この季節は気の向くまま蓼科の森を散策する機会が多くなる。一気に若葉を出し始めた樹木の下を歩くのはじつに心地よい。
随所に渓流がありそれを下る雪解けの豊富な水が轟音を立てている。それもまた癒やしの音に感じる季節だ。
何に出会うかは歩く場所によってじつに様々なのだけれど、同時にこの春の光こそがわたしを惹きつけて放さない。
わたしが出会いに行くのは「ひかり」なのかもしれない。わたしが撮りたいのはいつだって光と陰ということなのかもしれない。
そのことに今気づく。
色も形も写真に捉えることの出来なかったものはあとからなんとかするというわけにはいかない。無い色は引き出せないし、無い形を描くことは出来ない。
写真の現像はコンテンツ制作とは異なる。その一部として写真が「素材」となったりあるいは「構成要素」となることはあるが、それはわたしの場合には無縁の世界だから。
写真を「写真」としてその限りにおいて扱うというのがわたしの考え方だし、それがある意味で伝統的な「写真」と言える気がしている。
アマチュアだからこそそのことにこだわることが出来るし、このように言い切ることも出来るのかも知れない。
異なった多様な考え方があることも承知しているが、わたしはどのような考え方も否定しない。いろんな考えがあって良いのだと思う。
「写真」という言葉に惑わされてはいけないと思う。
「真実」を「写す」から写真なのではない。
これは単なる「訳語」に過ぎない。
外来語としての「フォトグラフ(photograph)」にそのような意味はまったく含まれない。
「光(photon)」で「書く(graph)」というのがその本来の意味だ。
筋力持久力を鍛えるなら「ウサギ跳び」でしょうなんていうのと同じくらい、「真実を写し取る」なんて解釈して執着するのは馬鹿げている。
もちろん写真で「真実」を追い求めることは可能かも知れないけれど、それはまた別のフェイズ(phase)の話だ。
まあ理屈はともかく、
わたしは「光」を追い求めて蓼科や茅野や諏訪を彷徨うように歩き回る。
それが出来ないときには標高1700メートルの自宅の窓から「定点観測写真」を撮り続けている。
それがいま現在のわたしの写真です。
蓼科はどこに行くにもちょうど良い距離にあるいま流行の「ハブ空港」のような存在だと思います。蓼科で心身を休め、ここを起点にして様々な観光地や山歩きやその他の活動に出かける、その基地として最適の立地なのです。
皆様のお越しをお待ちしております。
ペンション・サンセット オーナー 拝
今日の写真:「tateshina 170507」
170507-DSC02399-2
Sony α7, Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4 MC VM + Voigtlander VM-E Close Focus Adapter