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  • 執筆者の写真Masayuki Kano

蓼科高原日記/生きることの意味



2017/09/25(日)の蓼科高原標高1700mピラタスの丘:

今日もまた朝から快晴でした。絶好の行楽日和登山日和。

最低気温は夜明け時に3℃。日中の最高気温は13℃でした。

9月24日(月)、9月26日(火)は終日晴れの予報が出ています。

紅葉の季節も抜群に美しい蓼科高原ですが、紅葉直前のこの季節ならではの心地よい気候はなにものにもかえがたい。

「静けさと癒やしに満ちた蓼科高原」で皆様のお越しをお待ちしております。

★★★

昔々その昔、いまから22年ほど前からわたしはブログを書き始めました。

最初の14年間は毎日必ず更新していました。始めるときにそう決めたからです。毎日原稿用紙にして10枚から20枚近い文章を書いていたように思います。

不思議なことに当時は書きたいことが山ほどあって、書くのに15分か30分もあれば十分だったのです。いまとなっては信じがたいことなのですが。

わたしの興味の対象は「この世界」でした。この世界の構造と原理こそが究明すべき対象でした。それさえ理解できればきっとわたしは心安らかにこの世界で生きてやがて納得して死んでいくことが出来るように思っていました。

しかしそれは徒労の日々であったといま思います。

あるときわたしは理解しました。この世界の成り立ちを、その本質とでもいうべきものを。

「さとり」と言うような大袈裟なことではなく、ごく当たり前の日常の中で気づいたのです。

それは「この世界は意味も無く存在する」ということです。「無意味性こそが世界の本質なのだ」ということに気づいたのです。

わたしは問いの立て方を間違っていたのです。それでは永遠に答えに辿り着くことは出来ないということに。

なにしろわたしは「この世界の意味」を問うていたのですから。あるいは「人生の意味、生きることの意味」を問うていたのですから。

そうではなくて「この世界の価値」そして「人生の価値」をこそわたしは問うべきだったことに気づいたのです。

なぜならば、それらの「意味」についてわたしたちは関与できないからです。

それはいわば「神」の領域であってしかも神にはそれを説明するつもりなんてこれっぽっちもない。それは神の役割ではないし仕事もないから。

しかし「価値」についてならばわたしたちは主体的に関与できる。その価値を見いだすこと、その上で主体的に意味づけることが出来る。人生の意味とはそのようなものなのだ。そのことに気づいたわけです。

そのようなことのすべてをわたしはこの蓼科高原北八ヶ岳標高1700mのいささか希薄な空気の中で大自然に教えられました。いまわたしは人生で最も心穏やかな日々を送っています。

★★★

紅葉の見頃は白駒池付近で9月下旬ないし10月上旬、ペンション・サンセット付近は10月中旬、観音平など奥蓼科横谷峡は10月下旬、御射鹿池も同様です。ただし紅葉は微妙な気象の変化で変わってきますのでピンポイントでの見ごろは分かりません。 蓼科はどこに行くにもちょうど良い距離にあるいま流行の「ハブ空港」のような存在だと思います。蓼科で心身を休め、ここを起点にして様々な観光地や山歩きやその他の活動に出かける、その基地として最適の立地なのです。 皆様のお越しを「癒やしに満ちた秋の蓼科高原」でお待ちしています。

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Sony α7, Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4 MC VM + Voigtlander VM-E Close Focus Adapter

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