」

160611-DSC02399-C1

SONY α7R, Leica Macro-Elmarit R60mm F2.8

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