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InnerVisions アーカイブ

2006年08月16日

3469 私は誰?ここはどこ?

晴れのち曇り 気温:最低 14℃/最高 22℃

ほぼ徹夜の日々が続いている。ときおり頭がもうろうとして「私は誰?ここはどこ?」状態になる。前にも書いたけど、開業以来初のアルバイト無しの夫婦二人だけで乗り切る「お盆休み」なのだ。朝5時半から翌朝4時過ぎまで文字通り働きづめに働いても時間が足りない。もちろん改善の余地はあるので日々話し合って効率を上げてきてはいるが、絶対的睡眠時間不足は解消されない。

いずれにしてもそんな裏事情はお客様にはま〜ったく関係ないことだから、最高のサービスを目指して気張っている。まあそのときは覚醒状態でちゃんとできるのだけれど、終わったあとでがっくり来ちゃうのね。もうものは落とすは、自分が何をしようとしていたのか忘れちゃうはで、簡単な足し算もできなくなっちゃう。夫婦で互いに分けのわからないちぐはぐな会話をしていることに気づいてもう大笑い。

深夜に食器の洗浄消毒をしながら妄言を口走ったりなんてあたりまえ、もうほとんどうわごとだね、ここまで来ると。起きているのか眠っているのかわからなくなってくる。まあ、ビジネスマン時代も同じような状況で働いていたから懐かしい感じもあるけど。仕事中立ったまま寝ちゃうもんね。

いずれにしてもお客様に対して「粗相(そそう)」のないようにがんばり通したいと思っている。

2006年08月17日

3470 一切苦厄なのね、舎利子ちゃん

曇り 気温:最低 15℃/最高 22℃

なんかもうわけがわからなくなってくる。たまたまペンション仲間とちょっと話す機会があったけど、20人以上のお客様を夫婦ふたりだけで10日間ももてなすというのは冒険どころか無謀だといわれた。「ありえない」って。僕もそう思うけれど、まだまだペンション本来の《悠々自適》の境地にはるか遠い若いペンションだから、収容人数を減らすことができない。理想はいまの半分なのだけれど。あと5年は現状でがんばらなくっちゃつぶれちゃうから。しかもアルバイトを確保することができなかった。

これでもう貫徹が3日間続く。ちょっとやばい。へろへろなのがお客様にばれちゃいそうだ。というか、舞台と同じで、お客様の前に出る直前までは地べたを這っていても、お客様の前に出たとたんにしゃんとしちゃうのね。これって役者魂に近いものがあるかも知れない。で、裏方に回るとあちこち激突したり何でもないところで転倒したりこん倒したり・・・。

実際満身創痍ってこのことなのね。体中生傷だらけ、意識混濁、心神耗弱(なわけないか)、もうトランスしちゃっているかも。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是なのね、舎利子ちゃん。でも、僕らは観自在菩薩ではないから行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子ちゃん。てなわけにはいかないのだ。もう苦厄苦厄苦厄苦厄苦厄なのね、舎利子ちゃん。ははは。

接客時間帯はある種覚醒状態にあるからサービス内容には自信があるから大丈夫、心配ないからね。問題は終わったあとなわけだ。睡眠をとる時間がない、まったくない。それが問題。どんなに効率を上げても、寝る時間がない。土砂降りの雨に傘がない、って状況よりつらいよ、これは。

まあ泣いても笑ってもあと数日間のことだからなんとか持つでしょう。サメみたいに脳の半分だけ眠ることができるように進化するかも知れない、その可能性にかけてみたい。本当に、その可能性にかけてみたい。辛いわけじゃない、ただ眠りたいだけ。眠りが心身に必要なだけ、それも切実に。

昔とった杵柄で、24時間計画を立案したから、あしたの、つまり19日の午前3時までには眠ることができるだろう。たった2時間でも眠ることができればそれだけで相当楽になるのだ。A HARD DAY'S NIGHT。僕は丸太のように眠りたい。妻も同様に思っていることだろう、ね、舎利子ちゃん。

2006年08月18日

3471 ペンションのホスピタリティー(1)

曇り 気温:最低 15℃/最高 21℃

8月17日深夜、あるいは8月18日未明、ピラタスの森に静かに雨が降る。それは音もなくまるで夜露が降りるように空から降りてくる。雲は薄く、かすかに下弦の月の明かりが透けて見える。雪の降る夜ほど静かなものはないが、この季節の深夜の雨もまたその静けさにおいては負けていない。

新緑の季節に比べて樹木の葉の水分が減ってきているので雨の当たるときの音も変化している。あえて表現するならば「さわさわ」から「からから」に変わるのだ。森はすでに紅葉に向けて変化を始めている。それはまだ目には見えない変化だが、内面において確実に進行している。

そんな雨の未明、僕ら夫婦はまだ起きている。というかまだ寝られないでいる。多様な料理を出しているので調理器具も食器の種類と数も半端ではないので、いまだにその洗浄消毒と片づけに追われているのだ。僕はパンも作らなければならないしね。朝食のテーブルセッティングや仕込みもやっておかなければならない。起床時間が5時半なのに、もう午前4時を回ってしまった。

要領が悪いのだろうか。そうは思わない。確かにもっと効率良く進めるための改善余地はあるが、やるべきことをきちんとやるとこのように時間がかかると言うことは事実なのだ。

昨今まれにペンションのマンパワーにおける限界や資金力における限界を理解しないでご利用になるお客様が散見されるが、残念なことだ。ホテル並のサービスを求めるならばきちんと高価な料金を払ってきちんとしたホテルにご宿泊になることをおすすめする。が、そのような方は個人経営で立場の弱いペンションだからこそホテルでは言えない要求をできるだろうと考えているようだ。ペンションのホスピタリティーとはそのようなものではない。

大ホテルにできないことはペンションにはもっと困難なのだ。「客として来たりて友として去る」という有名な言葉の示す通り、ペンションのホスピタリティーとは人と人とのコミュニケーションにある。ご無理ごもっともでなんでも客の言うことをきくと言うことではない、そこのところを誤解しないでいただきたい。

もちろんそれを「売り」としているペンションもあるからそのようなところにご宿泊になるのがよろしいかと思う。要するに「俺は客だ、私はお客よ!」ということがポイントならば、ペンション・サンセットはそのような考えかたはしていない。そのような発想自体がその人の品性を傷つけるのではないかと思うところだ。

できることはなんでもして差し上げることが可能だが、できないことはきっぱりとできないのだ。ホテルで断られるようなサービスはペンションでもお断りするしかない。これはどんな業界でも同じだ。それをごり押しするかどうかはその人の人間性の問題だろう。

ごり押しに対する対応能力でその宿のレベルが問われるなんて言う議論は問題のすり替えでしかない。これはあくまでも「人間としての品性」を問う問題なのだ。「お客様は神様だ」とか「お客様の声は天の声だ」などと言うイデオロギーは一面の真理でしかなく、顧客啓蒙および市場啓蒙の機会を放棄した「愚衆マーケット論」でしかない。

ペンション・サンセットはペンションの持つ機能を十全に発揮することに全力を尽くしている。しかし、その枠組みを超えた要望や要求には残念ながら充分にはお応えできないか、まったくお応えできない。これは仕方のないことだと思う。だからこそさまざまな宿泊施設が存在するのだから。

2006年08月19日

3472 ペンションのホスピタリティー(2)

曇りのち晴れ 気温:最低 15℃/最高 21℃

「客として来たりて友として去る」という有名な言葉の示す通り、ペンションのホスピタリティーとは人と人とのコミュニケーションにある。ご無理ごもっともでなんでも客の言うことをきくと言うことではない、そこのところを誤解しないでいただきたい。

そのように昨日僕は語った。これは個人的な確信である。そして「客として来たりて友として去る」というのは私の夢であり、実際的な思いである。ここで言う友とはあらゆるレベルの「友」を包含している。お客様であると同時に友であるようなそんな関係でありたいという思いだ。

「客商売」なのだからそんなことを言っているとつぶれるぞ、という忠告ももっともだろう。しかし、この「客商売なのだから」と言うところに欺瞞を感じるのは僕だけではなく、お客様だって同じことを感じるのではないだろうか。

自分は、あるいは自分たちは「お客様」である限りにおいてこのように丁重な扱いを受けているに過ぎない、と。それが好きだと言う人はそれで良いのだと思う。しかしちょっと寂しいと僕は感じる。僕は「ひとりの人間」としてお客様をお迎えしているつもりだ。

人は自分が自分であると確信できるときにしあわせと安心と充足感を得ることができると僕は考えている。だからこそ、ペンションはホテルなどにはなかなか困難な「ひととして」お客様を迎えるということをしたいと思っているのだ。それも会社や仕事の時のある意味「演じている自分」ではなく、「素の、ありのままの自分」でいて欲しいと願っている、すくなくともペンション・サンセットにいる間は。

僕などの前で肩ひじ張ることなんて無いんだ。たかが山のペンションのオヤジなんだから。なんの肩書きも役割も看板も背負わない「ありのままの、個人的な自分」でいてほしい、そのような「ほんとうの自分」に戻って欲しい。

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深夜にシベリアンハスキーのパルと散歩してきた。空には満天の星。何万回見たとしてもいつも同じように背中がぞくっとするような感動を覚える。新月に向かっている空は暗くて、星がとてもよく見える。ピラタスの丘は本当に静かで、お盆休みで宿泊施設が満室のお客様でにぎわっていることなどまったく感じさせない。

耳の奥から秋の虫の音が聞こえる、いやこれは本物の虫の音か。それとも静寂が支配する森で聴く「静寂の音」なのか。風はひんやりと冷たく、やや湿り気を帯びているが雨の気配はまったくない。夜露が森に降りて湿度を多少あげているのだ。朝日とともにこの水分は瞬く間に空に昇って雲となる。

徹夜もここまで継続すると、ある種ハイな気分になってきて、何とか身体も頭も機能するようだ。もちろんこんな覚醒状態が永遠に続くはずはないのだけれど、あと一日二日は持ちこたえることができるだろう。こうなるとちょっとしたアイドリング状態の時に熟睡していることに気づく。

パソコンの前でちょっと思考が中断したときとか、椅子に腰掛けてちょっと休息しているときとか、立ち仕事でちょっと動作が休止したときなど、まるでワープしたかのように時計が進んでいることにあとで気づく。あっという間に30分も経過していたりしてね。

まあ、瞑想していて超越状態(いま流に言うとトランス状態ね)にはいると、一瞬にして1時間以上経過していることだって珍しくないから、個人的には僕も妻もまったく驚いてはいないのだけれど。しかし人間の身体と言うのはじつに良くできているものだと感心することしきり。

2006年08月20日

3473 お盆ツーリズム

晴れ 気温:最低 14℃/最高 21℃

きのう深夜から楽天トラベルのサーバーに繋がらなくなってメインテナンスができなくて困っていたが、今朝調べてみたら「定期メインテナンス実施中」だってさ。ほかの業種はとにかく、「トラベル」にとっては書き入れ時の夏休みそれもお盆最終日にこういうことをやる神経がわからない。

これではじゃらんnetに水をあけられても仕方がない、じゃらんは旅というものを理解しているが楽天は残念ながらそうではないようだ。こういうところにインテリジェンスの違いが出るのだと思う。

それはさておき、昨夜もものすごい星空だった。満天の星で、天の川や銀河の中心の星の密集している様が手が届きそうにくっきりと見て取れた。そしてやはり空気がうまい。こんなに空気がうまいと感じたのはここに移住して12年で初めての経験だ。森が生い茂ってフィトンチッドが倍増したのかも知れない。マイナスイオンとフィトンチッドとオゾンの多さでは蓼科は昔からよく知られているのだ。

今朝は気持ちよく冷え込んだ。キーンとした大気が心地よい。半袖ではちょっと肌寒く感じる。お客様はフリースを羽織って散歩に出ているようだ。そうだもう少しすると朝晩には吐く息が白く見えるようになる。しかし日中は真夏の日差しが降り注ぐ。これから1ヶ月ほどはそんな夏と秋とが同居した季節が続く。それは僕にとっても最高の季節だ。年間を通じて最も「癒し」に満ちた季節だ。

お盆休みも今日で終わる。すくなくとも旅行業界的にはそうだ。我々のように夫婦二人だけで営むペンションにとっては(おかげさまで)「怒濤のようなお盆休み」となった。そんなことで、今年もまたお盆休みは「失われた夏の記憶」となった。

一日2時間の睡眠をとることもままならず、三日連続で徹夜するのも当たり前、まともな食事をしたのはお盆休み以前の思い出だ。そこら辺にあるパンとかお菓子とかバナナとかをかじってしのぐのがこの時期の僕らの食糧事情だ。

何しろ分刻みのルーティンスケジュールで忙しすぎて買い物にでられないのだから地元野菜を別としてほとんどすべてを保冷備蓄せざるを得ない。日本中が(市場も休みになっているから)同じような状況で、あらゆる生鮮食料品が保冷備蓄されている。現状としてしょうがないのかも知れないけれど、これはちょっとおかしいと思う。

旅行業とそれに関わる諸産業はお盆に休むべきではないと僕は思っている。最も需要が在るときに公共性の高い市場(いちば)が一斉に休んでしまうというのはどうにも近代的ではない、現代的ではないし論理的でも合理的でもない。だからお盆には物価が高騰するのだ。生鮮食料品も3割も(場合によっては)10割も値上がりするのだ。

この「お盆ツーリズム」は我が国の休暇事情の貧しい一面を端的に表わしているように思われる。

2006年08月22日

3475 避暑地の夏の終わり

晴れのち曇り 気温:最低 14℃/最高 22℃

天気は曇りというべきなのだろうか、しかし見上げれば白い雲と青空がそこにあり、とうとうと流れてゆく。スポットライトのような陽光が森のそこここに降り注ぎ、そんな情景を見ているうちに晴れなのか曇りなのかわからなくなってくる。

風はひんやりと冷たいが、日差しのもとではじりじりと熱い。しかし大地のこの絶対温度の低下は季節が決定的に秋に向かっていることを示す証拠に違いない。ざわざわと生育し続けてきた樹木や草花もその勢いを止めて静かに結実の季節に向かい始めている。

森の所々では気の早い樹木が紅葉を始めている。ウルシは黄葉し、ナナカマドは蛍光オレンジの紅葉とともに真っ赤な実を付ける。コスモスが咲き乱れ、アキアカネ(赤とんぼ)が飛び交い、じつに秋の様相を呈してきた。

街でも同じような季節の変化を感じることができる。空の色が秋色に変わり、炎天下にクルマを止めておいてもさほど室内気温が上がらなくなった。吹き抜ける風はもはや熱風ではなく、ひんやりとしたまるで夏の終わりの海辺に夕暮れ時吹く風のようだ。ただ潮の香りがしないところだけが異なる。

心地よく気だるいこの気分は、灼熱の夏の思い出、命を燃やす季節の終焉を告げる。夏の終わりは海辺でも山でも同じ、祭りのあとのような静寂と若干の寂しさに胸がきゅんとなる季節だ。特に蓼科のような避暑地の夏の終わりの味わいは格別だ。

さまざまな色彩がより鮮明に目に映るようになり、さまざまな音がやわらかくまろやかに響くようになる。しっとりとした大気に心身がいやされる。きっと光の波長が変わり、大気の密度が変化するせいなのだろう。

この季節のビーナスラインを走るとそんな季節の微妙でいながら劇的な変化をはっきりと見て取ることができる。僕が個人的にドライブやツーリングにこの季節を推奨するのはそのような理由からだ。

今日も静かに日が暮れて、群青色の夜がやって来た。いまは曇っていても夜露が落ちきる深夜には満天の星を望むことができる。その美しさ、壮大さには言葉を失う。だからこの季節は昼間よりも夜の方が好きになる。漆黒の闇のように見えても実は充分な光があるものだ。ああこれが星明かりというものなのだと気づく。

シベリアンハスキーのパルとの深夜の散歩。僕はLEDのハンディーライトを持参するが、ほとんど使用しないで歩くことができるようになった。十分目を慣らせば暗闇に含まれるほのかな光を頼りになんら支障なく活動できることを知る。

闇はじつにさまざまな気配と存在に満ちている。それを感じながら歩くのは新鮮な体験だ。恐ろしさは感じない、濃密な自然の気配を感じることは快感ですらある。見えない分だけひとは感じることができるのだろう。

蓼科には「残暑」というものはそもそも存在しない。このまますっと秋になるのだ。今年の蓼科の夏はとても短かった。個人的にはそんな感慨にふけっている。

2006年08月23日

3476 MOON TALK(1)

曇りのち晴れ 気温:最低 14℃/最高 20℃

避暑地の夏の終わりはいつも祭りのあとのようなそこはかとなく物寂しい印象を与える。僕らのような仕事をしていると、それはある種の虚脱感に近いものになる。同時に「癒しの季節」の訪れを感じる時節でもある。

夏の日差しは凶暴な力を失い、むしろ優しく柔らかなものに変わる。風はひんやりとして、しっとりと心をうるおしてくれる。空も森も風もすべてが優しくなる季節。今朝はとても冷え込んでダイニングラウンジの温度は21℃になった。9月にはいったら朝晩は暖房が必要になるかも知れない。

ひさしぶりにウォンウィンツァンの MOON TALK を聴く。今や知るひとぞ知る彼だから、それにあやかるみたいで嫌だから、最近はあまり友人であることを言わないことにしている。僕より3歳年上の彼とは18年来の友人なのだけれど、その間じつは13年間ほど音信不通だった。

あることで喧嘩(?)というか激しい意見の相違というか、要するにかなり決定的な行き違いがあって気まずいまま別れてそれっきり交友が途絶えていた。それがあるお客様が彼のHPの掲示板にペンション・サンセットに行ったこととそこのオーナーがウォンさんの友人だと言っていたということを書き込んで下さった。まあ、それがきっかけであらためて交友が始まったというわけだ。

もちろん僕など大勢の友人・知人のうちのひとりにすぎないと思う。しかし、個人的に音楽の話をしたり、個人的に精神世界について語ったりできるという意味では、スピリチュアルでソウルフルな関係だと思う。

話がそれた。秋に聴く音楽としてこのライヴアルバム MOON TALK はベストかも知れない。知っているひとはみんな知っているけど、ペンション・サンセットでは BGM としてはウォンウィンツァンのアルバムしかかけない。これ以上に僕が望みうる限り「この場所」に適切な音楽はないからだ。

まあ、JBL+McIntoshで聴く音楽は Blue Note 全盛期のモダンジャズが多いのだけれどね。それはそれ、じつはウォンウィンツァンのルーツはジャズピアニストなのだった。若い頃は新宿の PIT INN の昼の部で演奏していて、18歳の僕はよく彼の演奏を聴いていた、ということを彼と友人になってしばらくしてから思い出した。

当時の彼はいまの演奏からは想像もつかないけんか腰のアグレッシヴなピアニストだった。ユニット名は「江夏健二トリオ」だったかな?間違っていたらごめん、なにしろ36年も前のことだからね。年をとってくるといろんなことを忘れていることに気づき、いろんなことを覚えていることに気づく。

昨今、自分の若さに奢って年配者を馬鹿にしたような言動をする輩が増えてきたけれど、若さがなんぼのもんじゃいと言うのが実感だ。そんなものはあっというまになくなってしまうのだ。若さになんてなんの価値もない、志を持って何かに打ち込む圧倒的パワーがあるということだけが若さの特権だ。

だから自分が若いからという根拠の無い全能感や優越感だけで生きていると、あなた、大変なことになりますよ。ほんとなんだから。

この青二才がなにをわかった風なことを言ってやがる、社会人にもなってメンチ切ってるんじゃねえよ、って思うこともしばしばだし〜。ははは。まあ、世間や社会をなめてかかるってのも若さゆえのかわいい過ちといえなくもないか。ほんと、かわいいんだから・・・。(笑)

いまできることをしっかりやっておくことだ、それは僕自身への言葉であると同時に、僕よりもずうっと若い人たちへの体験的忠告でもある。若さなんて泡沫(うたかた)のようなものなのだから。

2006年08月25日

3478 青天の霹靂 午後、雷鳴を聞く

晴れのち曇り 気温:最低 14℃/最高 21℃

午後、雷鳴を聞く。換気のために開け放った窓からそれは聞こえた。あんまり良い天気なので、まさかと思ったが、やはり雷鳴に違いない。この種の雷鳴は危険信号だ。まさに青天の霹靂のごとく雷(いかづち)が着弾する。月曜日の落雷がまさにそれだった。

夏の日差しの中、パーンという轟音とともに近くの電柱をしたたか打ったのだ。そして、そこから先の家屋は停電し、インターネット回線も不通となった。電話回線が生き残ってくれたのと、ウチが電源を引き込んでいる電柱まで通電が継続してしていたので、停電だけは免れたのはさいわいだった。

今日もパソコンや周辺機器、そしてインターネット関連のケーブルを引き抜き、落雷に備える。これもピラタスの丘の夏の風物詩だ。ここ数年、夕立、雷雨が激減していたので何だかとても久しぶりのような気がする。

残暑のない蓼科ではこのまま秋が訪れる。日ごとに大地が冷えてきているのを感じる。毎朝晩最低気温は12℃〜14℃を記録している。最高気温も20℃前後でそれもしだいに低くなってきている。それでも例年よりも平均気温が高めのような実感がある。いつもなら日暮れとともに暖房を入れる日がたまにあっても不思議ではないのに、今年はそんな日がまだない。

日差しはずいぶん和らいで、クルマで街に降りてもエアコンが必要ではあるけれどじりじり焼く陽光はもうない。パーキングしておいても、戻ったときにオーブンみたいになっていることも無くなった。ピラタスの丘ではアキアカネ(赤とんぼ)がぶんぶん飛び交っている。ひとを恐れないので、歩いているとしょっちゅうぶつかってしまう。

蓼科の夏の終わりは秋の始まりでもある。それはまさに同時進行している。季節が変わるというよりは連続した音階の変化のような感じだ。そのようにして季節は進行し、僕らはしだいに真夏の熱狂から醒めて、鮮やかな色彩と静謐に満ちた秋へと舵を切るのだ。

2006年08月26日

3479 人生とは好きになった場所で...

曇りのち雨 気温:最低 14℃/最高 19℃

今日も夕立があったが、雷鳴は聞かれなかった。雨の降り方も夕立らしからぬおとなしいものだった。やはり夏は(少なくともそのピークは)過ぎ去ってしまったのだ。一時小やみになったものの、雨は再び降り始めた。

深夜、ピラタスの丘はすっかり雨雲の中にはいっている。濃密な霧のような水蒸気があたり一面に立ちこめている。いや正確に言うなら、霧のように雲の粒子が漂っていると言ったほうがいい。雨もいまは霧雨といったほうがいいかもしれない。

LEDのハンドライトの光も5m程しか届かずに真っ白な空間に拡散してしまう。そんななか、シベリアンハスキーのパル(愛犬)と散歩に行ってきた。彼は全天候型の犬だから土砂降りだろうが猛吹雪だろうが関係ないのだ。突き合わされる人間の方が大変だが、それだけに新たな発見も多い。

彼がいなかったらこんな天気の深夜に外を出歩くなんてあり得ないものね。都会から来たひとなら、この真っ白な霧に閉ざされた闇の世界におののくかも知れない。闇の中に息づくさまざまな気配に、もののけを感じて背筋が寒くなって逃げ帰ってくるかも知れない。僕らはすっかりなじんでしまっているから平気だけれど。

闇のそこここから秋の虫の音が聞こえてくる。ルルルルルルルル、ツイーッツイーッ、ジィイイイ、コロコロコロコロ、とさまざまな虫の音が微かに静寂の中の耳鳴りのように聞こえてくる。霧は地上から沸き立ち、雲は上空から吹き下ろしてくるのだ。だからこれは「雲」だと僕らにはわかる。濃密な雲の中を歩く気分はまた格別だ。こればかりは体験したものにしかわからない。

こんなときいちばん心を乱す音はなんの音だか知っているだろうか。そうだ、人間の立てる音だ、話し声とか、笑い声とか、騒ぐ声とか、いや人間の気配そのものがこの静謐に満ちた闇をかき乱す最大の要因なのだ。自然と同調できていない人間はそのような場違いな音を立てるものだから、それはそれでしょうがないのだけれど。

パルと二人で歩くことができるのはあとなん百日だろう。あと何年彼とともに暮らすことができるだろう。どうして犬は人間に比べてこんなにも短命に定められているのだろう。それを思うと胸が締めつけられる思いだ。

《人生とは好きになった場所で、好きなひとやものや犬とともに暮らすことだ。》

ある作家がそんなことを言っていたのを思い出す。そうなんだ、そのとおりなんだ。そのとおりだと思ったから、そうだと確信したから僕はこの地に移り住んだのだ。そんなささやかな望みすらかなえるのが難しい時代になった。いや昔からそれは変わりなくその通りだったのかも知れない。

僕のように《世捨て人》にならなければそれは実現できないのかも知れない。地位も名誉もささやかな自尊心も捨てて、ひとりの人間として、個人として、なんの肩書きも無いただのひととして僕はこの地へとやってきたのだった。

僕は信じられないほど軽やかになった。限りなく自由になった。こここそが自分の居場所だと確信できた。それはいまも変わりない。そして高給取りのビジネスマン時代に比べたらとても貧乏になり、もしかしたら妻や子供を不幸にしたかもしれない。そのことを考えるとやり切れなくなる。彼らはどう思っているのだろうか、訊いたとしても本当の気持ちを語ることは無いだろうしね。

もし彼らがこのことで不自由を感じていたならば僕の死によって彼らは解放されることになる。僕はあまり長生きすべきでは無いのかも知れない。

2006年08月31日

3484 ナイトハイク

晴れ 気温:最低 10℃/最高 20℃

午後10時半、シベリアンハスキーのパルと散歩に出る。森の小径を抜けて標高を50mほど上げたところで突然疾風にあおられる。出発した時からざわざわと音だけは聞こえていたのだけれど、それが風の音だとはすぐには気づかなかった。今夜はかなり強い風が吹いている。

風速5m〜10mほどの風が道に沿って吹き抜けていく。見上げれば高い樹木の先端が大きく揺れている。月齢6日の夜空は明るく、そのために星はあまり見えない。しかしピラタスの丘の道は真っ暗だ。ハンディーライトを消すと、ほとんどなにも見えなくなる。

とても寒く感じる。思わず裏地がメッシュのThe North Faceのウインドブレーカーの襟を立てる。ほんとうに「秋」がやってきたことを実感する。

僕はこのナイトハイクとでもいえる愛犬との散歩がとても好きだ。それはこのように季節をダイレクトに感じることができるからかも知れない。

以上は昨夜の出来事。


今日の天気は終日穏やかな晴れ。静かな静かな初秋の雰囲気に満ちているが、季節は「晩夏」だ。見上げれば夏の暑気と秋の涼気の行き合う「行合の空(ゆきあいのそら)」になっている。積雲の上に少し離れて巻積雲がひろがっている。ああ、秋なんだなあ。

夜、愛犬と散歩していると叢(くさむら)でコオロギが鳴いているのが聞こえる。昨日の夜もそうだったけれど、気温はお盆の頃と変わらないのにやたらに肌寒く感じる。これは身体が変化したのか、それとも大地が冷えたことによるものなのか。

今夜は星が見えない。上空に雲があり、ピラタスの丘じたいも密度の薄い雲に覆われているからだ。それはちょうど上空から霧が吹き下ろしてくるような感じに見える。ひんやりとした大気が心地よい。今夜の気温ももはや半袖ポロシャツ1枚では寒くて、ウインドブレーカーの襟を立ててちょうどいい。

日中は夏、朝晩は秋というこの季節感はあと半月ほど続く。ふたつの季節が行き合うとてもすてきな季節だ。この季節は蓼科のプレミアム・シーズンといえるかも知れない。おすすめだ。

★★★

予定通りあっというまに工事が終わって今日からペンション・サンセットのインターネット回線(CATV)の速度は20MB(実測)保証のものとなった。体感的にはあまり早くなったようには感じられないが、ファイルのアップロード、ダウンロード作業時や、ムービーなどを観るときにその速さを実感できる。

これまで月額4200円(税込)だった接続料金が月額5000円(税込)になるが、800円の差額が、それに見合った快適性・利便性をもたらすのかどうかはこれからの評価になる。まったく、10年前には28.8KBのモデムでも(それまでの14.4KBモデムに比べて)ものすごく速いと感じ、64KBのISDNになったときなんて「なんて速いんだ!」と感激したものなのに、人間というのはなににでもすぐになれてしまうものなんだ。

2006年09月02日

3486 季節・気候にふさわしい服装

晴れ 気温:最低 8℃/最高 17℃

昨夜は雲ひとつ無い快晴で、すさまじいばかりの星空を望むことができた。晴れた夜は放射冷却現象で冷え込むというセオリーどおり、今朝はぐっと冷え込んで6月中旬以来の最低気温8℃を記録した。数年前の「冷夏」の年にはお盆休みにこの気温になったことがあったが、その年はお盆休みも連日全館暖房を入れていたことを思い出す。

今朝はダイニングラウンジの気温が16℃だったので、7時前から大型ストーブに火を入れて建物全体を暖めた。客室の気温は24℃以上はあるので暖房を入れるとあっという間にむしむしと暑くなってしまうから、この季節にはこのような暖房方法をとることが多い。中旬を過ぎたら部屋の暖房も入れてちょうどいいかも知れない。

平野部では「残暑」とか。今朝の気温を体験すると、ちょっと信じがたい思いだ。お客様は、反対に、この涼しさ(というよりは「寒さ」)にかなり驚かれたようだ。しかし、陽射しがあれば気温はどんどん上昇して日中はピラタスの丘で18℃〜20℃、ここより標高が低い観光名所では20℃〜24℃になるので残暑のない心地よい晩夏が楽しめる。

こちらにお越しになるお客様は是非冬用のフリース、そして長袖のアンダーシャツを1枚是非持参していただきたい。アンダーシャツ1枚で信じられないほど温かく快適に過ごすことができるのだ。経験的には「冬用のフリース」より「長袖アンダーシャツ」のほうが温かく快適だ。少なくともTシャツにショートパンツでは朝晩の気温では凍え死んでしまうのは確実だから、僕の言葉を是非信じていただきたいのね。(^_^;)

山小屋の親父さんでも今時こんなことは言わないのかも知れないけど、「季節、気候にふさわしい服装をお願いする」しだいだ。その上で寒ければ客観的気温を勘案して全館暖房を入れるようにしているので安心されたい。

ただ、いつでもどこでもいきなり暖房や冷房で暑さ寒さを調節するというのは本末転倒だと思う。まず服で気温の変化に対応し、その上で暖房冷房(ここでは冷房は不要だけれど)を利用するのが古来からの人間の知恵なのだと思う。またそれがクールビズ、ウォームビズが定着しつつある我が国のみならず世界の時流だとも考える。

大切なお客様に寒い思いをさせるつもりは毛頭無いけれど、季節・気候にふさわしい服装で蓼科をじっくり味わっていただきたいと思っている。そのための暖房は必要十分以上のものにするつもりはない。Tシャツにショートパンツで部屋を30℃以上にむんむん暖めて過ごすというライフスタイルには賛同しかねるしだいだ。少なくともここはそのように過ごす場所ではないし、いまはそのような時代ではないと思う。

★★★

最近我が敬愛する友人ウォンウィンツァン氏のHPのリンク集からペンション・サンセットを知ったというお客様がいらしてくださることが多くなった。ご予約時にそのことを告げてくださるケースもあるし、チェックアウトの時に初めて話題にのぼってびっくりさせられることもある。

いずれにしても、ウォンウィンツァン氏との交友について語り出すと長くなるので、ここでは重複は避けるが、興味のある方はこちらでキーワードを「ウォン・ウィン・ツァン」としてサイト内検索してみてほしい。

ウォン氏とは魂の深いレベルでの縁(えにし)を感じている。何の利害関係もなく、魂のふれあいと共感のみで成立しているこれは本当の意味での「友情」だと実感している。それは「狩野さんがHPにお書きになっている世界観は私の音楽に通じています。13年の隔たりの後、それぞれが自分の世界を切り開きこのように再会したとき、それぞれのたどり着いたところが、同じところであったとは何と素晴らしいことでしょう。あの時に出会ったことの本当の意味を今、噛みしめています。」という6年前の氏の言葉に集約されているように思う。人生最良のこの出会いに感謝。

2006年09月04日

3488 公開を前提とした公的な日記

晴れ 気温:最低 9℃/最高 18℃

こんな風に個人的な日記を書き続けているとたまに奇妙なメールがやってくることがある。この日記の中の「僕」は確かに「個人」として登場していても、じつは「僕という実在する個人」ではないと言うことに気づかないひとからのメールだ。

この日記を公開するにあたって、僕は個人的な文章を書きながらも、これが公衆つまり不特定多数のひとの目に触れることをちゃんと意識して書いている。だから厳密に言って、この日記は公開を前提とした公的な日記として書かれている。

巧妙に自分を隠しあるいは演じることによって、自分だけではなく他者のプライバシーにも配慮している。だからここに書かれているプライベートな出来事や想いが100%事実であるとは考えないでほしい。これは事実に基づいている部分が大きい(かもしれない)「フィクション」なのだ。この点を強調しておきたい。

したがって、個人的ポリシーとして、この日記を読んでくださった不特定多数の方と「個人的なメールのやりとり」はしない。その点をご了承いただければさいわいである。この日記における「僕」は「パブリックな(公的な)個人」であって、「実在する僕個人」とは別物なのだ。

それを混同してしまうひとがいたとしても、それはひとえに僕の「力不足」が原因だと考えている。言い方を変えるならば、蓼科高原日記は、じつは日記風の「小説もどき」だったのだとお考えいただくとわかりやすいかも知れない。

★★★

さて、そのようにして今後も蓼科高原日記を書き続けていこうと思う。

今日もとても良い天気になった。だから、今朝も最低気温は9℃まで下がった。館内の温度は18℃、客室は20℃以上あったが、残暑厳しい都市部からお越しのお客様は暖房が恋しくなる気温かも知れない。(まあ、そんなに寒くないからご安心を。ただし、フリースやセーターが必要。)

きょうは庭でウソのつがいを見かけた。もう雛の巣立ちが終わったのか、二羽だけで枝から枝へと飛び移っていた。渡り鳥たちはそろそろ渡りの準備に入ったことだろう。ここに定住している一部の野鳥を残して、しだいにその数は減じていく。ちょっと寂しい季節になった。

今夜は月がとてもきれいだ。月齢11日だからもうすぐ満月になる月だ。秋の夜の月はひときわ美しいのは古来より歌われているとおりだ。月明かりで眼前の蓼科山や北横岳はもとより遠くの山並みまでくっきりと見えるのだからすごい。

これから数日間は、愛犬との散歩もほとんどハンディライトを点けずに全行程を歩ききることができるほど明るい夜が続く。星を眺めるのもすてきだが、そんな美しい月を見ながらその柔らかな光の中を歩くのもまた至福の体験だ。

今日も静かに群青色の夜が更けてゆく。

2006年09月06日

3490 スタイルの表現としてのペンション

曇りのち雨 気温:最低 11℃/最高 17℃

先日僕は『蓼科高原日記は、じつは日記風の「小説もどき」だったのだとお考えいただくとわかりやすいかも知れない。』と書いた。がっかりしたひともいるかも知れないし、裏切られたような気持ちになったひともいるかも知れない。

僕がそのように書いたことは真実だ。しかし、「真実」は一義的だが「事実」は多義的に、つまり、多様にその姿を現すものだ。この日記は事実を記している。しかしその事実はそれぞれの出来事のほんの一面に過ぎない。それが僕のような「物書き」では無い素人の文章の限界だ。

実はかつてあるお客様から「蓼科高原日記を小説のように読んでいる」と言われたことがある。そうなんだ、とそのとき僕は思った。これは書かれたとたんにフィクション(少なくとも通常の個人の日記とは異なったもの)になるのだ、と。なぜなら、先日も書いた通り、僕はある「スタイル」にしたがって日記を書いているからだ。

それは公開を前提とした日記を成立させる諸条件を満たしたガイドラインとしての「スタイル」であり、この中に登場する「僕」をぶれの少ない語り手として保持するための「スタイル」と言ってもいい。たとえば自分がペンションのオーナーであるということを大前提としてつねにお客様としての読者を意識しなければならない。

またウェブで公開する以上、公序良俗に反した記述は避けなければならない。登場する企業や組織や個人のプライバシー保護にも配慮しなければならない。観光地としての蓼科高原の不利益となるような誤った情報を伝える間違いを犯さないように慎重でなければならない。

たとえばそのようにさまざまな制約の中で僕はこの日記を書いている。「蓼科高原日記」に何らかの価値があるとするなら、「語り口」としての「このスタイル」だと(個人的には)考えている。書かれている内容にかかわりなくいつも変わることの無いこのスタイルこそが「僕」なのだ。

ペンション・サンセットがほかのペンションと決定的に異なるところ(あるいは特徴といってもいい)があるとすれば、ペンションにおいてもこのスタイルが生きているということだ。ペンションは僕の「スタイルの表現」なのだ。単なるハード、ソフトの統合体としての宿泊施設では無い。

僕のペンションになんらかの特徴的な「雰囲気」や「心地よさ」があるとするならば、僕らが「表現としてのペンション」を強く意識しているからかも知れない。ペンションは僕にとって「商売」というよりは「表現」なのだ。何かを演じているつもりは無いけれど、素(す)の自分がお客様を前にして「この場所のほんとうの心地よさ」へとご案内するということを意識している。

MC(マスター・オブ・セレモニー)として僕はペンション・サンセットという舞台に立っているのだ。僭越かも知れないけれど、僕はそう認識している。そうした意味においても、ここでの出会いは一期一会だ。

2006年09月09日

3493 そこそこの才能

曇りのち晴れ 気温:最低 14℃/最高 20℃

カシオのデジカメ「EXILIM」のCMに登場する女性に心魅かれる。空中回廊のようなレッドカーペットの上をファッションショーのようにウォーキングしてきてポーズを決めた時のある種不敵な微笑みになぜか強く心を動かされる。そのウォーキングする姿がまた美しい。

まったく知らない女性なのでファッションモデルだろうと勝手に思い込んでいたが、今日調べてみたらなんと昨年退団したばかりの宝塚歌劇団月組の男役トップスター、彩輝 直(あやき なお)と言う女性だった。どうりで別格のオーラを放っていたわけだ。

身長170センチのその容姿は男役だったとは信じられないほどたおやかで美しいオーラをはなっている。スターと言うものはやはり神に選ばれしものなのかも知れない。女優、彩輝 直がこのCMの魅力を引き出し、このCMの上質なクリエイティヴが彼女の魅力を最大限引き出したのだ。

カシオのウェブサイトにこのCMのメイキングオブがムーヴィーにしてアップされていた。それを見て僕はぞくぞくした、いや《血が騒いだ》と言った方がいいかも知れない。僕がその昔身を置いていた世界がそこにあったからだ。僕はあの世界を逃げ出すべきでは無かったのかも知れないと、ふと思った。

しかし僕は知ってしまったのだ。自分にはそこそこの才能しかないということを。そこそこの才能があるよりも、まったく才能がないほうがある意味では幸福なのだ。地獄よりも煉獄の方が堪え難いものなのだ。しかし才能のある人はあるひとで、その人なりの地獄を抱えながら自分の才能に突き動かされるようにして生きる他無い。そのこともまた僕は知ってしまった。

だから、やはり、いまの僕の方がかつての僕よりも幸せだと感じている。ここが僕の居場所だと心の底から思えるからだ。僕はここにいて、蓼科高原日記と言うクロニクルを毎日こつこつと書き続けることが分相応だと思う。また、それなりに幸福感も感じている。幸福感とは自分が自分であることを実感するということだからだ。

僕はいまここにいて、限りなく自分自身である。

2006年09月10日

3494 死はつねに生とともにあり

晴れ 気温:最低 13℃/最高 20℃

今日は朝から快晴、気持ちのいい秋晴れになった。午後一時曇り空になったが、その後ふたたび空は晴れ渡り美しい月と星空を堪能できた。「天高く馬肥ゆ」とはよく言ったもので夜空もやはり秋にはずいぶん高く感じる。その空気感がたまらなく爽快だ。

ペンション村の《お散歩ひろば》に植えたたくさんのコスモスが満開になった。例年よりだいぶ遅い満開だけれど、柔らかな陽射しの元でそれが風に揺れる姿はこの上ない秋の景色になっている。

9月は命の季節が終焉を迎える時節だ。植物の生育が終わり、結実し、それを落としあるいは播種し、紅葉しやがて落葉を迎える。動物の世界でも緩やかな世代交代が進行する。森はゆっくりと静寂の世界へと変わってゆく。

今夜もとても静かだ。夜更けだからと言うことでは無く、一日中静かなのだ。活気がないと言うのとも異なる、野卑で無粋な人間がそれをぶち壊さない限り続く、永遠を思わせる静寂だ。僕の人生もいまはっきりと《秋》と言う季節へと移ろっているのが実感できる。だからとても親しみを持ってこの季節を迎えるようになった。

秋は生命の終焉の季節であると同時に、収穫、結実の季節でもある。生命のピークである夏と言う季節を終えて、実りの時を迎える。人生で言うならばじつは黄金期と言ってもいいのかも知れない。確実に死へと近づいたのは確かでもそれは自然の理(ことわり)、長い上り坂もゴールが見えてきたと言うことなのかも知れない。

死が恐ろしいのでは無い。死へのプロセスが恐ろしいのだ、少なくとも僕はそう思う。死はつねに生とともにあり、それはひとつのものなのだ。だから、動物たちのようにそれをあたりまえのこととして自然に受け入れることができるようになりたい。人間は動物たちのように《いまを生きる》ということができていないから、生(つまり人生の現実ね)も死(つまりゲームオーバーね)も受け入れることが困難なのかも知れない。

それはさておき、じつに動物の自然治癒力はすさまじいものがある。愛犬パル君(シベリアンハスキー)の手術跡はよく見ないとわからないほど治癒している。麻酔が醒めた日はもとより、翌日夕方までまったく痛がらなかった。

夕方になって多少違和感を訴えてお尻を気にし出したので、もらっておいた痛み止めの錠剤を与えると、再びまったく気にしなくなり今日に至っている。昨日からなにごとも無かったかのように元気に散歩に出かけている。

獣医さんから10日後の抜糸がひと騒ぎでですよと言われているので今から覚悟している。なんでもない手術準備処置であんなに大騒ぎしたから、そんなふうに思っているのだろう。確かにパル君はそういうところで臆病で大騒ぎすることが多い。人間の悪意にさらされた経験がまったくないので、とても甘えん坊なのだろう、たぶん。

とは言え彼の戦闘能力はドーベルマンを上回るから、我々家族以外は彼を自衛的戦闘モードにさせないように注意して接するようにしなければならない。そうしないとふだんのグータラしたなごみモードから一気に精悍なコンバットモードに変わるのだ。

僕はパル君がペンション・サンセットにやってきて以来12年間、じつに多くのことを彼から学んだ。彼と一緒に過ごす時間は、彼の時間が流れる。それはわれわれ人間の時間とは決定的に異なった時間の流れだ。その中で、僕は生命にとってとても大切なことを自然に学ぶことができたように思う。彼の一挙手一投足が自然からのメッセージのように感じられた

獣医さんからは年齢のわりにとても健康なのであと3年は確実にこのまま元気で過ごせるだろうと言われた、そもそもハスキー犬は長生きだから、と。あと何年、あとどれだけ、僕はパルから教えられる日々をともに過ごすことができるのだろう。それが永遠であればいいのに。

2006年09月11日

3495 愛犬とともに歳をとるのも悪くない

曇りのち雨 気温:最低 13℃/最高 19℃

朝から雲の中に入っていた。それはいまも変わらない。曇りのち雨だったのは確かだが、その後は曇り時々雨という状況が続いている。愛犬パルは先週金曜日の手術以降どんどん回復している。昨夜の散歩、今日の散歩では手術以前よりむしろパワフルだったほどだ。やはり腫瘍のために体調が悪かったのかも知れない。

僕は今頃になって夏の繁忙期の疲れがどっと出てきたような感じだ。いくら眠っても眠くてしょうがない。どこが悪いというわけではないが、心身が休息を求めているように感じる。ちょうど激しい運動のあとのクーリングダウンのようなものなのかも知れない。

パルも日中はほとんど爆睡している。耳が少し遠くなったようだ。僕も耳が少し遠くなったようだ。パルは年齢相応かも知れないけれど、僕は年齢不相応かも知れない。子供の頃からやたら聴覚が鋭敏で30ヘルツ以下から20000ヘルツ以上まで聞こえていたから、老化が早く始まったのかも知れないし、そのことを敏感に感じるのかも知れない。

視力も衰えが激しくなってきて、老眼と乱視がかなり進んだ。もともと視力2.0以上の遠視だったから、これもそのために早いのかも知れない。また、眼のとらえる光量が減少したのか、そんなに暗いところでなくても「暗くて文字がよく見えない」ということが多くなった。その一方で星明かりのみで暗闇を歩くことができるのだから、自分の視力がどうなっているのかよくわからない。

なんだかパルと一緒に歳をとっているような気がする。別に苦にしてはいない、たとえこれがひとより早い老化現象なのだとしても、それが自分の加齢のプロセスなのだと受け入れている。肉体的な運動能力に関してはさほど衰えは感じなくなってきた。それについては老化が鈍化した感じがする。

記憶力、これは劣化が進んでいる。検索能力の衰えととらえたほうがいいタイプの記憶力の老化現象だ。「憶えているのに思い出せない」ということだ。思考能力も集中力の減退を感じている。もはや鋭敏で高速な思考は無理かも知れないが、そのように分析的ではない、総合的な思考能力はむしろ強化されたように感じる。

もちろんこれは、たとえば20代の頃の自分と比較した「相対的比較」の問題である。50代の僕に20代の能力を求めること自体が誤っていることは自覚している。ひとはその年齢なりに生きていくものだ。その年齢でしかできないことが確かにあるのだ。その年齢に達しなければわからないこともまたたくさんあるのだ。

いま僕はそのことを日々実感している。

2006年09月12日

3496 《匿名》状態における人間の行動傾向

雨 気温:最低 11℃/最高 15℃

秋の長雨のようだ。天気概況は当分雨の日が続くと告げている。でも台風が来ていないだけましかも知れない。ピラタスの丘は朝から霧がかかったような幽玄な風景になっている。雨は、そう、そんなに本格的には降っていない。ほとんど降っているのかどうかわからない程度の状況が続き、たまにはっきりとした降りになる。

今日は終日気温が低めだったけれど、寒さは感じない。身体が季節に順応してきたのと、森がいまだに湿潤で枯れていないせいだと思う。じめじめしているわけではないが、例年より湿度は高めだと思う。そのために、僕らにはこの夏はいつもより「暑く」感じられたのだが、お客様にとってはとんでもなく涼しいと感じられたという感覚のギャップがあった。例年並みの湿度ならば、ピラタスの丘の夏はもっとずっと涼しいのだ。

森の様子もいつもの9月とはいささか異なるようだ。いまだに黄葉、あるいは紅葉する樹木が散見される程度にとどまっているのだ。いつもだったら白樺の葉はすでに紅葉してはらはらと落ち始めているはずなのだ。タラノキやナナカマドやヤマブドウはそれぞれに紅葉しているはずなのだ。

地球規模で温暖化が進み、日本は亜熱帯性気候から熱帯性気候へと変化しているのではないか。様々な報道の告げるとおり、それは特異な気候としてではなく、日常的な気候として定着しつつあるように感じる。このように自然のまっただ中に身を置いているからこそ、そのことがはっきりとわかるのだ。

★★★

さて、先日(9/6)この日記で:

《しかし蔓延する匿名性によって現代社会が犯罪の温床になってゆくのを苦々しく思っているのは僕だけでは無いと思う。匿名性とは自分が自分であることに責任を持たないということだ。自分が行うこと行ったことに対して責任をとらずに頬被り(ほおかむり)して隠れることだ。

それは「プライバシーの保護」という概念とはまったく異なる行為だ。そのことがわかっていないひとが多すぎると感じている。》

ということを書いたが、今日ウェブで以下のようなことを学んだ。

《壊れ窓の理論というものがある。(中略)元々、この壊れ窓の理論は、「匿名状態では、人はより自己規制が働かず、無責任な行動をとる傾向がある」という心理学者フィリップ・ジンバルドの理論をベースにしているそうだ。そう言われてみれば、公衆便所に落書きをする人も、匿名性の保たれない自分の会社のトイレではあまり落書きはしない。もっとも壊れ窓の理論では、匿名性に加えて「窓がたくさん割れている」という事実が、さらに自己規制をなくしてしまうということを提唱している。》

出典はこちらの記事だが、記事の方の議論は僕の議論とはベクトルが異なっている。僕の興味を引いたのはこの理論における《匿名》状態における人間の行動傾向だ。誰でも「なるほど」と思うだろう。もし現在のネット界が治外法権的に「荒れて」いるとするならば、それはやはりネット特有の匿名性に対する寛容さにあるのかも知れないと僕は考えている。

本来的に「契約行為」である宿泊予約において「フリーメールアドレス(ヤフーやホットメールなどの無料メルアド)」を使うことも、個人情報保護の目的はわかるが、こちら側からみれば「準・匿名行為」に当たるということに気づいてほしい。

まともなネットショップではフリーメールアドでは買い物できないご時世に、ペンションはなめられている(あるいは下にみられている)と感じている。が、それは違うのね。これはお客様の不見識というよりは、ペンション経営者兼ウェブマスターたち(僕も含まれる)の不見識であり怠慢だと、やっぱり、僕は考える。

ペンション・サンセットでは従来からフリーメルアドの使用を避けるよう推奨してきたが、昨今むしろ増加傾向にあることを鑑みて、今後はフリーメルアドのお客様のご予約は一切受け付けないことに方向性を定めて暫時対応を変えていくつもりだ。フリーメールアドレスは匿名性を本質としたものだからだ。

そもそもフリーメルアドがどうして無料であのようなサービスを成立させているのかその仕組みを考えたことがあれば、あんなものを使う気にはならないはずだ。メルアドを取得するにはあなたの個人情報を(場合によっては洗いざらい)登録しなければならなかったのではありませんか?

僕の経験では登録したとたんにスパムメールがそのフリーメルアド発でやってきて驚いたものだ。「やられた!これはいっぱい食わされた」と思ったものだ。極論するならば、なにがしかの個人情報提供と引換にあなたはフリーメルアドを利用することができるのだ。そして一度登録した個人情報はフリーメルアドを解約したあともどこかに流れるか消えないで残るのだ。

きちんと個人情報を保護したいのならば、契約しているプロバイダーのメールアドレスをもう一つ用意して、個人的用途と、ショッピングなどの用途に分けて使うことだ。そして後者に関してはスパムメールが送りつけられてもやむを得ないと割り切ることだ。それならば、「匿名行為」あるいは「準・匿名行為」を行わなくても済むというものだ。僕はそのようにしている。

このようなことを書くと「また小うるさいことを言っている」と感じるかも知れないが、そのようなメンタリティーじたいが個人情報を売り買いするような社会を作り出していることに気づいてほしい。スパムメール(迷惑メール)の発信者が匿名、源氏名あるいは「なりすまし」であること、そしてその発信メールアドもまた匿名、「でっちあげ」あるいは「なりすまし」であることをみれば、自分が「匿名性を本質としたフリーメルアド」を使うという同様のことをしているのに文句を言える人がどれほどいるだろうか。

「匿名状態では、人はより自己規制が働かず、無責任な行動をとる傾向がある」のだ。みながそのような状態になって、より安全な社会、よりよい社会が構築できるだろうか。悪意を持って(これはもってのほかだ)、安易に、あるいは無定見に、あるいはイノセントに(そのようなひとが一番多い)「匿名行為」あるいは「準・匿名行為」を行うひとが減少するよう願うばかりだ。

2006年09月13日

3497 全然怖くないですよ〜

雨 気温:最低 10℃/最高 13℃

昨日ぐだぐだ書いてしまったけれど、要するに「個人情報保護と匿名の行使とは異なるものである」ということを言いたかった。個人情報保護を目的に匿名を行使するのは社会規範に照らしてに間違っている。個人情報を守るために匿名を行使しなければならない状況じたいを避けるのがもっとも賢明な行動だろう。

フリーメールアドレスの利用じたいは決して否定されるべきものではないが、少なくとも社会的に責任ある発言や商行為を行う場合には使用すべきではない。フリーメールアドレスはかつての一部のプリペイド携帯電話同様に「匿名性」をその本質として持っているからだ。相手にはあなたが実在する人物なのかどうかがわからない、「なりすまし」でないことを根拠無しに信用するしかない。

一方、あなたが契約しているプロバイダーの発行するメールアドレスには少なくともこの実在性の根拠が見いだせる。それは契約に際してプロバイダーに対して開示された非公開の個人情報を根拠として発行されたメールアドレスだからだ。そこが決定的に異なる。相手に対する個人情報開示とあなたの信用度とは正比例するのだ。これは社会の仕組みとして避けて通ることはできない。

「匿名」あるいは「匿名性」の乱用は避けなければならない。

どうしてそうなのかは9月6日および9月12日のこの日記で論じたので繰り返さない。


★★★

こんなことを折に触れては書くからかなあ、あるお客様に「オーナーが優しい方で良かったです。正直もっと怖い方かと勝手に思っていました。」なんて言われちゃうのかも知れない。(^_^;)

全然怖くないですよ〜。ヽ(^0^)ノ

ご安心下さい。(ホントです)

こういうことを言ったり書いたりするのはこの日記の中だけですから〜。

2006年09月14日

3498 「人を下に見る」ということ

雨のち曇り 気温:最低 9℃/最高 13℃

朝のうち雨が降っていたが、昼前から止んで曇り空になった。夕暮れ時、再びにわか雨が降ったがいまは止んで曇り空になっている。ピラタスの丘は今年は紅葉が遅く感じる。まだまだ夏の風情が濃厚なのだ。

ここ数日フリーメールアドレスたたきみたいなことになってしまったが、個人が個人的目的でちょっと危ない掲示板や当たり障り無いけどニックネームで参加するのが慣行となっている掲示板などでニックネームとともに使う分にはちょうど良いのかも知れないと思うし、それを否定するものではない。

しかし同じ「乗り」で商取引や責任ある発言をすべき場面でそれを使用することに異議を唱えただけであるということを、多くの善意のフリーメールアドレス利用者の方には誤解の無いよう、再度記しておく。

それはさておき、昨今「人を下に見る」という態度や言動や行為が増えてきている、特に、若い世代にその傾向が顕著な現象として現れてきているという。「人を下に見る」という意識は他者を自分より下に置くことによって自分をより上にいるように感じる「病んだ意識」だ。それはその根拠がないという点においても「あらゆる差別やいじめの根源的意識」である。

「人を下に見る」という態度や言動や行為はそもそも決して「品の良い」あるいは「人格の成熟した」印象を与えるものではない。それは「人間としてのあるいは一個人としてのプライド」とはまったく異なるものだ。後者は失ってはならない大切なものだが、前者は絶対的に否定解消されるべきものだ。それは相手に対して卑劣きわまりない態度だからだ。

相手が逆らえないあるいは反駁できない立場であることを見透かしてそのような態度に出るわけだからね。これは卑怯千万、卑劣きわまりない、ついでに唾棄すべき社会的行動だ。老若男女を問わず、自分のプライドの表出表現としてそのような態度をとることはまったく間違っている。プライドとはそのように野卑なものではない、もっと崇高なものだ。

本当の大人物は大人物だという態度をとらない。本当の人格者は人格者ぶらない。本当に偉いひとは偉いひとぶったりしない。それらは自然とにじみ出てある種のオーラとしてひとに伝わるものだ。「偉ぶる」必要はない、「威張る」ひつようはない、ひとを見下したような態度や言動をとるべきではない。それはあなたを貶めるだけだ、見た目は人々を自分に従わせたように見えるかも知れないけれど、人々は本当はあなたをさげすんでいるだろう。

それに気づかないとしたならそれはあなたにかしずいている人たちが良くも悪しくも狡猾で世渡り上手だからに過ぎない。あなたは「裸の王様」なのだ。

いずれにしても僕は、それが誰による誰に対するものであっても、社会的観点からも個人的信条からも、「人を下に見る」ことを許さない。

2006年09月15日

3499 排他性によってしか自己を確立できない人々

晴れのち曇り 気温:最低 8℃/最高 14℃

宗教の本質は「神」にではなくその「排他性」にある。この「排他性」無くして宗教は成立しないのだ。あらゆる戦争や武力闘争はこの排他性が原因であると言っても過言ではないだろう。宗教としての「神」が登場するのは排他性の根拠としてであり、戦争や武力闘争の理由付けとその遂行の正当性を裏付けるためである。

広島、長崎に対する米国の原爆投下「実験」を祝福した「神」を僕は信じるわけにはいかない。

無垢の人々を無差別に殺戮するテロリズムを祝福する「神」、聖戦を善とする「神」を僕は信じない。

異教徒を迫害し、殺戮する「宗教」を僕は信じない。

オウム真理教の元教祖の死刑判決確定のニュースを観て、ふとそんなことを思った。

ミクシィが隆盛を誇る時代にあって、排他性によってしか自己を確立できない人間の激増を思う。ある属性によってしか自己を位置づけられないということの危うさを思う。もちろん人間はひとりでは生きられないというのは永遠の真実だと思う。

しかし、この状況はそれとはちょっと異なっているように僕には感じられるのだ。

やはり人間も動物の一種であり、群れて生きる定めなのだと改めて思う。

「はぐれ猿」として生きることを選択したものとしては複雑な思いがする。

2006年09月16日

3500 そして日記は螺旋を描いてふりだしに戻る

曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃

僕らは過大な期待をしすぎていたのかも知れない。インターネットというインフラに、WWW(ワールドワイドウェブ)というひとつの世界観に。一個人が国境を越えて不特定多数の人々にメッセージを発信できると、いささかなりとも、思いこんでいたところがある。

しかしそれはどうも違っていたようだ。インターネットの世界でも、インターネットが出現する以前の現実世界と同じことが起こっているだけだ。個人のメッセージは個人のメッセージ以上の力を持ち得ないし、広告は広告らしくなければその効果が期待できない。新しいコミュニケーション形態は未だ出現していない。

それはケータイ以前とケータイ普及後の社会が何ら本質的変化を遂げていないということとも相通じる事実だ。それを使うのが人間である以上、そしてその人間が何ら進化していない以上、あたりまえのことかも知れない。インターネットとケータイというこのふたつのコミュニケーションのために用いられるインフラのもたらしたものといえば、社会における個人の匿名性の氾濫だけなのかもしれない。

また「匿名性」だ、やれやれ。

僕らは「匿名性」を身にまとうことによって、まるでなんでも透明にしてしまう魔法のマントをまとったような気になってしまう。自分は安全圏に身を置きながら何だってすることができる。この匿名性による自己の行為の秘匿こそ、現代社会の病理といえるだろう。

というようなことをまた書いてしまう。これでまたお客様が減ってしまうのだろう。がんばって書けば書くほど潜在顧客の数が減ってゆくような気がする。もっと楽しくて、おいしそうな話ばかり書く方が何倍良いのか知れないけれど、僕にはそれができない。

「匿名のペンションオーナー」としてお料理の四方山話(よもやまばなし)とか、パンを焼く話とかだけしていた方がずっとずっと良いのかも知れないのにね。

匿名を使わずに日記を書くという行為は結局はこのようなスタイルこのようなコンテンツへと帰結するほか無いのかも知れない。僕という実在の個人の核心から読者を遠ざけるために螺旋(らせん)を描くようにして個人的想いから話をそらせてゆくのだ。

螺旋構造(らせんこうぞう)は DNA だけではない。それは思考においても存在する構造なのだ。弁証法なども僕の感覚では「螺旋構造」そのもののプロセスのように感じる。しかも(少なくとも)僕の思考における螺旋構造はエッシャーの「だまし絵」のように、あるいは音楽における音階のように、のぼることもなくくだることもなく、進むこともなく戻ることもない。気がつけばいつの間にか「ふりだし」へと戻っている。

11年前に書き始められたこの日記は、おそらく、12年かけて巨大な「円環」を描くような気がしている。つまり、12年の歳月をかけて「ふりだし」に戻るのだ。それを「徒労」と呼ぶべきか、「いささかの進歩・進捗」と呼ぶべきか僕は知らない。

2006年09月20日

3504 樹木が一斉にはらはらと落葉を始めた

晴れ 気温:最低 7℃/最高 16℃

いやー、じつに久しぶりの快晴だった。厳密に言うなら一日中陽射しがあったのはじつに久しぶりのことだ。さんさんと陽光が降り注ぐ様を見るのはいったい何日ぶりのことだろう。じつに気持ちの良い天気だ。それに呼応するかのように、ピラタスの丘の樹木が一斉にはらはらと落葉を始めた。

といってもまだ緑色の葉だから、本格的な落葉は紅葉したあとになるけれど。それでもクルマで道を走っていると木の葉がフロントウインドウをさらさらと打つのだ。絵に描いたような「秋晴れ」だった。こんな日がずうっと続いてほしいものだ。身も心もすかっとする。

夕暮れ直後に山麓の街からクルマで戻ってくると、ヘッドライトの先に鹿の群がみえた。なんと5〜6頭の野生の鹿の群が「お散歩広場」を駆け抜けてゆくところだった。その情景はまるでおとぎ話の世界のようで、なんだか現実感がない。しかし間違いなくこれは現実だ。美しい情景だ。感動する。

出かけるときも子鹿が道路の真ん中にたたずんでいて一時停止を余儀なくされた。まったくひとを恐れないから運転には十分な注意が必要だ。特に夕暮れ時から翌朝にかけて、彼らはよく現れるから、そしてクルマのヘッドライトに照らし出されるとフリーズしてしまう習性があるから。

愛犬パルと散歩に出ると、自分の吐く息が真っ白なのに気づいて驚いた。Tシャツの上にざっくりした厚手のトレーナーを着てその上にゴアテックスのマウンテンパーカという服装だったが、それでも少し寒いくらい。帰ってきたいまも顔と耳が冷たい風で冷えてちょっと痛い。

そんな気温だから、空は晴れ渡って文字通り「満天の星」が頭上に輝いている。いつみてもぞくぞくする壮大な情景だ。眺めていると心がおおらかに大きくなってくる。

そういえば最近あまり経営のことを考えなくなった。正確に言えば、頭では考えなくなった。あるのはお客様に心地よくお過ごしいただきたいという漠然とした想いだけだ。精神的にはぐっと楽になったが、このまま行くとつぶれちゃうのかな、ははは。

まあ、水は高きから低きに流れるのたとえがあるように、結局はなるようになるのだ。こんなことを言ったからって、別に僕は「やけになっている」わけではないのですよ。これはピラタスの丘の自然から学んだことなのです。

2006年09月21日

3505 ここでは誰もあなたがあなたであることを責めたりしない

晴れ 気温:最低 7℃/最高 16℃

今日もすばらしい「秋晴れ」になった。天気予報では明日も、ということはこの週末も「秋晴れ」になりそうだ。週の初めの「週間予報」では週末はずうっと雨のはずだったのではなかったか。週間予報はいつも「週末は雨」と報道するのだ、それも断定的に言い切ってくれる。

このレベルの天気予報には誰も責任を持たないし、それによって旅行・観光業者が被害を受けても誰も責任をとらない。「お詫びして訂正」という段取りもコメントもない。「占い」ではないのだからこれは誰かが責任を持つべきだし、責任をとるのが社会常識というものではないだろうか、と僕は思うんだよね、ほんと。

それはさておき、蓼科では、というかピラタスの丘では、もはや「暑い」という日はなくなった。「暖かな日」や「寒い日」はあっても、「暑い日」はもうやってこない。蓼科には「残暑」というものがそもそもの始めから無いのだ。日が暮れたとたんに気温は急降下して、外に出ると吐く息が白く見える。

すっかりそんな気候になって、シベリアンハスキーの愛犬パル君は元気いっぱいになってきた。なにしろ彼の快適気温は氷点下10℃以下だから。快適環境は一面の雪と氷の世界だから。夏毛が抜けてしだいに冬毛に生え替わり始めてムクムクとしたぬいぐるみみたいになってきた。これがかっこうよくてかわいいのだ。

この季節、里に下りればそこには絵に描いたような「里の秋」がある。ゆったりとした時間が流れ、しっとりとした大気が夏の疲れをいやしてくれる。静かな静かな季節だ。ここでは誰もあなたがあなたであることを責めたりしない。あなたはそのままのあなたでいいのだ。

2006年09月22日

3506 TVドラマ「静かな時間」

曇りのち晴れ 気温:最低 8℃/最高 16℃

平原綾香の「明日(あした)」という曲がとても好きだ。倉本聰原作のTVドラマ「静かな時間」のタイトル曲だったのだけれど、初めて聴いたときから一発でファンになってしまった。なんだか胸がきゅんとなるのね、まるで思春期の頃みたいに。年齢を重ねるにつれてそんな機会はあまりなくなっていたから、なんだか不意を突かれてしまったというわけさ。

「静かな時間」というドラマを僕は「父親」の立場から観ることになった。年齢から言って当然のことだけれど、たとえば若い人が息子の立場から観たらどんな風に感じたのだろうか。奇しくも蓼科高原日記のかつてのサブタイトルは「静かな生活」だった。「静かな時間」とほぼ同義で名付けたものだ。

じつに僕はここで静かな時間を過ごしている。ラッシュライフとも言える激しい時間を20年ほど過ごしたあとで、僕はこちらに移住したのだった。気づいたときには心身とももうぼろぼろになっていたからだ。充実した濃密な時間だったけれど、それらの時間はしっかりととるべきものを僕から奪っていったのだ。

今夜 Amazon.co.jp と楽天市場に賞品レビューを書いていてふと思った。なにを書いていてもこのスタイルは変わらないんだなあ、と。そして、ああ、このスタイルこそが僕なのだ、と。セルフアイデンティティーなんてことは考えないほうがいい、セルフイメージなんて持たないほうがいい、百害あって一利無しだ。この僕が体験者だから間違いない。

しかし、スタイルには目を向けたほうがいいのかも知れない。自分のスタイルにはこだわったほうがいい、たぶん。表現手段やメディアは何だって良いのだ。文章でも、ファッションでも、写真でも、なんでもいい。ただ、誰のまねでもない、だれもまねできない自分のスタイルを持ちたいと意識し続けることは大切なことだと思うよ。

そんなふうにして生きていると、良い想いをしたり得したりすることよりも、嫌な想いをしたり損したりすることの方が多いかも知れない。いや、きっとそうなる。でもね、自分が自分であることこそが幸福なのだ、という観点に立つならば、僕らはどんどん先に進まなければならない。この道は間違っていない、この道を進むのが正しいのだ。

生来「世渡り上手」なひとはその才能に従って生きるのが良いだろう、しかし多くの「世渡り下手」なひとたちは、「自分の土俵で自分の相撲を取る」ほかないしそれがベストなのだと確信している。要するのそれこそが自分のスタイルで生きると言うことなのだ。

自分のスタイルを持つこと、自分の文体を持つこと、まずはそのあたりから始めてみてはどうだろうか。あらためて、僕もそうしてみようと思う昨今です。

2006年09月25日

3509 今日はどうしてこんなに空気が冷たいのだろう

晴れ時々曇り一時強風 気温:最低 6℃/最高 15℃

朝起きたときには雲の中、お客様がご出発になる頃には青空を背景に美しい秋の雲が流れ、秋の陽射しがさんさんと降り注ぎ、午後には曇りがちになって強風が吹きすさんで木の葉が舞い、夕方には風が止んでふたたび晴れてきた。

気温は最低が6℃、最高が15℃たったが、夜は再び6度まで気温が下がった。愛犬パルと散歩に出たが、気温以上に寒く感じ、僕はTシャツの上に冬用のpatagonia(TM)のシェルド・シンチラジャケット(分厚いフリースの裏地のついた厚手ナイロンのジャンパー)を着込んで襟を立て、頭には厚手のフリースの帽子をかぶった。

そんな出で立ちで小走りでペンション村を一周したが、まったく汗ばむことはなかった。耳が冷え切って痛いほどで、手袋をしない手が少し痛む。いつもは氷点下になるまでは手袋なんかしないのだけれど。今日はどうしてこんなに空気が冷たいのだろう。

うすい雲を透かして、星がきらめく。新月に向かっているので上空に月はない。凛とした大気と、漆黒の闇があるばかりだ。そういえば今夜は秋の虫の音が聞こえない。もう死に絶えてしまったのだろうか。森の奥の方でかさこそと音がする。一瞬驚くが、それは野生動物の立てた音ではなくて、大きな落ち葉が他の葉にあたりながら地上に落下するときの音だった。

紅葉まであと1〜2週間だ。この季節の移り変わりはめまぐるしく、あっという間だ。ぼやぼやしていると、気がついたときには銀世界になっているというものだ、いや、これは冗談抜きの話。今年こそ時系列で蓼科の紅葉の様子をたくさんの写真に写し取りたいと思っている。絵作りや、うまい下手は考えずに、記録として残そうと考えている。そのようにして写された写真の価値は何年もたってみないとわからないものだから。

それはさておき、あいかわらず Amazon.co.jp や楽天市場にカスタマーレビューを書いている。ちょっとはまってしまった感じがないでもない。書いていて気づくのは自分があいかわらずものに対するこだわりがひと一倍強いと言うことだ。モノひとつひとつにたいしてきちんと一家言あるのだ。自分でも驚くほか無い。だから、レビューはいくらでも書ける。まあ、内容やそのレベルを問われなければ、という注意書きが必要だけれど。

同様に、ペンション・サンセットでお出ししているお料理やパンやヨーグルト、その素材や調味料や調理法そして厨房で使用する道具に至るまで「一家言」持っているのだと言うことに気づいた。こだわりを持つことは悪いことではないけれど、いきすぎるとそのプラス面を台無しにしてしまうことを僕は学んだから、そうならないようにセルフコントロールに気をつけなければならないと思っている。

2006年09月26日

3510 Amazon.co.jp にカスタマーレビューを書く

曇りのち雨 気温:最低 5℃/最高 10℃

天気予報どおり正午から雨が降り出した。始めはぽつりぽつりという感じだったのが、急に夕立のような激しいふりに変わった。その後風が出たりもしたが、いまは普通のにわか雨のような降り方に変わっている。この雨は明日の朝まで降り続き、その後もぐずつくが夕方からは晴れてくるという天気概況だ。

9月8日に腫瘍の手術をした愛犬パル君の抜糸に行ってきた。最初から警戒してクルマに乗せるのもひと騒ぎだったが、獣医院が近づくにつれて何とか逃げ出そうとクルマの中でじたばたと大騒ぎしてもう大変だった。まったく大きななりをしているくせに、頭の中は子犬の頃と変わらないんだから。

しかし診察台に乗ると観念しておとなしく抜糸させた。これでもう大丈夫と言う獣医さんの言葉もあってひと安心。まあ、内臓の腫瘍では無くお尻にできた繊維腫だったので、今後も心配は無いとのこと。しかし今日の診療もまた彼にとっては怖い体験だったらしく、いまも犬舎にこもってすっかり気配を消しているパル君である。

さて、先日 Amazon.co.jp にカスタマーレビューを書いていることを記したが、これって「このレビューは参考になりましたか?」というかたちで投票ボタンを押せる仕掛けになっているので、読んだひとの反響がダイレクトにわかってしまう。当然「支持」もあれば「不支持」や「反感」や「悪意」もありうるわけだ。

その点でこの日記よりもはるかにパブリックな発言とみなされているわけで、かなり怖い行為でもあると感じている。しかしそれによって自分が鍛えられると言う側面もあるので、あえてチャレンジを続ける所存だ。いずれにしてもいまやネット界は「渡る世間は鬼ばかり」なのだ、たぶん。(ドラマは見たことないけど)

「ウェブログ(web log)」という定義から言うならば、この日記は「ブログ」と言って差し支えないが、システムや機能の観点から見れば「ブログ」の要件を満たしていない。このページはすべてHTMLによって記述されているからだ。RSS機能は備えているが、トラックバック機能やコメント書き込み機能は無い。

加えてコンテンツとしてもいまはやりの「ブログ」の要件を満たしていないように思われる。この日記は当初のタイトルが「オーナーのひとりごと」だったことからもわかるとおり、独白文なのだ。社会事象をタイムリーにとらえてインタラクティブに論じるものでは無いし、そのことに関して第三者と議論するものでも無い。

だから蓼科高原日記がいま風の「ブログ」に変身することは無いと思うし、僕にはそれができないのでは無いかと考えている。

ピラタスの丘では樹木が急激に緑から黄色へとその色彩を変化させている。今日のように強い風が吹くと庭や道路にはかなりの量の落ち葉が降り積もるようになった。じつに劇的にそのように変化したのだった。まるで誰かがかちっとスイッチをいれて季節を「秋」に切り替えたみたいに。

今夜もまた冷え込んでいる。そしてどこまでも静かな夜が更けてゆく。

2006年09月28日

3512 港に休む帆船

晴れ 気温:最低 6℃/最高 15℃

久しぶりに朝寝坊した。この時節のピラタスの森は本当に静かで、耳ざといシベリアンハスキーのパルでさえ、つい寝過ごしてしまうほどなのだ。寝室に面した庭にいる彼が寝坊すると、外からは何の物音も聞こえず、しんとした夜明けのような気配だけがあたりを支配する。庭の樹木に遮られて窓に直接陽射しが入ることがないので、カーテンを開けてみないことには今が何時なのかもわからない。

風の音、葉擦れの音、野生動物の発するかすかな気配、ボイラーが止まったときにすることんと言う配管の音。眠りを妨げる音はなにもない。穏やかなゆったりした時間が流れてゆく。ピラタスの丘の時間はそのようにゆっくり流れるのだ。

お客様のいらっしゃらない日のペンションは港で休む帆船のようだ。帆を下ろし、埠頭にもやって、しずかに息を潜めている。船体を打つちゃぷちゃぷという小波の音だけが、いまも時間が進行しているのだと告げる。ひゅーひゅーという風の音だけが、来るべき航海を予感させる。大きな帆いっぱいに風を受けて力強く外洋を進んでゆく巨体を思う。

小さな野鳥が犬舎の前で抜け落ちたパルの夏毛を収集している。この時期にいったいなにに使うのだろう。コガラは一年中ここに生息しているから、越冬に備えていまからこの暖かな毛を集めているのかも知れない。その向こうの木の下で、パルはぐっすりと眠っている。小鳥にはまったく関心がないようだ。

深い夢から覚めて僕はそのような平和な情景を観ている。深海からゆっくりゆっくりと浮上するように僕は目覚める。海面から差すほのかな光を全身で感じ、やがてそれは現実の光として視覚で捉えられ、はるか頭上で海面の揺らめく光の反射を観る。と、突然僕はここにいる。

夜床につくと、この反対のプロセスが反復される。そのように入眠し、そのように覚醒する。それがピラタスの丘の「アフターダーク」の習わしだ。夜行性動物はいるが、夜行性人間は存在しない。また、そのような人間が息づける街の明かりも、また存在しない。

2006年09月29日

3513 Amazon.co.jp に感銘を受ける

晴れのち曇り 気温:最低 6℃/最高 15℃


Amazon.co.jp でインターネットショッピングをした経験のある人は多いだろうと思う。こんなとんでもない山暮らしだから、僕もじつのところよく利用している。とても良くできたサイトで、商品検索を含めてお目当ての商品へのアクセスが容易で、その後の比較検討から購入に至るまでの流れが自然でスムーズなので、ついつい迷いを振り切って購入に至ってしまったことも一度や二度ではない。

商品ブラウズや購入の履歴をしっかり記録していて膨大なデータベースからユーザープロファイルを作成し、それに基づいて「おすすめ商品」を提示する仕掛けになっているのだけれど、その的確さと来たらまるで(たとえが悪いけれど)心の中を含めて個人情報をそっくり持って行かれたような感じなのだ。じつにツボにはまった商品を薦めてくる。

このようなサイトをペンション・サンセットのサイトで実現できたならどんなにユーザビリティーが向上するだろうかと夢想してしまう。個人的にはベスト・オブ・ベストのサイトだと評価している。

しかし、ひとたび Amazon.co.jp と連絡を取りたい事情ができたときには事情が異なってくると言うことを最近体験した。ひとことで言うならばものすごく距離を置かれている感じがして「遠い」のだ。相手の顔が見えない、相手の声が聞こえない。交渉の余地などというものはまったく存在せず、じつにプログラムどおりの対応でそれはじつに不条理を感じるほどなのだ。

試しに一度「お問い合せ」のリンクをたどってみるといい。巨大迷路みたいに堂々巡りの連続になる。ぼくはいまだにサポートの電話番号を見つけられないでいる。かろうじて奥の奥にあったお問い合せフォームにたどり着くのが精一杯だった。

そうした「日本的な意味でのホスピタリティー」を Amazon.co.jp に期待してはいけないのだろう。また、日常的な購買行動のようにフェース・ツゥ・フェースのコミュニケーションを期待してもいけないのだろう。さらに通常の「小売店」のような対応を期待してもいけないようで、Amazon.co,jp の業態は基本的に「商品取次業」であるということを知っておく必要がある。購入後の商品について Amazon.co.jp は一切関知せず、フォローはメーカーなり代理店が行うということになっているのだ。

これは批判ではなく、知り得たことの開示に過ぎない。そのようなものなのだということを言っているだけだ。それを知った上で利用する限りにおいて最高のパートナーとなりうるネット企業でありサイトなのだ。だから、そのような「但し書き」付で、今後も僕は Amazon.co.jp 利用し続けることだろう。

こんなことを書いたのも、日本的常識や社会通念から逸脱してもそれに勝るユーザビリティーを明確に示すことができるならばビジネスとして成功しうるのだという「感嘆」を述べたかったからだ。

2006年10月04日

3518 人生は円環を描く

晴れのち曇り 気温:最低 9℃/最高 15℃

朝から良い天気で、じつに気持ちのいい一日だったが、夕暮れ間近になってピラタスの丘全体が雲の中に入ってしまった。おそらくここだけ濃霧状態になっているのだろう。雨とも濃霧ともつかない。建物周りの照明も遠くまでは届かずに拡散してしまう。

少し離れたところから観ると、きょうのペンション・サンセットはとてもファンタジックなたたずまいだ。まだ高原暮らしを始める前は、こんな霧の夜(実際は雲の中に入っているだけ)にはえもいわれないロマンチックな気分になったものだ。流れ揺蕩う(たゆとう)霧の粒子に自分の想いを込めてしまう。

毎朝ラウンジに出る度に景色がはっきりと変化していて驚くばかりだ。森の様子がどんどん変わっている。紅葉に向かって、まず色彩が変化し、いつの間にか地面は黄色や朱色の落ち葉で彩られている。精神の回廊を歩むようなバッハを聴きながら、それがこの情景にたとえようもなくマッチしていることを感じる。

しかし想いは伝わらない。伝えるべき対象を欠いているからだ。伝えたい誰かをイメージできない僕がいる。かつて僕は伝えるべきことを伝えるべき相手に確実に伝えるという仕事をしていた。広告会社というのはコミュニケーション産業なのだ。僕はいつもいつも伝えるべきことと伝えるべき相手とを繋ぐ手段を夜も寝ないで考え続けていた。そして気づいたことは、自分にはこの仕事を続ける資質が致命的に欠けているという事実だった。

そのようにして僕の前半生は終わった。僕は勝負を下りて、改めて「自分の土俵で自分の相撲を取る」ことを求めた。そして10年後、ふと気づくと「ここ」にいた。若かった僕は自分を変えたかったのだろう。自分にとってもっとも居心地の悪い、もっとも不得意な環境に自分を投げ込んだのだ。

若い頃は何でも「演じきる」自信があった。まったく根拠のない自信だ。誰にだって若い頃にはよくある勘違いだ。どんなことをしたって、どんな仕事をしたって、どんな経験をしたって「自分の核心」とでも呼ぶべき部分は決して変わらないし、変えることなんてできないのだ。ブーメランのように僕は「自分というこの場所」に戻ってきていた。

そのようにして「円環」を描いてひとは結局「自分」に戻ってくるものなのだ。決して「自分」からは逃げられない。自分を見捨てることもできないし、自分から見捨てられることもない。自分になるしかないのだ。なぜなら、ひとは「自分」になることを運命づけられて生まれてくるからだ。

人生に「意味」を見いだすことはほとんど不可能か、見いだしたとしてもそれは便宜的な「幻想」にすぎない。しかし人生の目的と価値を定めることは可能だ。「ひとは自分になるために生きている」ということだ。だからこそ幸福とは「自分が自分である」ということに違いない。本当の自分はここにいる。最初からね。きみはいったいどこを探し回っていたのかね。こんな霧の深い夜に。

2006年10月05日

3519 秋の雨音

曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃

朝のうち曇り空だったが、昼前には雨が降り出した。土砂降りでは無いが始めから本降りになった。高原の雨はきれいだから、雨が降るほどに屋外駐車してあるクルマがきれいになっていく。ペンション・サンセットの敷地内のアプローチの砂利道や駐車場に降り積もった紅葉を打つ雨音、樹木の葉を打つ雨音がぱたぱたさわさわと聞こえる。

この季節の雨はそのように清冽な印象がする。雨の日の午後を過ごしながら「なんだかすごく静かね。」と妻が言う。そうなのだ、雪降る夜の次に静かなのだ。特にこの季節の雨降りの午後は、何もかもが眠り込んでしまったような静寂に満ちている。森に降る雨はそもそも静かなものなのだけれど。

中庭の犬舎のなかでシベリアンハスキーのパルが熟睡している。夜中は最近特に野生の鹿が徘徊しているので、おちおち眠っていられないから、明るいうちに安心してゆっくり眠っている。風も無く、樹木も揺れない、雨はまるで定規で引いたようにまっすぐな軌跡を残しながら空から地表へと降り続けている。

まるで時間が止まってしまったような錯覚に陥る。どこからともなく、いや、僕の頭の中からか耳の奥からかきーんという音が聞こえてくる。自分の呼吸する音がはっきりと聞こえる。二重ガラスの向こうの景色は一幅の絵画のように色鮮やかで癒しに満ちている。

その一方でこの景色はどこか心うきうきするものを感じさせる。わくわくしてくる。紅葉が始まる時にはいつもこの気分が支配するようになっていく。秋に収穫されるのは田畑の作物だけでは無く、景色もまた収穫の季節を迎えるのだ。雨が降っていても空は明るく、景色はくっきりとしている。

Power Mac G5 のたてるぶーんという音、僕がキーボードをたたく音以外なにも聞こえない。夜になってピラタスの森はますます静かだ。自分がいま覚醒しているのか眠っているのかも定かでなくなるほどに。

2006年10月09日

3523 「自分が自分であること」に耐える

晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃

山暮らしはいつも命がけの危険と隣り合わせの力仕事、というか「闘い」です。周囲のひとはそんなことは当たり前で何とも感じていない、とういか、言うまでもないから何も言わずに淡々と作業なさっているようですが、肉体労働未経験の都会育ちのビジネスマンだった僕は、とても「ひ弱」で、いつもびくびくしながら作業しています。(^_^;)

そう、僕はこの地に暮らすようになって知った。自分の弱さを、それも自分の本当の弱さがどのようなものなのかを。それを知ったからといって、急に何かが変わるわけでもないし、好転させる方法が見えてくるわけでもない。でも、知らないよりは知っていた方がいいと思っている。

強くなりたいと想っても、そして実際に強くなろうとしても、それで強くなれることは先ずあり得ない。それは経験的事実だ。でも。強さってなんだろうと考えたとき、それが「耐える強さ」だってことに気づいた。何に耐える強さかというと、「自分が自分であること」に耐える強さだ。

「自分らしく生きる」というのはそういうことなんだ、シンプルに言ってしまえば。

ひとは互いに相手を自分の価値観なり世界観に従わせようとしながら生きている。「組織」とか「地域」とか「仲間」とか、それはあらゆるレベルにおいて自然な原理として存在する。それから逃れて生きていくことはほとんど不可能だ。

そこで、選択肢はおおまかにふたつ。(1)自分を捨てて相手に合わせる、(2)自分の生き方を通す。

前者を選択するのが常識的選択かも知れない。が、後者への欲求はしだいに増すのどの渇きにも似てわれわれを苦しめることとなる。「自分は一体何者なのだ?」という問いかけとなって我々の魂をゆさぶり不安にする。

「自分を捨てて」というのはじつに巧妙なレトリックであって、これは強者が弱者を従わせ支配するときの美しく甘美な常套句である。「もっと馬鹿になれ!」という言葉も本質的には同じものだ。その証拠を示すのはじつに簡単だ。強者、支配者が「自分を捨てて相手に従う」のを見たことがあるだろうか、それは強者の敗北に他ならない。それを行えば彼はもはや支配者ではなく被支配者である。

「もっと馬鹿になる」ような支配者はいない、それではもはや支配者ではいられないからだ。百歩譲って別の意味において比喩として「もっと馬鹿になる」ことが有用なケースはあるかも知れない。が、それは人に言われたり命じられたりする筋合いのものではない。自分で考え自分で決めることだ。それこそよけいなお世話というものだろう。

「人の和」を説く人間は「秀でた(ひいでた)」強い影響力・支配力を持った人間ばかりではないだろうか。「和をもって尊しと為す(わをもってとうとしとなす)」と説いたのは聖徳太子だが、この言葉は絶対的支配者である聖徳太子が説いたからこそ意味を成すのであって、名も無き民が発しても実際的にはほとんど意味を成さない言葉だったろう。

もっとも、この言葉はかなり誤った用法で用いられているケースが多いようだけれど。興味のある方はウェブ上で検索しても良いし、辞書を引くなりして調べてみるのも興味深いかも知れない。

「小異を捨てて大同につく(しょういをすててだいどうにつく)」も同様に(意図的に)誤った使い方をされていることが多い。ここで言う「小異」こそ「個人の尊厳や固有の権利」であり「本当の自分」であることが多いのだ。意見や見解の小さな違いを捨てて大局的合意をするという本来の意味とは異なった使い方をする支配者。「大同小異」、危険な言葉だ。

さて、僕はといえば、ばりばりの「組織人」として自分を訓練し、組織人として前半生を生きた。そして自己崩壊寸前までいってしまった、少なくとも内面的には。要はバランス感覚が悪かったということなのだけれど。簡単に言ってしまえば、「本音(本当の自分の生き方)」と「たてまえ(自分を捨てて所属集団の価値観に則って生きる)」の使い分けがうまくなかったってこと。

だから、ここへやって来たのは、「本当の自分の生き方」を実現する、実際的には「実践する」、ということだったのです。しかし実際のところそれはどこにいたって「ハードボイルド」な生き方です。向かい風の人生ですね。場合によっては村八分的人間関係の危機をはらんだスタンスです。だから「快適で安楽で楽しい人生」を求めているわけではない。つらくて孤独な闘いの後半生を選択したのかも知れない。

でもその選択以降の僕こそ本来の「自分らしい自分」だと胸を張って言えるし、そんな自分がうれしい。

そんな僕にたいして反感を持つ人間もいるだろうしそうでない人たちもいると思う。それが自然なことだ。敵もいれば味方もいる、さらに敵か味方かが曖昧な人たちも圧倒的多数存在する。それが自然な姿だし、その曖昧さに耐えることこそ自分を強くする唯一の成長過程だとも思っている。

だから本当は僕は孤独ではないのかも知れない。それは単なる「孤独感」にすぎないのかもしれない、誰もが時として感じる。そのような孤独感を持たないひとはおそらく自分が「共同幻想」の世界に生きていることに気づいていないのだ。しかし、誰の人生においてもその事実が暴かれる日はやがてやってくる、確実に。まあいいか、ゲーテがファウストに言わせたように、しょせん「万物はメタファー」なのだから。


(注)実はこの文章は2004年6月某日に書いた日記の一部だ。思うところあって転載する。

2006年10月10日

3524 100万アクセス達成

晴れ 気温:最低 3℃/最高 12℃

昨夜半にこのサイトのアクセスカウンターが100万アクセスを越えました。1996年7月以来4年かかって10万アクセスでしたから、その後の6年余で90万アクセスという計算になるわけで、インターネットの爆発的普及と回線のブロードバンド化の進展には目を見張るばかりです。

某白書によれば1996年に500万人ほどであったインターネット利用者数は昨年約7000万人になりほぼ飽和状態とのことですから、インターネットを必要とするひとにはすべてそれなりの回線接続が完了しているということのようです。

いずれにしても、このサイトを訪れて下さる方々がいらっしゃるからこそ開設当時は夢のまた夢であった100万アクセスを達成できたということです。みなさまのご愛顧(?)に感謝しております。ホームページ(=ウェブサイト)を運営していく動力源は、アクセス数といっても過言ではありません。見て下さる方がいるからこそ日々の更新をさぼれないし、もっと良いものにしていこうという動機付けがなされるわけです。

昨日から今朝にかけて、100万アクセスを一区切りとして、二つのことを実施しました。ひとつは閲覧者の安全と利便性を向上させるための「セルフレイティング」および「セルフラベリング」、そしてふたつめはコンテンツやサイト設計を改善するために利用する意図での「Google Analytics」への参加です。

それぞれどのようなものでどのようなことがなされるのかということは上記の単語をクリックしていただくとリンク先に説明がありますので、ご覧いただければさいわいです。これらによってより閲覧者の立場に立ったサイトにグレードアップすることをめざします。

ペンションの集客サイトとして考えた場合、このサイトはアクセス数のわりに集客数が少ないという「落第サイト」といえるかも知れません。集客に特化すればもっと集客効率を上げることができるのかも知れません。正直なところ、この10年余そのことをずうっと考え悩み続けてきたことを告白せざるを得ません。

しかし、これが僕のスタイルなのです。ペンション・サンセットのスタイルなのです。これは変えられません。本当のところは、変えようとしたこともあるけれどその試みは水泡に帰したということです。やはり「自分の土俵で自分の相撲を取る」ほか無いしそれがベストウェイなのだと思います。やれやれ・・・。

このサイトへのアクセスは、おかげさまで、開設以来漸増的に増加しています。その結果累積アクセス数のグラフの傾きは増加し続けています。アクセス数はコンスタントに増加傾向にあり、たとえばトランプの赤あるいは黒がでる確率、つまりまったくの偶然性に依存した確率分布(=二項分布)の確率密度にはあてはまらず、アクセス数の累積カウント数は緩やかな立ち上がりの指数関数のグラフを描いています。ということはご覧下さる方が「偶然このサイトに行き当たったということではない」ということを指し示しています。

このことは、数学的には決して偶然では無く、ある目的を持ってこのサイトにアクセスし閲覧して下さっているということを示しています。その「ある目的」を漠然とでは無く明確に僕が知りそのニーズに応えていくのが今後のこのサイトの使命(ちょっと大げさだけど)では無いかと考えているしだいです。

まあ、ペンションのホームページですから、ある目的を持ってアクセスするというのは蓋然的であるわけですけれど。それにしても、アクセスに至るまでのプロセスは完全な偶然性に支配されているわけでは無いということでもあります。この事実から推測されることはアクセスする方の多くが Google や Yahoo! などの検索サイトを利用しているであろうということです。

僕はそのことを認識し、この状況に日々対応しています。数学的なことやマーケティング的なことはさておき、このサイトとお客様との出会いを僕は「一期一会のかけがいの無い出会い」だと考えています。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2006年10月11日

3525 その思いを手放すのだ

雨 気温:最低 5℃/最高 10℃

Everything's gonna right! そう思いたいけれど、性分なのかついついいろんな心配事を抱え込んでしまう。そんなだからサラリーマンというかビジネスマン落第だったわけさ。もっとひらりひらりと世渡りできなくっちゃね。でもそれができないのが僕という人間なのだ。このことからは逃げられない。

だから逃げることをやめたわけだ。逃げることを止め、自分でない自分を演じることを止め、自分でない《本当の自分》とやらを探すことを止め、ありのままの自分で生きていこうと決めた。どうあがいたところでひとは自分という事実からは逃げられないのだ。

そう決意したのは、それができたのは15年ほど前のことだろうか。結論から言ってしまえば、それは簡単なことだった。それまで守るべきものだと信じてきた、それまで築き上げてきたと思い込んでいたものをすべて手放せば良いのだ。インドの聖者が言った「その思いを手放すのだ!」と。そのとおりだった。

手放せばすっと身も心も軽くなる。それが探し求めて止まなかった「本当の自分」だった。あっけないほどあたりまえにそれはそこにあった。僕はシンプルに「僕」だった。なんの肩書きもなく、しがらみもなく、守るべきものも無く、迷いも無く同時に迷わないということも無く、ここにいたのだ。

なんだか100万アクセス達成を機に、きゅうにしゃんとした印象なのだけれど、これは「たまたま」なのだ。これは僕の「振れ」の範囲内のことなのだ。想定内のゆらぎなのだ。なにしろいま語っている僕は「パブリックな僕」だからね。個人的な生身の人間としての僕では無いのだから。

さて、今日は朝からいかにも高原らしい雨降りとなりました。空は明るいのだけれど、そして降りはたいしたことがないのだけれど、とうとう宵まで雨が止むことは無かった。夜半には完全に止んで空は晴れてきたけれど。天気予報では明日以降当分は晴れマークがついているから、今週末は絶好の紅葉狩りのタイミングになると思います。

蓼科の紅葉は、現在標高2000m〜1900mあたりまで降りてきているので、週末にはちょうどピラタスの丘ペンション村(標高1750m)まで降りてきて鮮やかな紅葉世界になると思われます。蓼科湖や白樺湖は標高1300m〜1200mだから紅葉が最盛期を迎えるのは10月末から11月上旬になります。これがまたなんともきれいなのだ。ちなみに渓谷美が売りの横谷峡の紅葉は今週末から来週末あたりになりそうです。

今夜もピラタスの森はしんと静まり返って、野生動物の気配の他はときおり吹き抜ける風の音が支配しています。あ、でも、ときおり鳴くフクロウの声と野生の鹿の鳴き声が、夜のしじまを破って遠くから聞こえてきます。僕のペンションでも鹿除けに建物回りに夜間照明を施しましたが、いまのところ効果が出ているようで、朝起きて庭に鹿の糞が転がっているようなことが無くなりました。

ピラタスの丘も開発から30年余を経て、ふたたび野生に支配され出してきているのを感じます。

2006年10月12日

3526 と、ぼくは想っている

晴れ 気温:最低 6℃/最高 12℃

今日は比較的暖かでした。というか、館内にいるより外に出た方が陽射しを浴びる分だけずうっと温かく感じるし、実際に活動してみると少し汗ばむほどだった。しかしさすがに半袖では身体が冷え切って鼻水が出てきてやがてくしゃみをすることになる。厚手のトレーナーを着てちょうど良い。

昨日までに館内の照明の電球交換を終えたので、今日は屋外の灯火の電球交換を行った。そんなに長いはしごを使わなくても良いので、樹木の枝打ちよりははるかに安全だし気分も軽い。日が暮れたあとに点灯試験をしてみたけれど、電球型蛍光灯の進歩は著しく、明るさや光の色味についても白熱球と遜色なかった。

省エネルギーは時代の要請でもあるから積極的に改善を図っています。特に最近は野生の鹿が敷地内に入り込んだりするので、夜通し建物周りを照明する必要があるので、省エネは必須なのです。出入り口周りは低誘虫の波長の黄色い電球を使い、それ以外は「光害」とならないように照射範囲の狭いスポットライトタイプのレフ球を使っています。そのどれもがいまや電球型蛍光灯で提供されているのだから、これを使わないては無い。

経費節減という観点からはどうでしょうね、電球型蛍光灯は白熱球の10倍近い値段で寿命が4〜5倍ほどですから、節電できた分を加味してもさほど大きなコスト減にはならないかも知れません。しかし、使用後の電球の処分や消費電力の削減という側面を見ればとても環境に優しいのでは無いかと考えています。

ということで、光の波長の微妙なニュアンスが大切な芸術作品やライトアップは別として、実用に供する明かりに関しては僕は積極的に蛍光灯化をすすめています。実際よく見てみれば高級なホテルでもレストランでも意外な場所にこの電球型あるいは電球色(白熱灯の色味の)蛍光管が代替電飾として利用されていることに気づくことでしょう。

この蛍光灯もやがてすべて高光度・高輝度LEDに取って代わられるのも時間の問題でしょう。そうなると白熱灯はもはや芸術や趣味の明かりとして認識されるようになるのでは無いかと思っています。個人的には白熱灯の光がとても好きなのですが、用途と光のニュアンスを勘案して使い分けているしだいです。

お客様はペンション・サンセットではご家庭でよく行っておられるようにまめに電灯を消す必要はありません、いやむしろ消さないでいただきたい。蛍光灯はその特性上、点滅が寿命を縮める最大の要因なのです。消費電力は常時点灯でも白熱球の1/4〜1/5程度ですからその方がトータルに考えて省エネになるのです。

あ、浴室と洗面所とお部屋の電気スタンドは白熱灯ですから、こちらはこまめに消していただけるとさいわいです。あとはおおむね蛍光灯あるいは蛍光管を使用していますから点けっ放しの方が省エネになります。(^^)

むしろお願いしたいのはこれからの季節は全館暖房を入れるのですが、灯油価格は昨年の2倍強になっていますから、真冬なのに部屋の中で半袖になってがんがん暖房したり、あげくのはてにタバコの煙を出すために外気温氷点下20℃の夜に窓を開けて換気するなんて「あんまりな」ことだけはしないでいただきたのです。特にお若い世代の方には人類の古来よりの叡知である衣服による温度調節を改めて学んでいただきたいと愚考するしだいです。m(_ _)m

誤解の無いように記すならば、じっさいにはそのようなお客様はペンション・サンセットではほとんどゼロに近いので余計なことを書いたなあという気もしないでは無いです。しかし、たまに絵に描いたようにそれをなさるお客様がいらして、そういう時には窓を閉めていただくようお願い申し上げるのですが・・・。うるさいオヤヂだと想われるのもいやだしなあ。(^^ ;

2006年10月13日

3527 Oh My Love

晴れ 気温:最低 3℃/最高 12℃

久しぶりに聴く John Lennon の歌声。しんと静まり返った秋の夜に波紋のようにひろがってゆく。

Oh My Love

Oh my love for the first time in my life,
My eyes are wide open,
Oh my lover for the first time in my life,
My eyes can see,

I see the wind,
Oh I see the trees,
Everything is clear in my heart,
I see the clouds,
Oh I see the sky,
Everything is clear in our world,

Oh my love for the first time in my life,
My mind is wide open,
Oh my lover for the first time in my life,
My mind can feel,

I feel the sorrow,
Oh I feel dreams,
Everything is clear in my heart,
Everything is clear in our world,
I feel the life,
Oh I feel love.

(C) Written by: John Lennon & Yoko Ono


バッハのどのアリアよりも素晴らしい。僕が言うべきことは何も無い。ジョンのアルバム「イマジン」に収録されているので、機会があったらぜひ耳を傾けて欲しい。

2006年10月15日

3529 コミュニケーションと冗長度(redundancy)

晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃

昨日の日記にも書いたけれど、このサイトのトップページをペンション・サンセットのページに変更した。これまではいわば「扉ページ」あるいは「表紙」にあたる蓼科高原日記をメインコンテンツとするページがトップページだった。

ぼく個人の美学としてはこれがベストだったのだけれど、閲覧者動向を追跡してみるとかならずしもベストとは言えないことがわかった。結論めいたことをいってしまえば、みなさんいそがしいのだ。昔みたいに1分いくらの高額な電話料金+インターネット回線接続料金を取られるわけでもないのに、まるで「駆け抜けてゆく」といった風情なのだ。

平均すると1ページ当たりの閲覧時間が数十秒というのではまともなコミュニケーションは成立しないと思うのだが、それが実態だ。どうりで「ホームページを見ているのですが」とおっしゃりながら電話でご予約いただいても、ホームページにはっきりと書いてあることを読んでいらっしゃらないお客様が多いのだ。

見てはいても、読んではいないし、理解もしていない。これは自己防衛的コミュニケーション拒否といえなくもない。しかし、情報過多時代にあって個人としても情報のフィルタリングが必要なのは理解できるが、必要な情報までフィルタリングして拒否してしまうというのはもう現代の「社会的病理」というほかない。

要するに「ぜんぜんひとのはなし聞いてないし〜」ということなのだ。(^^;)

このような時代に合ってはむしろ「情報過小」という逆の方法をとったほうがコミュニケーションが成立しやすいのかも知れないと考え始めている。たとえば世にはびこる「パワーポイント型プレゼンテーション」が良い例だ。メインタイトルは1ページにつきひとつ、1ページにつき3項目のサブタイトル、1ページにつき1項目3行以内の解説、文章を限りなく抑えて図表で「ビジュアルに」説明する・・・というやつだ。

そういう時代なのだ、そういう社会になったのだ、たぶん。

しかし、同じことを繰り返し伝えるという「冗長度(redundancy)」もある程度必要なのだ。1度だけ聞いてもうわかったから繰り返さなくてもいいというひとが多くなったが、実際のところ人間の能力はそこまで優れてはいない。人間の能力では「繰り返し確認」という手順が正確なコミュニケーションには不可欠なのだ。

パワーポイントスタイルのプレゼンテーションが見た直後にはすっかりわかったような気がしつつも、時間が経ってみるとよくわからないことが多々出てくるのは「冗長度」が低いからだ。よくいえば「簡潔」なのだが、繰り返しがほとんど無い分、コミュニケーションの深さは期待できない。

一般的に言語はおおむね50%の「冗長度」を持っていると言われている。言い換えるならば、たとえばこの文章の半分の文字をランダムに消去したとしてもだいたいの主旨はわかるという場合がこれにあたる。あるいは「キーワード」が文脈上に少なくとも2度出現すると考えてもいい。冗長度が50%を切って極端に低くなると、ひと言聞き逃しただけでもう話の筋がわからなくなる。人間のが正確な言語的コミュニケーションを達成するためには50%の冗長度が必須だと考えても良いのかも知れない。

ペンション・サンセットのホームページやご案内メールは「冗長度」が高い。意図的に高くしてある。それはより深いコミュニケーションをめざしているからだ。それがお客様にとって良いことだと信じているからだけれど、ほんとうのところ、ビジネスとしてペンションを考えた場合「どうなのだろう」と迷いが出てきている。この50%の冗長度に「最適化」することによって、くどくなくまた簡潔すぎないホームページになるのかも知れない。今後の作業になるけれど、こつこつやっていこうと思っています。

2006年10月16日

3530 それでは納得できない自分がいる

晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃
おととい、そして昨日の日記で書いた通り、このサイトのトップページをペンション・サンセットの集客ページに変更した。これまではいわば「扉ページ」あるいは「表紙」にあたる蓼科高原日記をメインコンテンツとするページがトップページだった。

しかし、アクセスいただいた閲覧者の動向をデータで見てみると必ずしも良い選択ではないということが一目瞭然だった。やはり付け焼き刃的にサイトの一部だけを大変更するとある種の混乱を招くのだと思う。Yahoo! Japan では少しだけランクが上がり、Google では少しだけランクが下がり、msn ではランクがぐっと上がった。といっても、ベスト10のなかでの動きだけれど。

結論として、即決でもとに戻した。3日前までと同じに戻した。蓼科高原日記をメインコンテンツとするページがトップページで、ペンション・サンセットの集客ページをサブページにまわした。これが長年守り続けてきたこのサイトのスタイルなのだ。やはり変えるべきではないと思った。しかし「実験」としての価値は充分以上にあった。いずれにしてもお騒がせしました。

そんなチェックをしながらじつに久しぶりに他のペンションのホームページを見て回った。じつに魅力的で技術的にも高度な楽しそうなページが目白押しだった。それはもう圧倒されてしまうくらいだ。しかし、がんばれば同じようなものを作ることは可能だけれど、でもやりたくないというのが本音だ。

プロにお願いするという手もあるし、じっさいにそうしているペンションも散見された。情報がよく整理されていて閲覧しやすそうで、これは効果的なホームページなんだろうなあと思った。やはりプロの手になるものは魅力的だった。僕もそうすべきなのかも知れないと思った、そのときは。

でも、そうしたくないというかたくなな自分がここにいる。お料理もパンもすべて手作りといっている一方で、お客様との最初のコミュニケーションの場であるホームページが「手作り」でないのは矛盾するように思われてしまって・・・僕はトレンディーじゃなくって頭が固いんだ、きっと。

経営者としては、これまで築き上げてきたこのサイトのすべてをうち捨てて、プロの手になるサイトに切り替え、集客に全力を尽くすべきなのかも知れない。蓼科高原日記なんて書いている暇があったら、団体旅行の営業に奔走すべきなのかも知れない。しかしそれでは納得できない自分がいる。

とうわけで、まずは情報を整理し直して、いささかとっちらかってしまっているこのサイトの再構成とナビゲーションの充実を行おうと思っています。表現の簡素化や視覚化も必要かも知れない。とかく現代は文字を読むのが嫌いなひとが増えたようなので。

でも、本音としてはこのサイトを「見る」のではなく「読んで」ほしいのです。このサイトは本来テキストだけで構成されるべきものとして誕生したのだから。いまとなってはトレンディーじゃないのは確かだけど。なぜそうなったかということは過去に何度も書いたからここでは繰り返さない。

★★★

さて、昨日から吹き続けていた風は未明にピークを迎えてびゅーびゅーと木々の梢を鳴らす音で目が覚めた。中庭にいるパルのことが気になって、もぞもぞと起き出した。中庭にでて犬舎の雨戸を閉めてやると中からパルが飛び出してきてやたらとなついてくる。きっとこのただならぬ雰囲気と大きな風の音が不安だったのだろう。

未明の空に真っ白な月が怜悧(れいり)な光を放っていた。明かりなしでもあらゆるものがくっきりと見えるほど明るく鋭い光だ。冷たい風に身体は凍えるが、心はなぜかとても温かだった。この優しい生き物が僕らのもとにやってきたのは12年前の冬だった。以来僕らとともにこの森で生きてきた。彼は飼い犬などではなくペットでもなく文字通り対等な関係としての家族なのだ。あるいはシベリアンハスキー流の解釈でいうならば、同じ「群れ」の仲間なのだ。

僕は多くのことをパルから学んだ。その反対に彼が僕から学ぶべきことはおそらく何もなかっただろう。自然の中で生きる、ただ単純に「生きる」ということを僕は彼から学んだのだ。ただ生きて、当たり前のこととして死んでいく。そのどこに疑問や不安があるのだ、といつも問われているような気がした。

強風でロープウエイは運休となったが、その風も午後はやくには止んで穏やかな天気に変わった。何もかも吹き飛ばしてくれたおかげで、今日の夕焼けはじつに感動的に美しかった。ピラタスの丘の紅葉もいよいよ最盛期を迎えている。山岳部の紅葉はピークを越えて、もっと標高の低い湖沼部や蓼科高原の観光スポットでの紅葉の見ごろは今週末からになる。

2006年10月17日

3531 サンセットのポジション

晴れ 気温:最低 3℃/最高 12℃

ここ数日このサイトはどたばた劇を演じてしまったけれど、ようやくネット上でのポジション(ランキングなど)とステータス(状況)は元に戻ったようで落ち着きを見せている。初めてアクセスしていただいた方にはなんのことだかわからないと思うけれど、それはそれでいいので気にしないで下さい。

ウエブマスターというのは何年やっていても(僕は11年)いつも迷いに迷っているものなのだ。そしてときおりその迷いが明確な形をもった行動として、またサイトの構成や位置づけの変化として姿を現す。リピーターのお客様によればペンション・サンセットほどポジションをはっきりと見せているペンションは少ないそうだ。

要するに、どのようなお客様に適した宿で、どのようなお客様には適していない宿であるか、ということをはっきりと表現しているホームページになっている、ということのようだ。僕自身はあまり意識していなくても、たとえばこの日記を通読してみればおのずとあるペンション像がくっきりと浮かんでくるのだ、と。

それはそれで、何が得意で何が得意でないかというのと同じで、お客様にとっても選択が容易になるというものだ。現代社会にあってはこのターゲット・ゾーンを明確にした宿の運営というものがウチみたいな弱小ペンションといえども、必須なようだ。たかがペンションでも、そうなのだ・・・いやはや大変な時代になったものだ。

ペンション・サンセットは;

(1)個人のお客様が全体の80%を占めている。
(2)ご夫婦、カップルのお客様が全体の60%。
(3)ご家族連れのお客様が全体の20%。
(4)グループのお客様が全体の15%。
(5)団体のお客様が全体の5%。
(6)リピート率25%。(4人に1人のお客様が再度ご利用になります)

というようなことで、このデータを見るだけでもイメージが見えてくることだろう。

これは結果であって、僕らがお客様を選んでいるわけではありません。あくまでもお客様の選択結果がこのような数字となって現れているわけです。団体のお客様が少ないのは僕が宴会(どんちゃん騒ぎ)をお断りしているからだと考えています。泥酔したい方や、酩酊して騒ぎたい方にはいささか居心地の悪い宿なのでしょう。

ペンションのご案内ページの「お客様の感想」をご覧いただくとわかると思うのだけれど、僕は決して口うるさいペンション・オーナーではないです。お客様とため口をきくような礼儀知らずでもありません。一時流行った「知的普通人」というタイプです。あくまでも大切なゲストを迎える(きさくな?)ホストとして振る舞っていますからご安心の上お越しいただければさいわいです。(ほんとだってば)

2006年10月19日

3533 感性の共有と精神の共有

晴れ 気温:最低 3℃/最高 12℃

いまの僕のささやかな夢は、たとえば Diana Ross の Blue というアルバムを聴いていると妻がやってきて「これ誰?いい感じね。」と言ってくれることだ。僕は応える「うん、いいだろう、Diana Ross の What a Diefference a Day Makes って曲さ。」と。

感性の共有には、もちろん、いい面と悪い面とがある。そのことを知った上で、やはりそうなりたいという想いがずうっとあった。そしていまだにそれは成立していない、あるいは永遠に成立しないのかも知れないと思い始めている。

それはしかたのないことだし、良い面に目を向けるべきなのかも知れない。たとえば、モンティー・パイソンのどのギャグが好きかがなにからなにまでまったく同じだというカップルがいたとすれば、どうも長続きしないような気がしたものだ。もしそういう人がいたらごめんなさい、あくまでもこれは僕の個人的体験談だ。

好みというか、もっと深い部分で精神を共有してしまうとむしろお互いに重くつらい思いをするのではないか、とも思った。若い頃、まだ結婚する以前にそのような女性がいた。いまでいう「友達以上恋人未満」という微妙な関係でおわったのは、愛情が深まるにつれてお互いにそのことに気づき始めたからではないかといまでも思っている。

根っこの部分では共通した流れを持ちつつ、異なった感性、異なった価値観を持っている方がお互いに刺激しあって成長できるのではないか。

さて、今日も蓼科はよいお天気でした。ピラタスの丘からロープウエイ付近は今週末が紅葉の見頃になります。写真撮影に最適な渓谷美の横谷峡(よこやきょう)も今週末が見頃になると思います。来週末はもう少し標高の低い湖沼部が見頃になってくるでしょう。

毎日夕暮れ時がとてもきれいです。夕陽も、夕焼けも。夜はよく晴れて星空もくっきりと見える日が増えています。夕陽を眺めるにしても、星を見るにしても真冬なみの(大げさなくらいの)防寒装備をお忘れ無く。そのときの気温は5℃〜3℃です。

2006年10月20日

3534 iTunes Music Store 初体験

曇りのち晴れ 気温:最低 6℃/最高 9℃

(1)↓↓冗長度を下げようと思ったり。↓↓

やはりみなさん忙しいのだ、朝から晩までケータイやってるし、ゲームやんなきゃいけないし、もちろん仕事は超忙しいし。要するに世の中全部「みんなひとの話しぜんぜん聞く気ないし〜」状態なのだ。

数日前にこのホームページは「冗長度(redundancy)」が高いのだ、と書いた。わかりやすく言っちゃえば、意図的に「くどく」書いてあるのだ。それは「念押し」というニュアンスなのだけれど、はっきり言ってあまり効果はないようだ。「みんなぜんぜん読んでないし〜」ってことで。

これはミスマッチというほかない。ということで、今後はこのホームページも「冗長度」を下げていく方向に持って行こうと考えている。

ちなみに(科学的に測定したわけではないけど)現在の冗長度は70〜80%以上だと思われる。どうせやるなら冗長度25%ぐらいで、「ほんと、真剣に見ないとダメなのね」的なものにしたいという欲求が高まってくる・・・これはやばいかも。

このわくわくした心境、これはかなりあぶない。(^_^;)


(2)iTunes Music Store 初体験。

iPod の爆発的普及と同時に大ヒット中の iTunes Music Store (ITMS) を初めて利用した。MP3 フォーマットでこの価格はどうかな、とずうっと思っていたのでなかなか利用する機会がなかったのだけれど、やってしまった。なんだかふらふらっと「購入する」ボタンをクリックしてしまったのだ。

Amazon.co.jp スタイルのこのインターフェイスは限りなく僕の購入欲を刺激し、感性をインスパイアするのだ。もともとが音楽フリークだから、ツボにはまるとさあ大変なのだ。しかもこんなに簡単にリアルタイムで音楽が購入できてしまうというのは、まったく新次元の音楽体験というほかない。

1950年代初頭生まれの僕としては iTunes Music Store (iTMS) はお宝の山といっても過言ではないのだ。熊を蜂蜜蔵に投げ込んだようなというか、アイスクリームの家に入った子供というか、どうにもたとえようがない。クレジットカードに利用制限でもかけておかないと「危険なにおい」がする。

これはかなりあぶない。(^_^;)


(3)蓼科で熊が目撃?(それってWさんが歩いてたんじゃないのってか)

これも危ない話しだけど、昨日ペンション村の合同草刈り作業があったんだけれど、そこで出た話。

「○○さんが昨日○○あたりで「熊」を見たんだってさ」

「えええ!《熊》がでたぁ〜?!まさか、それってMさんが歩いてたんじゃないの?」

「いやいや、Wさんだろうそれは、大きい体していつも黒い服来てもっそり歩いてんから。」

「ははは・・・でもほんとだってば。」

なんていうやりとりがありまして・・・。

これもかなりあぶない。(^_^;)

(注)実際のところその後も公式の目撃情報はありませんから、心配はないと思われます。きっと(僕の考えでは)宵闇迫る時刻に体格のいいYさんが道ばたで躓いているところを目撃したのではないかと・・・。

2006年10月21日

3535 ひとの話しぜんぜん聞いてないし〜

晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃

「ひとの話しぜんぜん聞いてないし〜」というのはやはり現代の潮流のようだ。昔と違うのは決して悪意はないということか。それは情報過多時代にあって情報処理能力に限界のある人間の頭脳を守るためのブレーカーあるいはフィルターみたいなものなのだと思う。

ほとんどの情報をいわば「ノイズ」として「流し」ていながら、ふと必要な情報に気づけばそれを吟味して摂取するという様子なのだ。現代の高度情報化社会にあって頭脳を健全に守るためにはそのような機制もまた必要なのかと思う。TV、インターネット、ゲーム、CMを始めとしてこれでもかこれでもかと情報が流し込まれるのだからそれをすべて真に受けていたらたまらないだろう。

だからといって、本来精神の滋養となる読書や音楽鑑賞、映画鑑賞などの学芸の分野まで無差別にフィルタリングされてしまっているのはいかがなものかと危機感をつのらせている。そんな感性の殺戮とも言える状況があり、その一方でそれらに(時間的に)とってかわっているのはまぎれもなく「ケータイ」だ。

不思議なのはケータイ以前と以後の時代を比較してひととひととのコミュニケーションがより深まっているかというと、決してそんなことはないという事実だ。伝えたいこと、伝えたい想いを伝える困難は同様に存在するのだ。ケータイによってかえって手続きが面倒に遠回りしている感すらある。

人々はお互いが「繋がっている」ことの確認のために、ケータイメールを打ち合っているようにさえ見える。それは「群をはぐれたくないという不安」によって動機付けられているにちがいない。個人的にはあまり健全だとは思えないのだけれど、まあそれ自体が「娯楽」といえなくもないし、どうこう言う立場にもないから「良いんじゃないっすか」なんて言ってしまうのだけれど。

僕のようなケータイ以前に生きる「古代人」からみると、それにしても膨大な時間の浪費のようにも思われるのだけど。シンプルにストレートに生きることのできない時代になったのかも知れない。山間部ではライフラインとしての意味もあってケータイは都市部以上に普及しているのだけれど、基本的には同様の使い方がされている。

ケータイ以降飛躍的にコミュニケーションが容易になったことは実際問題として革命的だった。しかし、それが定着して以降、都市部と同じ使い方がそれに加わった。結果として、のどかな山暮らしにしてはなにやらとても忙しくなった。昔のように用件のみのメールではない「メル友」メールのトラフィックが増大したのだ。

場所を選ばず、ケータイ以降(これは象徴的な意味でということだけど)みんなとてもとても多忙になった。本を読んでじっくり想いを巡らせたり考えたりすることも少なくなり、フェース・トゥ・フェースでの会話もストレートではなくなった。ケータイやメールの方が話しやすくなっていたりしてね。

これは喜ぶべきことなのだろうか、悲しむべきこと、憂慮すべきことなのだろうか。

時代の流れといってしまえば受け入れるほか無いのだけれど、ケータイが小・中・高生の世代に大人の目の届かない絶対的無法地帯を提供してしまったことは(たとえば映画《リリーシュシュのすべて》を見るとそのことがリアルにうかがえるけど)紛れもない負の側面だ。

マスコミが大好きな「心の闇」とやらはそのような暗黒の無法地帯で密やかに肥大化している。そのような世界においては「人間」らしいまともな人間は生まれないし、育たない。文字通りの「人でなし」が大手を振ってまかり通る世界がある。ゲームによって培われる病んだ思考形態については別の議論に譲るが、ケータイとゲームの現状を僕は認めない。それが「人間」を壊す機構となっているからだ。

ケータイとゲームとそしてもしかしたらインターネットとによって、ひとびとは、特に子供たちと若者は「リアリティー」を喪失している。リアリティーとは「いま、ここに、ある」という絶対的な認識のことだ。自分が自分であるという確信のことだ。本当の自分を生きる唯一の手がかりのことだ。

その大切なものがいま失われ続けている。

2006年10月23日

3537 どうかもうこれ以上急がないで

曇りのち雨 気温:最低 6℃/最高 14℃

朝、雨は止んでいました。予報どおり日中は曇り空になりました。午後4時過ぎにふたたび雨が降り始めあっという間に本降りになりました。これは天気予報よりちょっと早かった。今日はちょっと憂鬱です。僕のペンションのコンセプトが時代のツボを外しているような気がするからです。

ツボを外しているからと言って、これは僕の生き方の問題なのでおいそれと変更するわけにはいかないし、ペンションを純粋な商売とは考えたくないので、そういう観点からはどうしようもないのだけれど。やっぱり集客のためのホームページはプロに頼んでお客様受けの良いものに徹したほうがいいのではないかと思い始めています。

なにを書いても、なにを語ってもなにも伝わっていないような気がしてきています。パワーポイントで作ったプレゼンテーション資料みたいなホームページのペンションの方が集客実績が高いように感じるのです。そのほうが効率的に集客できているように感じるのです。

みんなものを考えなくなってしまった、少なくとも考えるひとの絶対数が減ってきているのを実感しています。ペンション選びなんてホームページを開いて上っ面をさらっと眺めて感覚的に「印象」だけで決めてしまっているように感じます。あるいは貸し切り温泉露天風呂の写真が載っていたとか、料理の写真がきれいだとか。宣伝上手だとか。

それは普通の行動ではあるけれど、それだけではただ宣伝に乗せられているだけで、ご自身で選択しているとは言えないと思うのです。まあ、ペンションごときを選ぶのにそんなに労力なんて使えるかってことなのかも知れませんけれど。

立地や設備、サービスの内容やお料理のレベルや接客の丁寧さ、親切さのどれをとっても他の同価格帯のペンションと比べて同等かそれ以上なのに、このホームページではそのことを伝えることができていないのかも知れません。そのことを検証し、反省しなければならないのかも知れません。(もっと宣伝上手にならなければいけない、もっと宣伝に徹しなければいけないのかも知れません)

そもそもこんなに手間暇かけてホームページを運営していること自体、間違っているのかも知れません。もっと他にやらなければならないことが山積しているのですから。それでもやめないのはいまの時代性に「ノー」と言い続けたいからです。

何でもかんでも「手っ取り早く」という風潮に異議を唱えたいからです。逼迫したニーズがあるときのネットショップの「手っ取り早さ」や「迅速性」はじつにありがたいもので、僕も日常的に利用しているのですが、それとは違うものもあると思うのです。ペンションは「商品(モノ)」ではありませんから、違った選択基準を持ってみてほしいなんて僭越なことを願ったりしています。

「スローライフ」なんてことが喧伝されていますけれど、実際の行動はちっとも「スロー」では無いどころか「スロー」を許容しないというのが現代社会の実相だと思います。スピードを要求されないプライベート・ライフにおいてすら仕事と同じペースで事を行おうとしているように見えるのです。

そんなに生き急いだって、人生の長さも密度も変わらないのです。じっくり味わったり、じっくり鑑賞したり、じっくり考えたりということによって、人生はじつに味わい深いものになるのだと思います。そして蓼科は、少なくともペンション・サンセットは、ラッシュライフとでも言うべき現代の生活からいっとき逃れ出て「スローダウン」する場所なのです。

僕はそのような理念を持ってペンションを始めました。自分自身が「ラッシュライフ」のまっただ中で疲労し疲弊してしまった1人ですから。秒単位の生活、一日に20時間以上働く生活、休日のない人生を20年近くも送った人間ですから、そのことが痛いほどわかるのです。

だからどうかもうこれ以上急がないでください、身近にありながら気づくことの無かった様々なものに気づき、それをじっくりと味わってほしいのです、自分の呼吸する音が聞こえるほどの森の静寂とゆったりとした時間の流れに身をゆだねて本来のご自分を取り戻していただきたいのです。

それだけが僕の後半生の願いです。

2006年10月24日

3538 「わかりやすさ」とは

雨のち曇り 気温:最低 5℃/最高 9℃

やはりそのようですね、小泉政権があんなにうけたのはその「わかりやすさ」ゆえだったのです。しかしそのわかりやすさの質はじつに危険をはらんだものでした。

「わかりやすさ」にはふたとおりあります:

(1)伝えるべきことを凝縮し吟味し尽くしたことによる「わかりやすさ」

(2)言葉に多義性を持たせ相手が勝手に納得するようにし向けた「わかりやすさ」

もちろん、本来の「わかりやすさ」とは(1)をさします。

小泉さんのは(2)の典型でしたね。

「広告は議論ではなく誘惑なのだ」というのは真理で、その観点からすればホームページの「わかりやすさ」とは(2)に当たるのではないかと思います。

試しに《別途》そういうホームページを作ってみようと思っています。

上記(2)のパターンまではいかないまでも、「簡潔」なホームページというのは文章を読むことが嫌いな人には親切ではないかとも思います。「簡潔な文章」ではなく、「写真と見出しと簡潔な説明文だけ」のホームページを構想しています。

★★★

昨夜からの雨は夜通し降り続け、未明には強風をともなった荒天となり、激しい雷雨にまでなりました。天から神が振り下ろしたような巨大な雷(いかづち)に眼が醒めました。ばあーん、がしゃーんと轟音がして、半径50m〜100m以内に落雷が連続したのでした。

おそらくロープウエイ近くの電柱に落ちたのだろうと思いました。最近は落雷対策として電柱には驚くほど太いアース線がてっぺんから地中深くまで埋め込まれているからです。落雷による障害を避けるために電柱そのものを避雷針にしてしまうという発想で、かなりうまく機能しているようです。

そのおかげか、起き出して電源をチェックしてみましたが停電の形跡はありません。また電話回線やインターネット回線も異常なく機能していました。

強風は午前中いっぱい吹き続けて、午後にはおさまりましたが、ペンション・サンセットの周囲の紅葉はあらかた吹き飛ばされて落葉しました。紅葉のじゅうたんを踏みしめる感触は最高で、地面を埋め尽くした紅葉はとても美しいものです。しかし驚くべきことに、標高が50m〜100m低いところではちょうど紅葉の盛りなのでした。

2006年10月27日

3541 この時代潮流にノーと言いたい

晴れのち曇り 気温:最低 4℃/最高 12℃

正直言うと僕はマイクロソフト社の誇るプレゼンテーションのデファクトスタンダードであるところの「Power Point」を仕事で使ったことがありません。僕がビジネスマンやってた頃にはまだ MS DOS 3.1の時代で、一太郎 と Lotus 1-2-3 がようやく標準として普及しだしたころでしたから。オフィスLANや社内LANなんて存在しなかった。

でも、考え方は同じでした。見栄えや演出ではかなうはずもないのですが、プレゼンテーションの基本的作法は「Power Point」以前もそれ以降も変わらなかった。まあ、当然といえばその通りなのですが。で、ペンションを始めて数年後、Mac版の Office がリリースされて以来お遊びでいじることはあっても仕事として使ったことはなかった。

でも今回別のコンセプトでペンション・サンセットのホームページ制作をすることになって、時代の方向としてはそっちにいくのかなと思いました。実際の制作に使っているソフトウエアは別のものなのですが、考え方には共通するものがあります。

思いのこもった写真と、インパクトある簡潔な文章、美しいレイアウトとフラッシュムービーによる演出。言葉を尽くして表現するのも大変だけれど、反対に言葉を削って簡潔に表現することもまたものすごく難しい作業です。写真選びやスライドショーの素材集めや画像加工も地味な消耗戦です。

ひと時代前、ペンション経営者が自らこのような仕事をするようになるなどと、いったい誰が想像したでしょう。ペンションを始めて、エンジン式刈り払い機やチェーンソウや大型除雪機を日常の道具として使うようになるなどと想像していなかったのと同じぐらいの驚きです。

「市場原理主義」を標榜するいまの時代の流れは個人的には「違うな」と思うのですが、この大きな潮流にあらがえるはずもなく、経営者としては適応対応していかなければならないのだと思います。ひとびとの頭脳構造が変えられてしまった、洗脳とまでは言わないけれど、「ゲーム脳」というのは実在すると思うし、思考停止が日常的に起こっているのも事実だと思います。これはきわめて危険な状況です。

思うに米国は紛れもない(本来的意味における)「帝国主義国家」であり、彼らが推し進めている「グローバルスタンダード」とやらは間違いなく世界を不幸にしていると思います。それはノーベル賞受賞経済学者スティグリッツの著書を読むまでもなく、米国は自国の「不幸な社会」と「ゆがんだ経済システム」を世界に押しつけ押し広げようとしています。

米国民がみな幸福そうならまだ納得も行くのですが、ネオコンと称されるひとにぎりの特権階級こと「勝ち組」以外の人々はどんどん不幸になっていっている。僕は自分の世代においては異例の反・学生運動的考えを持っているのだけれど、それは政治的立場とは関係なくどんなイデオロギーもインチキだという実感に基づいています。

それでもなお「グローバリゼーション」というこのインチキなお題目あるいはムーブメントに抗うことは十分以上に価値のあることだと思います。誰も「ノー」と言わないこの社会は健全なのでしょうか。偉大なるイエスマンこそ現代の寵児(ちょうじ)なのでしょうか。

2006年10月28日

3542 時代は「簡潔を善しとする」のだ

晴れ 気温:最低 0℃/最高 11℃

秋の雲今朝テラスの手すりの上に薄氷が張っていました。まさかと思ったのですが、どう見ても水ではなくて氷です。記録式寒暖計を見ると、なんと0℃でした。冷え込んだのですね。都会の12月下旬の朝みたいな感じです。そういえばいま50代の僕らが子供の頃は東京の郊外でも冬はとても寒かった。

息は真っ白だし、手袋をしていても指先がじんじん痛みました。水たまりの氷を踏んで割ったり、10センチもあろうかという霜柱を踏んだりしながら通学したものです。いまはとてもそんな気候にななりませんけれど。そんな季節途中でおじさんが落ち葉焚きなんかしていようものなら徒党を組んであたりにいったものです。

そのかぐわしい香りとなんとも言えない暖かさは「幸福」そのものでした。あの頃の子供の世界はじつにのどかだったのかも知れません。いま改めてあの時代を振り返ってみれば、大人の世界では一触即発のじつに危機的な米ソ冷戦時代だったことを知ります。

今日も一日とても良いお天気でした。空には美しい筋雲がかかり、透明な青空との対比が感動的でした。紅葉はますます盛んになり、陽射しは温かく、夕陽は鑑賞に堪える荘厳さを見せています。それもこの寒気があるからこそのもので、これで気温が生ぬるかったら季節感が狂ってしまうというものです。

紅葉の蓼科山新しいコンセプトのホームページ作りも順調に進んでいますが、さすがに根を詰めすぎたのか今日はなんだかがっくりと疲れが出てきてしまいました。ついつい詳細に書いてしまうので、はっと気づいて簡潔に書き直すというこれまでとは正反対のことを繰り返しています。

あらためて、時代は「簡潔を善しとする」のだということを実感しています。しかし「広告は誘惑なのだ」という部分についてはどうもうまくできません。まさに「紺屋の白袴(こうやのしらばかま)」なので、おもわず笑っちゃいます。前にも書きましたが僕は広告キャンペーンのプレゼンテーターだったのです。

今年の紅葉は息が長くて、11月いっぱい高原部でも楽しめそうです。みなさまのお越しをここ蓼科でお待ちしております。

2006年11月03日

3548 オーナー失格?

晴れ 気温:最低 0℃/最高 8℃


「あたたかいねえ」という言葉が地元でよくかわされている。今日山麓の街のメガマートに行ったときもカウンターの女性とそんな話題になった。「年々温かくなって、それはいいんだけど、やっぱりおかしいよねえ」。

たしかにそうなのだ、これは妙なのだ、おかしなことなのだ。かつてのこの季節なら、石油ストーブや電気ストーブの段ボール箱を抱えて一所懸命クルマに積み込んでいる人が駐車場にたくさん見られたはずなのに、今年はその気配もない。いまだにフリースを着込んでいる人もいないし。

直営の灯油スタンドに並んでいる人もほとんどいないし。やはり温かいというのは実感というのだけでなく、紛れもない「事実」なのだろう。「暖冬」というとなにやら過ごしやすい冬と感じられるのだけれど、じっさいは雪が溶けやすいためにアイスバーンがあちこちに出来てとても危険な道になってしまう。

当地のような土地では暖冬は「鬼門」なのだ。

それはさておき、大きな疑問が頭をもたげてきている。10年間も蓼科高原日記を書き続けてきたことはペンション・サンセットの経営にとってプラスだったのだろうか、マイナスだったのだろうかということだ。ふつうだったらペンションの玄関を入るまでわからないはずのオーナーの人となりとかペンションを支配する雰囲気とかが、日記によってわかるようになっていることが、むしろ集客においてマイナスになっているような気がしてきている。ひしひしとそれを感じている。僕はペンションオーナーとして落第なのだろうか、そんなにひどいひとなのだろうか。

蓼科高原日記があることによってペンション・サンセットはお客様を遠ざけることになっているのではないだろうか。書かれた文章はその瞬間から独立した言葉として伝播していくものだから、どのように解釈されどのように理解されなにを感じさせるかは書いた本人には制御できない。

こうした商売にとって、本音で語るということはタブーであり、耳あたりの良いことだけを書くべきだったのかも知れない。いや、このような日記自体を無くしてしまうべきなのかも知れない。長期的展望に立てばきっとそのほうがよいのだと思う。

商売にとっても「口は災いの元」なのだ。なにも語らない方が想像力を刺激できるしね。僕はおしゃべりしすぎたのだ、たぶん。現代社会においてはむしろ「情報を制限する」ことによって「情報飢餓状態を発生させ」て、結果として衆目を集め「特定の情報」の集中的情報摂取を促すことが出るのだ。

ソフトバンクが今回の広告キャンペーンにおいて「予想外だ」と「¥0」しか語らなかったのは、そのような手法に則っていたからだ。結果は大成功といって良いと思う。このような手法が成功するなんて、なんて幼く貧しい精神が支配している社会なのだろうと個人的には思うのだけれど。一人一人はおそらくとても賢く良識あるびとひとなのに、集団としての社会を形成するとこのていたらくだ。いまなんとかしなければ、このままでは簡単に戦争に駆り立てられてしまう。

2006年11月04日

3549 「夢」

晴れ 気温:最低 0℃/最高 8℃

熱に浮かされ伏せっていると、枕元に暖かな存在を感じる。正座して僕に優しい視線を落としている。若い女性の気配だ。

「きみなのかい?」と僕は訊く。

「そうよ」と彼女は応える。

「もしかしてきみはもう死んでしまっているのだろうか」

「まさか」と彼女は笑いながら応える「まだ生きているわ」

「ナオミだろ、きみは」

「どうかしら」と言って彼女はくすくす笑う。

「ちゃんと憶えているさ、きみのしぐさや笑い方やそのすべてをいまだって」

「そうよ」と彼女は応える「でもあなたは私がどれほどあなたを愛していたかわからなかったじゃない」

「ごめん、僕は自分の心を偽っていたんだろう、たぶん」僕は声にならない声で応える「きみのような女性が僕を本気で愛すはずがないって思いこんでいたんだ」

そんなことわかっているわ、というような沈黙。

「あなた、自分で死のうと思っているのね」と彼女は言う。

「どうして?」と僕。

「わかるわよそんなこと、私はあなたの強いところも弱いところも知っているんだもの、もちろん善いところも悪いところもね。」


そうだ、と僕は白状した。僕は自分の死亡保険金を借金の返済に充てようとしている。馬鹿な行為かも知れないが、僕にはもうそれ以外の手だてが考えつかないのだ。

「死んでしまうのね」と彼女は声を落とす。

30年以上会っていないなんて信じられないような親密な空気があたりを満たしている。彼女はあの頃のまま何一つ変わっていない。目には見えないけれど僕にはそれが感じられる。

「あなただって、あの頃のままひとつも変わっていないわよ」と彼女は言う。「あなたは私の誇りだった、あなたを愛していることが私のプライドだった。知ってた?」

「知らなかった」と僕は告白する「僕は何できみのような家柄にも才能にも美貌にも恵まれた女性が僕なんかを愛してくれるのかがわからなかった。」

「馬鹿ね」と彼女は小さな声で言う「男の人ってどうしてそんな考え方しかできないのかしら。私はあなたのすべてを愛したの、愛さずにはいられなかったのよ。」

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高山の希薄な空気は時として不思議な世界へと僕らを誘(いざな)う。

2006年11月06日

3551 簡潔と冗長

曇りのち雨 気温:最低 1℃/最高 10℃

新しいペンションご案内ページ」をアップロードしてから1週間が経過した。だいぶご覧いただけるようになったことが、データ解析で見て取れる。このようなFLASHとJava Scriptを使用したホームページがたとえばTV番組の公式HPなどでは以前から主流になっている。

動きがありインタラクティヴであり簡潔かつヴィジュアルでわかりやすい。情報の深さを追求せず、要点がきちんと押さえられている。「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのが時代のトレンドなのだろう。確かにこれは一理ある。

文章も同様なのかも知れない。簡潔で無駄のないこと、表現はその方向に向かっているかのように感じられる。たとえばアーネスト・ヘミングウェイの短編小説はまったく無駄がない。そのシャープさはまるで鋭利なナイフのようである。"The Killers"という作品を原書で一読してみれば僕の言っている意味がわかる。

僕は誤解を避け理解を深めるという大義名分を振りかざしてあまりに冗長な方向に走りすぎたのかも知れないと反省している。そもそも言葉数の多い方ではなかったので「冷たい人間だ」と周囲から誤解されることが多かったから、いつのまにか意識的に言葉を多く発するようになったのかも知れない。

それが僕の冷たい印象を和らげてくれるのではないかと。僕を知る人は僕を冷たい人間だとは思っていない。そんなことを言うと笑われてしまう。もし僕が冷たい印象を与えることがあるとすれば、僕の心のかたち(Shape of My Heart)に問題があるのかもしれない。

昨夜から今日一日は落葉松の落葉が一気にすすんだ。なにもかもがブラウンに色づいた落葉松の針葉に覆い尽くされた。ラウンジからの眺めは英国の風景画家フランクの絵のようにみえる。この日記を読むひとは今日の蓼科の様子をもっと知りたいのだと思うけれど、僕は書かない。僕は冷たい人間ではないが、多少意地の悪いところのある人間なのだ。

2006年11月08日

3553 「心地よさ」こそが市場原理であるような世界

晴れ 気温:最低 - 5℃/最高 8℃

本音とか正直とか公正とか、そんな言葉も概念もおとぎ話の中にしか出てこないのだ。世界は嘘と欺瞞と不公正に満ち、不公平がその実体に違いない。愛という名のメタファーに救いを求めるほか無い。しかし、メタファーはあくまでもメタファーでしかない。愛は人間存在によってのみ存在させることができる。愛はそのままでは生き続けられない。

世の中が公平であるとか、神が正義であるとかいうのと同様にそんなものはわれわれの妄想でしかない。信じる努力なしに愛は永遠ではないし、闘う勇気無しには正義は存在すら危うい。戦争や闘争は人間の原初的性向であり、平和や融和はその合間に訪れるに僥倖(ぎょうこう)に過ぎない。

だからこそわれわれは演技するのだ。この世界は本来的に平和であるかのように、人間は平和をなによりも愛する生き物であるかのように、人間とその社会は必然的に正義と公平を志向するものなのだと。社会正義は必ずなされるものなのだと。愛さえあれば平和は必ず訪れるものなのだと。

別に悲観的にものを見ているわけではない。ことさら斜に構えて世界を見ようとしているのでもない。僕はただ可能な限り公平に見極めたいだけなのだ。僕なりのささやかな勇気を持って。

先日僕は、この日記を書くことが僕の生業でもあるペンションからお客様を遠ざける結果になっているのではないかという疑念を持っていることを告白した。本当にそう考えているのだ。現代社会においてひとは耳に心地よいものを志向する、自我に心地よいものにのみ心が傾く。

時代はまさに誘惑の時代を迎えている。社会はいまや、少なくとも、市場は「女性原理」に従って動き始めている。それは倫理を越えた原理である。それは「心地よさ」こそが市場原理であるような世界だ。

2006年11月10日

3555 先読み貧乏

晴れのち曇り 気温:最低 0℃/最高 11℃

ホームページ運用者としてもペンション経営者としても混迷を深めています。ペンション・サンセットのご案内ページをまったく新しいかたちに改める決断をしたことが、このサイトを訪れてくださる方にどのように評価されているのか、そもそもじっさいに見てみようという気にさせるレベルにあるのかどうかがとても心配なのです。

高機能のアクセスログ解析システムを使っているので、訪れてくださった方の動きがつぶさにグラフと表でデータ表示されるのですが、それがかえって心配の種になっていることも否めません。世の中には知らないほうがいいことも(たしかに)あるのだと、改めて思ったり。

データなんてあまり気にしないで伝えたいことをストレートに伝えていた頃が懐かしい。むしろ、昔のようにやったほうが善いのかも知れませんね。敬愛する糸井重里氏が面白いことをおっしゃっているのを読みましたが、まさにいま僕が置かれている状況が語られていました。(ほぼ日経ビジネスオンラインSpecial)

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20061018/111909/

著作権の問題でリンクは張っていないのでコピペして下さいね。「ディズニーランドにキティちゃんが入ろうとしたらどうする? 俺は止めるね 」なんてタイトルがあったりして、僕的にはもう読まずにはいられませんでした。(^^)

そして、このような転機を迎えているホームページ運用者は僕だけではないのだと言うことを知りました。また、

「私は器用貧乏ではなく、先読み貧乏なんです」というメールが来たんだ。先読み貧乏ってナンダ?

というタイトルの回では、じつに身につまされる想いをしたしだいです。いままさに自分がこの状況にはまってしまっているからです。

新しいホームページ、そんなに出来が悪いでしょうか。かなり落胆しています。

2006年11月11日

3556 初心

雨 気温:最低 3℃/最高 7℃

未明からの土砂降りの雨の音で眼が醒めました。ことことという雨だれの音がします。予報どおり今日は悪天候なのだと思いました。起き出してラウンジの窓から外を見るとそんな激しい雨の中でも野鳥たちはいつもどおりにえさをついばんでいました。

雨雲の彼方の太陽が八ヶ岳の稜線から顔を出す頃にはその光であたりは明るくなり、雨脚も弱まりました。そのかわりに風が出てきました。日が暮れて宵の頃には嵐のような強風が吹きすさびました。まさに荒天とはこのようなものなのだと思いました。

天気概況では明日の昼頃から晴れ間がのぞきそうです。

それはさておき、日記のことも新しいホームページのことも気にしないことに決めました。これまでの10年余に比べたら文字通り一瞬の期間しか経過していないのですから。良いものなら残るし、そうでなければ消え去るだけでしょう。

蓼科高原日記も人目を気にしないで、思いのままに書き続けることにしました。ウケをねらわず、共感を求めず、おもねることなく、ねたむことなく、ただありのままの自分で良いのだと思いました。というか、それしかできないと思い知りました。

ペンション・サンセットも同様です。初心を忘れず、折に触れて思い返し再確認して、開業当時の情熱を持って運営していきたいと思います。いずれにしても、ペンション・サンセットはわれわれのためにあるのではなく、ご利用下さるお客様のためにこそあるのだと再確認しました。その観点からすれば僕の「想い」なんて些細な問題でしかありません。すすむべき道は自ずと見えているのです。

ペンションのご案内ページをご覧いただければ、様々な点でサービスが見直されていることに気づいていただけることと思います。いや、こまやかなことなので、気づいていただけないかも知れませんが。いずれにしても、矢継ぎ早にサービス向上の手だてを打っていく所存です。

みなさまのご利用をお待ちしております。

2006年11月17日

3562 いまここにいる

晴れ 気温:最低 - 7℃/最高 2℃

最近元気が出ないときには aerosmith の Walk This Way の入ったアルバムをよく聴いている。特にこの曲はTVの「踊るさんま御殿」でも使われているので聞き覚えのある人も多いと思う。最近はソフトバンクのケータイのCMでも使われているしね。なにやらとっても元気が出る曲なのだ。

でも車に乗っているときによく聴くのはやっぱりジャズだ。自然にそうなってしまう。波長が合うというか、ジャズの波動が僕には心地よいのだ。まあもともと40年来のモダンジャズファンではあるわけだけれど。15の歳から新宿のライヴハウスに出入りしていたっけ。

とうことで僕の人生のBGMはロックというよりはジャズなのだと思う。もちろん思春期にはロックバンドを組んであちこちのコンテストに出て入賞してこともあるほど勉強そっちのけでのめり込んでいたのだけれど、cream を聴いたのがきっかけでジャズへと指向性が変わっていったのだった。

ということで僕の高校時代は学業に関してはある種の空白地帯になっている。最後の数ヶ月で集中して受験勉強して運良く○○ボーイなんて言われるような大学に滑り込んだものの、入ってからがたいへんだった。基礎学力がないんだもの。受験には強かったのだけれど。

ということで、僕の大学時代は学業とジャズの2本柱となった。それ以外は一切記憶にないほどだ。目がつぶれるんじゃないかと思うほど本を読み、受験勉強なんて問題にならないほど勉強し、寝ても覚めてもジャズを聴き、演奏した。それは明日の見えないラッシュライフだった。僕は未だ何者でもなかったし、そもそも何者かになれるかどうかすらわからなかったのだから。

そして超有名企業に就職した。なんのことはない、いま思えば受験と同じことを繰り返しただけだった。運が良かっただけ、というのも大学受験の時と同様だった。僕は何者にもなれなかった。そして耐え難い異文化の中で20年分の違和感を体内にため込んで、そこを去った。

で、いまここにいるわけだ。なんなんだ、これは、とも思うけれど、少なくともいまの僕は自分自身だと確信している。自分が自分であると断言できる。僕は自分になるために蓼科にやってきたのだ、たぶん。それはあらかじめ決められたことだったのだ。そこに至るまでにどのような異なった道を選択していたとしても、結局僕は蓼科にやってきて骨を埋めることになったのだろう。

こういうのって「運命」と呼ぶべきなのか「宿命」と呼ぶべきなのか。

だから僕の人生には「もしも」は無い。あるのは「いま、ここに、ある」という確信と、これで正しかったのだ、これでよいのだという想いだけだ。

今日の夕景は絶品で、脇見運転になってしまってちょっと危ないほどだった。この季節はあたりまえのように毎夕このような情景が展開される。夕暮れの情景が好きな人には超おすすめの季節だ。

2006年11月26日

3571 無為徒食

晴れのち雨 気温:最低 - 6℃/最高 6℃

朝はきれいに晴れたけれど、しだいに曇り空になり、夕方から雨になった。激しいふりではなく、静かな森の雨だ。天気予報に従って、きょうはテラスのステイン塗り込みの残り半分の作業を終わらせた。腰と背中が痛い。前にも書いたけれど、でもペンキ塗りは嫌いではない。

そういえば、ピラタスの丘ペンション村にも達人がたくさんいて、なんでも自分で作っちゃう人がいる。しかし、とりわけ仕上げのペンキ塗りが大好きだという。ペンキ塗りにはなにか特別なものがあるのかも知れない。

そんな達人たちから見たら僕なんぞはひ弱な無為徒食(むいとしょく)の輩(やから)なのだろうなあ。昨今とみにそう思う。40代の頃は僕だって元気いっぱいだったからそんなことは感じなかったのだけれど、50を過ぎた頃からだんだんそう感じるようになった。

それはさておき、ホームページの改革は始まったばかりだ。10数年の蓄積が混沌を生み出しているこのサイトを整理整頓して「構造改革」しなけりゃいけないと思っている。しかし、引っ越しと同じで整理しているとついちょとしたものにはまってしまって(たとえば旧いアルバムとか)、余計な時間がかかってしまう。

そして、「捨てる」ということほど難しいことはない。昔苦労して作ったページを捨てる、力いっぱい書いた文章を捨てる、思い入れのある写真を捨てる。そして新しいなにかを作り出す。そうしなければならない。言葉を尽くして書いた文章を推敲して削りに削るということもしなければならない。

しかしそれは文章への迫害ではなくて、洗練と呼ぶべきなのだろう。無駄のない簡潔でわかりやすい文章。それは時代の要請だ。みんな忙しいのだ。冗長な文章なんて読んでいる暇はないのだ。「行間を読む」なんてのはもう死語なのかも知れない。

2006年12月12日

3587 舞う雪に神を想う

曇りのち雪 気温:最低 - 7℃/最高 0℃

クリシュナムルティが言うように「思考が時間である」ということか。あるいは、ラビンドラナート・タゴールが言うように「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。」ということなのか。

John Lenon が言うように「神はわれわれの苦痛を計るための概念」なのか。(God is a concept by which we measure our pain.)

世界はじつに多様な概念で充ち満ちている。

そんなことを考えていたら、2002年11月に書いたことを思い出した。いまも僕の見解は変わっていない。

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この季節は午後5時にはもう日が暮れる。きょうは満月(月齢15)。諏訪インター方面からビーナスラインをピラタスの丘に向かって走るとつねに前方の北八ケ岳の稜線上に信じられないほど大きく丸い満月が懸かっている。直径500mほどの巨大な人工的な月が八ケ岳の稜線に鎮座して煌々(こうこう)と地表を照りつけている。ちょうどそんな感じだ。

あまりにもリアルな自然現象は、逆説的に奇妙に人工的・作為的に見えるものだ。でもこれはほんとうの満月だということを僕は知っている。この月に出会ったひとはじつに幸運だ。月齢、天候、雲の具合、月の出の時刻、地形などなど様々な要因がすべてそろった時にしか体験することが出来ない満月の情景だからだ。

ひとは様々な機会に様々な形で「神」を感じるものだ。僕はこの月に「神」を感じた。これは告白なのかも知れない。単なる描写なのかも知れない。しかし、神はなんの啓示もあたえはしないし、この美しい情景の創造者ですらない。それは神の仕事ではない。

この情景は美しい。じつに美しく感動的だ。しかし、本来的な意味において「客観的」に見るならば「美しく感動的な情景」はそこには無い。それは僕のこころの中にある。僕の精神活動の内にのみ存在する。「美」とは我々の精神の内に「構成」されるものであって、「そこに存在するもの」が単に「体験」されるものではないからだ。

様々な宗教が語る「神」はひとつのメタファーである。「神」とは「語りえぬもの」だから、そして「神」は一切「語らない」し「何かを指し示すことすらしない」からだ。それは神の無慈悲ではない、それは神の仕事ではないからだ。我々を導いたり、救ったり、罰したりするのは神の役割ではない。

この世界は「神」によってこのようにある。ただ意味もなく存在する。「無意味性」はこの世界の本質である。「啓示」はわれわれのインスピレーションに過ぎない。

宗教はそのことを「告白」すべき時である。

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2006年12月23日

3598 NOW HE SINGS, NOW HE SOBS

晴れ 気温:最低 - 9℃/最高 - 1℃

チック・コリアの若かりし頃の野心作"NOW HE SINGS, NOW HE SOBS"。若い頃僕はこのジャズ・トリオのアルバムを文字通り手に汗握って聴いたものだ、何度も何度も、もうレコードがすり切れるくらい。

後年の"RETURN TO FOREVER"以降の彼の演奏からはその片鱗しか聴くことができないアグレッシブな情念をここではこれでもかと言うほど味わえる。そのようにしてこのアルバムを聴くことによって、あのころの自分の燃え立つ情念を取り戻したいのかも知れない。

もう気づいたかも知れないけれど、このアルバムタイトルは「蓼科高原日記」のサブタイトルそのものだ。そして「ブログ版・蓼科高原日記」のメインタイトルそのものだ。

Now He Sings, Now He Sobs.

スリ・チンモイ導師のこの言葉は常にぼくのこころにあった。この言葉は、もちろん、禅(ZEN)から来ている。アルバムにはこのような言葉もまた記されている。

The wind blows over the lake and stirs the surface of the water.
This visible effects of the invisible manifest themselves.

僕の持っているLPレコードのジャケットにはもっと大量の導師の言葉とともにチック・コリア自身の思いが語られていたはずなのだけれど、今回入手したCD版にはそれが欠落している。残念だ。僕が「禅」というものに興味を抱き、その後、かつてあのビートルズも師事したインドの聖者、マハリシ・マッヘシ・ヨーギの「瞑想」を学び実践するようになるきっかけとなったのがこの作品であるというのが僕の回想録における位置づけだ。

その「瞑想」が僕をウォンウィンツァンと引き合わせ、志を同じくする大切な友人がまたひとり増えた。あとでわかったことなのだけれど、僕がこのアルバムを聴いていたころ、新宿にあったライブハウス「PIT INN」の昼の部(新人の時間帯)で演奏していたウォン氏(当時は江夏健二という名前で出ていた)と出会っていたのだった。そのとき僕は彼から2メートルと離れていない席で彼の喧嘩を売るような激しいピアノ演奏を聴いていたのだった。37年も前のはなしだ。それから17年後、僕らは友人になった。

冒頭のスリ・チンモイ導師の詩の全文は次のようなものだ。

Clinging to Beauty; Clinging to Ugliness
Depending on Love and Loving; lingering with hate and hating
Rejecting to high heaven; then sad unto death
Now he sings; now he sobs
Now he beats the drum; now he stops.


(この文章は2005年5月に書いたものをもとに書き直したものです。)

2007年01月05日

3611 我が内なるアラスカ

晴れのち曇り 気温:最低 - 9℃/最高 - 2℃

昨夜NHKで、アラスカで野生動物の写真を撮影し続けた星野道夫氏を扱ったドキュメンタリーを見た。写真のみならず文筆家としても一流の氏の著書からの引用文をナビゲーターにして、氏が何を想いアラスカに渡ったか、そしてその地の野生に見せられ、何を学び、何を求めてその野生を追いもとめ、撮影中の不慮の事故で43歳という若さで亡くなるまでの間、どのように生きたのかという軌跡を追った。

1年の歳月をかけて制作したというそのドキュメンタリーは重厚さと誠実さとを併せ持っていて、幾度となく用事で席を立とうとする私をTVの前に引き留めた。スケールの差こそあれ、星野道夫氏とアラスカとの出会いと、そこに生まれた何かが、私と蓼科との出会いとその後に重なり合うものがあったからだ。たまさか我が家の愛犬パル(シベリアンハスキー)の祖父がアラスカからやってきたという縁も感じた。そう、子孫ということではあるけれど、パルはシベリアではなくアラスカからやってきたのだ。そしてまた私もこの氷雪の極寒の地でのパルとの生活を通じてアラスカへの憧憬を深めてきたのだった。

ここ、ピラタスの丘というとんでもなく標高の高い別荘地(標高1750m)でペンションを営むことになったのも間違いなくなにかの縁(えにし)だと確信している。それまで自然などまったく必要としない精神構造だった私が初めて出合った大自然がこの蓼科だったのだ。大学のゼミナールで晩夏の蓼科を訪れたとき、セミナーハウスの外でゼミの仲間たちと遭遇した信じがたいほど荘厳な夕焼け。あまりの感動で誰ひとり言葉を発することすら出来ないほどだった。この体験は30年以上を経たいまでも鮮明な記憶として、ある種の原体験として、あるいは刷り込み(インプリンティング)としてみなが共有している。

あのときに私はここに来ることを運命づけられたと感じている。その後どのような道を選択しようとも、どのような生き方をしようとも、結局私は「いま、ここに、ある」はずなのだ。それは形而上の体験だった。あるいは「神的な体験」だったのだ。

そしていまこの地にあることを運命づけられた私の心を疼かせるのは、遙かなるアラスカだ。なぜかと問われると答えに窮するのだけれど、あえて言うならばかつて蓼科が私を呼んだように、アラスカが私を呼んでいるような気がするのだ。いやそれは確信といっても良い。私の心はすでにアラスカを志向している。

私の年齢を考えるならば、常識的には所詮かなわぬ夢かも知れないのだけれど・・・。

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2007年01月07日

3613 幸福とは寓話であり、不幸とは物語である

雪のち晴れ 気温:最低 - 10℃/最高 - 2℃


ものすごい積雪、風は無し

この二日あまり小休止はあったもののしっかりと雪が降り続いたおかげで、文字通りの「大雪」になった。ペンション・サンセットの周辺で60センチは積もっている。スキー場のゲレンデではさらに積み増していることだろう。これでもう、ゲレンデは平年並みになったといって良いと思う。ほっと一安心すると同時に、除雪のことを考えるとちょっと憂鬱でもある。なにしろ太ももまで埋まってしまうほど深い雪なのだ。

それはさておき昨日、この蓼科高原日記のブログ版である"Now He Sings, Now He Sobs."のタイトルを変えてみようと思い立った。それはたとえば「Tateshina Diary - blog version」であったり、「蓼科高原日記(ブログ版)」であったりしたのだけれど。じっさいにタイトルを変更してみると、どうにもおさまりが悪い。まるで僕のブログではないみたいだった。じつに不思議なことだ。だって、このブログのコンテンツは「蓼科高原日記」そのものなのだから。

タイトルの変更を考えるようになったのは、やはりアクセス数が少ないということ、検索エンジンに引っかかりにくいということだった。なにしろ英文のタイトルだから、引っかかりにくくてもしょうがない。それでも僕はこのタイトルがとても気に入っていて、いつかいずれかのコンテンツのメインタイトルにしようとずうっと想いつづけてきたのだった。

だからブログ版の「蓼科高原日記」を公開するときにそのタイトルにしたのは待ちに待った機会であり、必然だったのだ。ブログテンプレートのデザインもいろいろ変えてみたが、配色やデザイン以上に読みやすさを優先して現在のテンプレートでしばらくすすめていくことにした。


幸福とは寓話(ぐうわ)であり、不幸とは物語である

君は誰に対しても決して真に心を許したりしない。

いつも適切な距離を確保してその一線を越えることを許さない。

君には君自身の王国があって、絶対不可侵なのだ。

その王国以外のひとやことには、その本質において、ほとんどあるいはまったく興味がないのだ。

だから僕は君を信じることが出来ない。心から身をゆだねて愛することが出来ない、君が僕を愛していないのと同様に。

君にとって僕を含めた他者は幻影のごときものに過ぎないのかも知れない。

TVスクリーンに映し出されるドラマの俳優のように、実体のない映像でしかないのかも知れない。

僕や彼が死のうがどうしようがそれは現実ではなく、君には関係のないことなのだ。

そのように「かかわらない」ことによって君はいつでも安全な場所に身を置いて高みの見物を決め込めるわけだ。

永い長い歳月を費やして僕は自分が君を愛していないことを知った、なによりも君に愛されていないことを知った。

君は最後の最後まで僕の人生に主体的に関わることをしなかった。

僕は最後まで君の人生の舞台装置のひとつでしかなかったのだろう、失われたとしてもすぐに変わりの用意できる、すぐに忘れてしまえるような。

結局僕は君の道具存在でしかなかったのだ。

消耗し時代遅れになり機能不全になって、最後にはゴミとして捨てられる運命なのだ。

じっと固唾を呑んで死ぬのを待たれるのは何よりも不快で屈辱的だ。

自ら死を与える方がよほど誇りを持って死ぬことが出来るだろう。

この人生で結局のところ僕は何も得ることがなかった。

この人生はまったくの無意味だった。

全くの無価値だった。この僕にとってさえ。

僕は無能で、ひとのしがらみの中で生きてゆくための能力に欠け、その苦しみの中でそれでも生き続けなければならなかった。これを地上の地獄と呼ばずになんと呼べばよいのだろう。

天国なんてものはない、地獄なんてものはない。

人生の落第生はまたすぐに転生してこの地上の地獄にもどされるのだろうな。

何度転生すれば、とろけるような愛に包まれて生きることが出来るのだろうか。


「幸福とは寓話(ぐうわ)であり、不幸とは物語である。」(トルストイ)

2007年01月11日

3617 ウェブの精神的対価と「雨月物語(貧福論)」

晴れ 気温:最低 - 8℃/最高 - 3℃

よく訪問するウェブページでこんな一文に出合った。これは個人でホームページやブログを運営しているひとは一読する価値があると思う。

個人がwebサイトを運営、公開していく動機というのはここでも彼が言っている通り「名誉の部分に起因する精神的対価」という部分しかないと思う。

ここで言う「彼」とは『けなす技術〜俺様流ブログ活用法』の著者である山本一郎氏のことだ。あの2ちゃんねるの有名人の『切り込み隊長』でもあるとのこと。ぼくは2チャンネルにはあまり近寄らないひとなのだけれど、そのイメージとはある意味かけ離れた真摯な議論がこの著書ではなされている。

先の引用箇所についてはぼくもまったく同感だ。それは10年以上ウェブサイトを個人で運営してきてた者としての切実な実感でもある。どんなにアクセスの多い優れたコンテンツのサイトを構築運営したとしても、たとえばぼくの場合で言うなら、他のペンションより集客数が多いというわけではない。業者任せでプロフェッショナルな「ホームページ」を運営している同業者の方がむしろ繁盛しているくらいだ。

それでもぼくがプロ任せにしないで、素人仕事でこのサイトやブログを運営しているのは、ペンションをパーソナルなビジネスと考えているからだ。ホテルや旅館などのようなある意味パブリックなというか法人格での商売とは考えていないからだ。ペンションはパーソナルな宿なのだ。お客様に対するフェイス・トゥ・フェイスのホスピタリティー提供を最大の特徴とする宿泊施設なのだと考えている。

Now He Sings.

この10年余でぼくが得たものは素晴らしいお客様。これ以上の名誉、これ以上の精神的対価はないだろう。しかし、膨大な時間と労力を費やして運営してきたこのサイトから得たものといえば、たしかに、「ささやかできわめて個人的な名誉」のみだ。それでも良いじゃないか、と思う。しかし、ちょっと悔しい想いもあるのだ。

Now He Sobs.

しかし、時代はそんな想いとは裏腹な方向へと梶を切っている。経営者の想いや志なんてものは一切評価されない、結果だけがすべての時代へと変わってしまったようなのだ。ビジネスである以上、良い結果を出さなければならないのは当然なのだけれど、どれだけもうけたかという意味での結果ばかりが価値基準となってしまった。それが新自由主義経済の本質なのだからしょうがない。格差社会は新自由主義と呼ばれる企みのもたらす当然の帰結なのだ。

同時に、それは我が国においては江戸中期に確立した貨幣経済の当然の帰結でもあるのだけれど。「金(かね)は金(かね)のことわりに習いて流れる」のだ。それは水が高いところから低いところへと流れるのと同様の自然法則なのだ。金(かね)は金(かね)を愛する人の周りに寄ってくるものなのだ。拝金主義者がますます膨大な富を手に入れるのはそのような法則による。と、上田秋成の雨月物語の最終話「貧福論(ひんふくろん)」に登場する黄金(こがね)の精である翁は語る。

ああ、「こころの時代」は終わってしまったのか。高邁な精神性を目指すのはバカモノの生き方なのか。教養など腹の足しにもならないと、人間としての基本的素養をなおざりにした実学主義に走るのか。昨今奇妙な人間が増えているのはそのひずみによるものではないのか。

ぼくも、みんなも、くだんの翁の言葉にいまこそ耳を傾けるときなのかも知れない。

 私は今、仮に姿形を現して語ってはいるけれども、神でもなく仏でもない、もともと情(こころ)のない物であるから人間とは違った考えをする。古代では富める人というものは、天の時流にかない、地の利をよく察して、産業を営んで富貴となった。これは天の自然にのっとった方策なので、財物がここに集まるのも天然自然の理(ことわり)である。また卑吝貪酷(ひりんどんこう)の人は、金銀を見れば父母のように親しくし、食うべきところを食わず、着るべきものを着ず、ほかに得がたい自分の命さえ惜しいと思わずに、起きて金銀を思い寝ても忘れないほどだから、ここに集まるのも目前に見えるように当然の理屈だ。私は元来、神でもなければ仏でもない、ただの非情の物である。そういう非情の物として人間の善悪を明らかにしたり、その善悪に従わなければならぬ道理はない。
 いったい、善を勧(すす)め、悪を罰するのは天であり、神であり、仏である。この三つは道徳である。われら非情の物たちが関係するわけにはいかないものだ。われらはただ人びとが仕えたりかしずいたりする、その丁重さにひかれ集まると理解すべきである。ここが金に霊があっても人間の情(こころ)とは異なる点なのだ。また富んでいて今生に善行をなすにしても、わけもなく恵をほどこし、相手の人の不道徳をも見きわめず金を貸し与えるような人は、それがたとえ善根(ぜんこん)を行うものであっても財貨はついには消失してしまうに違いない。こういうのは金の使い方をおぼえても、金自体の本質を知らないで、軽々しく扱ったためである。

ぼくも耳が痛い思いがする。お金の大切さをその本質において学んでこなかった。こんなことではお金に見捨てられてもしょうがないのかも知れない。なお、この現代語訳は講談社学術文庫「雨月物語(青木正次・全訳注)上下巻」による。

2007年01月15日

3621 山暮らしと「雨月物語(貧福論)」

晴れ 気温:最低 - 13℃/最高 - 4℃

先日「雨月物語」の最終話「貧福論(ひんふくろん)」のことを書いた。引用部分を読んで、よ〜し、自分もお金を丁重に扱い愛すことが出来ればきっとお金が寄ってきてくれるのだろうと、ちょっとがんばってみようかなどと思ってしまった。が、しかしそれに続く話を読んで「がっくり」きてしまった。

くだんの翁(おきな)=じつは黄金の精の化身=はこう続けたのだ:


(承前)

 「また、わが身の行いも正しく、他人にも真心を持ちながら、世間のつきあいを狭(せば)められて苦しんでいる人は、天の神の恵み少なく生まれついてきたのだから、いかに精神を労しても、生きている間に富貴を得ることはない。だからこそ、昔の賢人は求めて効果があれば求めるし、求めても甲斐(かい)がなければ求めない。そして自分の好みに従って俗世間から山林に脱出して、心静かに一生を終わる。そういう心の中はどんなにか清々(せいせい)としたものであろうかとうらやましくなってしまうのだ。
 だがそうはいっても、富貴の道は技術なのであって、たくみな者はよく富を集め、だめな者は瓦が壊れるより簡単に失ってしまう。一方、われら金銀の類は、人の生業についてまわって、頼みとする主人も決まってはいず、ここに集まるかと思うと、その主人の振る舞いによってはたちまち向こうへ逃げていく。あたかも水が低い方へ流れるようにである。金の動きには夜も昼も往来してとどまる時がない。だから、ただもう閑人(ひまじん)が生業も持たずにいれば、泰山のごとき富もすぐに食い尽くしてしまうだろうし、江海のような富もついには飲みほしてしまうものだ。
 何度でも言うが、徳のない人間が財貨を築き上げたりするのは、金の性(さが)と術(わざ)を競う道のことであり、君子たらんとする人は、それにかかわることなくそれを論じない方がよい。時流をつかんだ人が、倹約を守り無駄(むだ)を省いてよく努力すれば、自然に家は富み人も従うようになろう。私は仏教でいう前世の因縁によるということなどは知らないし、儒教でいう天命だという考えにもかかわりはない。全然別な世界で気ままにやっているのだ」という。


はいはい、たしかに清々(せいせい)したこころもちでございますです。(-_-;)

天の恵み少なく生まれついてきたのね。ぼくは賢人であろうはずもないけれど、賢人みたいに生きるのがいいみたい。君子じゃないけど、君子たらんとする人みたいに、それにかかわることなくそれを論じないほうがいいのね。

やっぱり、配られたカードを取っ替えるわけにはいかないし、手持ちのカードでルールに従って少しでもましな結果を出すように努力するほか無いのだ、ポーカーゲームみたいにね。ずうっとそう思ってきたけれど、やっぱりそうなのかもしれない。

さびしいなあ。

※引用した現代語訳は講談社学術文庫「雨月物語(青木正次・全訳注)上下巻」による。

2007年01月16日

3622 ゲレンデには100センチ以上の積雪が

晴れのち雪 気温:最低 - 8℃/最高 0℃

今日、ピラタス蓼科スノーリゾートのホームページに掲載されていた「坪庭の夕景」です。背景は縞枯山です。霧氷(むひょう)が夕日を浴びて真っ赤に染まっていて、じつに感動的です。が、撮影するには山小屋(縞枯山荘がおすすめ)に宿泊する必要があります。すぐに真っ暗になり歩いて降りることはできませんし、ロープウェイも夕暮れ前の午後4時で終了しているからです。

雪不足なんてありません:積雪100センチ〜120センチ

この写真を見ればわかるとおりピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデには平均でも100センチ以上の積雪があり掘っても掘ってもパウダースノーという素晴らしいコンディションです。ガリガリ言うようなことはまったくありません。パウダースノーのまま、そのままの状態が保たれています。

ぼくらロコ・スキーヤーの経験として、雪質と景色は1月いっぱいがベスト・オブ・ベストです。まさに厳しくも美しい大自然の懐に抱かれて遊ぶという体験ができます。特にピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデでは山岳スキーの雰囲気をたっぷりと味わえます。

天気さえ良ければ、スノーシューによるトレッキングにも最適です。スノーシューはピラタス蓼科スノーリゾート(電話:0266-67-2009)のスキーレンタルショップでも借りることが出来ますから、お気軽にご相談下さい。


昨日のエントリーの補足

昨日のエントリーのぼくの心情を心配してくださる親しい方からメールをいただきましたので、メール返信するとともに他の方向けにも同様にあらためて真意を記します。ご心配かけてすみませんです。(^^ゞ

昨日のエントリーの最後のコメントでぼくが言いたかったのは、というかその背景にあった想いというのは:

(1)新自由主義は「勝ち組を目指してだいそれた野心など持たず、その日その日
   を一生懸命がんばってこつこつと静かに生きる」という生き方を許容しない、
   ということが寂しい価値観、哀しい社会だと言うこと。
   そのような過酷な「階級闘争」を強要するような社会には断固ノーと言う
   べきである。

(2)私自身は、口ではなんと言おうとも、「君子たらん」としているひとだ。
   これは宿命みたいなもので、そんな自分から逃げることは出来ないのだ。
   だから山にこもって(?)暮らし始めたのだ、ということ。
   どんなに自己評価を高くしても、ぼくは決して「賢者」ではないけれど、
   「フール・オン・ザ・ヒル」なのだ・・・ピース。(^^)v

の2点なのでした。ちょいとレトリックを複雑にしすぎて誤解されやすい文章になっているかも知れませんが、私なりの皮肉を込めてそのように書いたしだいです。

方向性を間違えずにこつこつと努力を重ねていれば、いずれ結果は付いてくると個人的には信じてがんばっていますが、問題は一刻も早く結果を出さなければ生き残れない、というか生存そのものが許されない社会になってしまったという不幸な時代性です。そのことを昨今ひしひしと感じています。

品格というものを捨て去った資本主義社会とはこのようなものなのですね。

それがさびしいのです。

しかし翁が言うようにお金は「神でもなく仏でもない、もともと情(こころ)のない物であるから人間とは違った考えをする」のだから、なにを言ってもせんなきことではあるのだけれど。(エントリーNo.3617参照)

ご心配おかけしましたが、そいういうことで、自分の生き方を変えるつもりなど毛頭ありませんので、ご心配なく。(笑)

※今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイ の許諾を得て転載しています。

2007年01月19日

3625 ピラタス蓼科、レールとキッカーが明日オープン

晴れ 気温:最低 - 11℃/最高 - 4℃

ピラタスでは1月20日(土)からレールとツーウェイキッカーオープンします

明日、1月20日(土)からレールがオープンします。右の写真はスタッフによるテストラン風景です。手前はストレートで奥に見えるのがフラットダウンで、全長は共に6mです。

また、このエントリー左下の写真は同日オープンするツーウェイキッカー。リップ作成中の写真です。奥側はテーブル長5mリップ1.5m、手前はテーブル長1mリップ高50cmです。※どちらも利用時には誓約書が必要です。誓約書はチケット売り場にてご用意しております。(以上ピラタス蓼科スノーリゾートからのお知らせでした)


本来 Web はテキストベースのコミュニケーションツールなんだ、って! orz

さて、ブログをメインにする以前、つまり2006年12月20日以前、この「日記」はある意味「純粋な日記」だった。あくまでも文章がメインであり、写真はめったに使わなかった。情景を描くにも文章を用いてそれを行おうと努力し、安易に写真を掲載してすませることを潔しとしなかった。まあ、そのようなポリシーだったわけです。

だからこそ、じつに様々なことについて気軽に書くことが出来たし、同時にまた様々なスタイルで綴ることもできた。それだけ自由度が高かったと言うことも出来るし、そのぶんいわゆる Web 2.0 からは遠い存在だったとも言える。それにしても、本来 Web はテキストベースのネットワークだったのだから、ぼくにとっては当然のことだったのだけれど。

しかし、時代は変わった。劇的に変わってしまった。ぼくが1人でいくらテキストベースのHTMLサイトがベストなのだとさけんだところで、そんな声は風の中に消えてしまう。だから11月から継続的にホームページの大改訂を実施したわけだし、予約システムも全自動即決予約システムにアップグレードした。そして、12月には「蓼科高原日記」をブログ化(HTML版も並行継続)したわけです。

決して嫌々やったわけではなく、やってみれば新しいウェブ制作システムやデータベースによる予約システムの構築は刺激的だった。そのように新しいことを集中的に学ぶことはたいへん楽しい経験でもあった。

いずれにしても、すべてはお客様に快適にブラウズしてご予約いただきたいという想いからでたものです。「わかりやすい」「リアルタイムで空室情報がわかる」「簡単な操作で、即決で予約確認できる」ということを目指しました。そして現在も日々改善を図っています。

さて、結果はいかがでしょうか。是非ご意見をお聞かせいただければさいわいです。


※今日掲載した2枚の写真はともに(株)ピラタス蓼科ロープウエイ の許諾を得て転載しています。

2007年01月23日

3629 グータラノススメ

晴れ 気温:最低 - 11℃/最高 - 4℃

今日は一日グータラしていました。年に何度かは良いかなと思って。うちの愛犬パル(シベリアンハスキー、雄12歳)も一見いつもグータラしていますが、じつは本当にグータラしています。(笑) でも感心するのは、やるときはやるという野生の部分です。他の野生動物が近づいたときや、それを獲物と認識したときの彼の変身ぶりにはいつも感動してしまいます。その繊細かつ大胆なハンターぶりはじつに美しいものです。

しかし、ぼくにはどうやらそれはないようです。ただグータラしています。粗大ゴミなんて言われかねないただのオヤヂですか・・・。(^_^;)

仕事というか「やるべきことリスト」「やんなきゃきけないことリスト」をぜ〜んぶほっぽらかして、音楽を聴くでもなく本を読むでもなくボーッと一日を過ごしました。まあ、ペンションですから、広いっていえばめちゃ広いので、奥さんに「じゃまだからそこどいてよ、ほらほら」なんて言われなくてすむのはさいわいかも。

外も静かだし、パルは庭の雪の上でひなたぼっこして寝ているし、奥さんにも今日はグータラしようよなんてことを言って「お誘い」したり。今日もピラタスの森はとても静かです。太陽がぐりぐりと天空を巡る音が聞こえそうなくらい静かです。しかし、あらためて耳を澄ませばシジュウカラやウソの声が聞こえます、そしてそっと吹き抜ける風の音。夕刻にはキューンという鹿の声やキツネやタヌキやリスの動き回る気配。

どうやら野生の生き物にはグータラした一日って言うのはないようで、いや本当はあるのかな、まあいずれにしてもぼくらから見るとしばしも休まず「いまを生きて」います。野生にあっては生きることそのものが目的です。どうしてこの世界が存在するのかとか、なぜ生きるのかとか、生きる目的とか、そんなこときっと考えていない。そして生きることそのものが幸福であるかのように見えるのです。

動物だけではなく、植物だってここでは厳しい生存競争にさらされています。水や養分はもちろん必須ですが、ここで生き残るためには日照こそが要(かなめ)なのです。成育する過程で自分の上をもっと大きな植物の葉が覆ってしまうと、もうそれ以上大きくなれないか最悪の場合枯れるしかないかも知れない。文字通り必死に「上を目指す」ほか無いわけです、光を求めて。

身をよじるようにして他の樹木と枝を絡み合わせ、光を求めて真横に10メートルも枝を伸ばす姿を見ると、ほんとうに植物も生存競争に勝ち抜くしか生きる道はないのだと知ります。かつてイノセントに「自然は美しい」と感じて最終的ににここに移り住んだぼくらですが、今ではここに同化してそのような生存競争の目撃者・観察者となっています。

勝ち組だの負け組だのというこの「格差社会」の始まりには大いに異を唱えるものですが、こうしてみると生存競争というのはわれわれ人間も含めて運命的に科されたものなのかもしれません。ああ、いまぼくは穏やかな絶望の中にいる、決して失望ではなく。

2007年01月24日

3630 穏やかな絶望

曇り 気温:最低 - 8℃/最高 - 2℃

群青色の空に鋭利な刃物のような三日月が浮かんでいる。曇り空なのに、月の周囲だけは抜けたように雲がなく、やけに大きく近く見える。手を伸ばせば届きそうなほどだ。氷点下の世界ではなにもかもが凍り付いて、ぼくらにはどうにもなすすべがない。

ぼくらと冬との交信はこの寒さのみを通じて行われる。気温という実体的尺度としてではなく、感覚的なものとしての「寒さ」という尺度を使って冬はぼくらに語りかける。空も雲も雪もこの季節には本質的なメッセージを伝達するものではなくなる。ぼくらにもたらされるこの寒さ、この刺すような冷気のみが冬という季節からのメッセージなのだ。

いまぼくは穏やかな絶望の中にいる、決して失望ではなく。

昨日思わずつぶやいてしまった。

もう失望すべきものにはすべて失望し尽くしてしまった。数え切れないほどの絶望に落ち込んでははい上がってきた。だからいま絶望の中にあっても、それは穏やかな絶望として感じられるのだ。「出口がない」ことに何ら変わりはないのだけれど。

いまさら「いったいなにを信じて生きていけばいいのだ」なんて青臭いことも言えない。「なにを目指して進んでいけばいいのだろう」などと迷う歳でもない。なすべきことはわかっている、そしてそれがなしえないということも理解している。もう夢や希望を語っている季節ではないのだ。

「人生は闘いだ」という考え方もある。それはきっと正しいのだろう。しかし、戦うことを賛美するのは常に勝者のみだ。戦うことに疑念を持つ者が勝者になることは出来ない。戦うことは、競争することは楽しくスリリングだ、自分が敗者となるまでの間は。

これからの社会の本質が「競争社会」でしかないならば、弱肉強食の「生存競争」でしかないならば、ぼくはもはや生きると言うことに何の魅力も感じることが出来ない。「調和」のない世界はぼくが身を置くべき世界ではない。

この世界に神が在り、その指示が「生存競争」であるならば、そのような進化論原理主義的「神」をぼくは信じない。この世界に神が在り、その教えが「調和」であるならばぼくは喜んで帰依しよう。信仰は力であるが、宗教は強大な排他的イデオロギーでもある。その排他性が異教徒虐殺を礼賛し、戦争を聖戦として祝福する。その闘いに終わりはないのだ、原理的にも理論的にも。

強いものが弱いものを踏みにじり、闘争や戦争は絶えることがない。神は常にそこに在り、ただ沈黙している。なすべきは神の意志を推し量ることではなく、我々がどのような世界を望んでるかをヴィジョンとしてそれを実体化させることなのだ、たぶん。

羊たちの沈黙はもう許されないところまできている。

2007年01月27日

3633 山は雪、街は曇り

雪一時曇り 気温:最低 - 6℃/最高 - 4℃

昨日の夕方から降り始めた雪は今日の午後まで降り続き、一時止んだかに見えた。が、しかし、夕暮れ過ぎから再び本降りになっている。ものすごい降り方で、このペースだと最低でも1時間に1センチ、コンスタントに降り続いたなら50センチ以上の積雪になるかも知れない。

せっかく除雪し終わったと思ったら、またもとどおりになってしまう。まあ、除雪しておかなかったら、さらに上積みされた積雪量になってしまうわけだから決して無駄な労働ではないのだけれど、なんだかむなしくなる。除雪作業はそうした意味でも、まさに「行(ぎょう)」と呼ぶにふさわしいと思う。

それにしても今日は温かい。1月の下旬のこの時期は「厳冬期」と呼ばれ、学校だって「厳冬期休み」にはいるほどなのに、氷点下20℃にはほど遠い気温が続いている。まさしく暖冬異変だ。かつては最低気温が氷点下23℃、最高気温が氷点下16℃なんていうのがあたりまえだったのだから。

久しぶり山麓の街に買い物のために降りた。山岳部は標高1600mあたりまで雪が降っていたが、山麓は曇り空になっていた。ビーナスラインなどの道路は融雪剤散布によってほとんどがウエット路面になっていたが、この濃縮された塩水がクルマにはすこぶる過酷なのだ。海水よりも数倍も濃い塩水なのだからたまらない。本当に危険な箇所以外に撒くのは、出来ればやめてほしいところなのだけれど・・・。

ということで、少しだけ時間を作ってコイン洗車場に行った。洗車といっても温水の高圧洗浄機で下回りの塩を洗い流すのが目的だ。まあ、ついでにボディーもざっと洗うけれど、メインはあくまでも塩がこびりついている下回りだ。

土曜日にしては思いの外空いていた。ちょっと不思議に思う。町の人にとっては今日のような天気は「洗車日和」ではないのだろうか。ぼくらの基準では、氷点下でなくなったら洗車日和なのだけれど。だって、氷点下だと洗うそばから水が凍ってしまって仕事にならないから。したがって、冬はピラタスの丘では洗車やワックスがけは不可能なのだ。

ちょうどプリペイドカードが無くなったので、2000円券を自動販売機で買う。10枚に1枚の確率で3000円券が出てくるからだ。期待もしないで購入ボタンを押すと、あ、3000円券が出てきた。やれやれと思う。うれしいことだけれど、じつは去年の1月にも同じように3000円券がでてきたのだ。去年の「くじ運」はそれで使い果たした。あ〜あ、今年もこれで運が尽きたか・・・。

ジャンボ宝くじも、ロト6もこれまでかすりもしなかった。まったく縁がないのだ、そいういう幸運(?)ってやつには。おそらく「生まれつき」そうなのだろう。そのような星の下に生まれたのだ、たぶん。人生50年以上やってて何ら変わらない法則だから、もう断言しても良いと思う。

こつこつ生きていこう。

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2007年01月28日

3634 変わっていく日々

晴れ 気温:最低 - 8℃/最高 - 4℃

まず写真を選ぶ、それから構成を考えて、しかるのちに初めて文章を書き始める。蓼科高原日記をブログ・システムに載せるようになってからの作法だ。以前は、つまりHTMLで書いていたときには、テキストエディタでいきなり書き進めて、ほとんど写真は使わなかった。だから写真と文章や思考とのインタラクションはほとんど無かったと言っていい。

おおむね三行で一段落、それを4回繰り返して、16小節ワン・コーラスって感じだった。ブルースコードを奏でるベースラインに乗って書くって感覚だった。そこには内面的な映像しかない。具象はなく、抽象や形而上の世界しかなかった。ある意味純粋に内省的で自己完結的な気分に浸ることが出来た。ぼくの描く蓼科は、ぼくの内なる蓼科だった。しかし今はちょっと違ってきているように思う。

写真も同様にぼくの内なる蓼科の映像を写真というかたちで実体化させる試みだった。ちょっと大げさな表現だけれど、可能な限り正確に言葉にしようとするとそんな気障(きざ)な言い回しになってしまう。いつ頃からいつ頃がそのような時期だったのか今は思い出せないけれど、そんな幸福な数年間があった。そして今はそうではないというのも、また事実だ。蓼科高原日記の1998年から2003年頃あたりのバックナンバーを読むとそんな空気感があるかも知れない。

そんな想いとは関係なく雪は降り、雪は積もる。ずんずん積もる。今年は数年ぶりに降雪量の多い冬だ。ゲレンデの積雪量も平年より多く、雪質も数年に一度という最高のパウダーコンディションになっている。

今日も3時間かけてふたりがかりで除雪作業にいそしんだ。いわゆる「乾雪」なのでさらさらふわふわで腰に負担がかからず、除雪機で飛ばすのも効率的だ。風があると飛ばした雪が全部吹き戻されてしまうのでまったく使い物にならないのが除雪機の欠点なのだけれど、さいわい今日は微風だった。

夜間に雪が大量に降って、早朝から晴れた朝は最高の気分になる。これはじっさいに体験してみなければわからない感覚かも知れない。雪かきは大変なので気が重くないといったら嘘になるけれど、真っ白な朝の陽光に輝く雪はまるで砂漠のように見える。本物の砂漠よりもおりこうさんな砂漠だ。雪まみれと砂まみれとどっちが良いかと迫られたら、絶対雪まみれのほうがいい。なにを奇妙な比較をしているのだろう。

400ccの排気量の強力な除雪機で積もったばかりのパウダースノーを飛ばすのはけっこう快感だ。同時に、見た目ほど楽な作業ではない。ここはかなりな傾斜地だし、雪の下には岩や太い木の枝が潜んでいて、長年の勘でそれを噛み込まないように事前に除雪羽(オーガ)を引き上げてやらなければならない。また、うっかり深雪にはまろうものなら、200kg以上ある除雪機をひとりで引っ張り上げなくてはならない。そう、ここではなんでもひとりでかたを付けるのだ。どうにもならないときは、もちろん助け合うけれど。

そんなこんなで13年の時が経過してしまった。ぼくは多少なりとも自立した人間になれたのだろうか。それともこれは単なる隠遁生活(いんとんせいかつ)に過ぎなかったのだろうか。

2007年01月30日

3636 ホームページは広告宣伝なのか

晴れ 気温:最低 - 10℃/最高 - 2℃

10年かけてふりだしにもどった

昨年の10月頃からずうっと自分の、というかペンション・サンセットのホームページのリニューアルにかかりきりだったような気がする。このウェブサイト(データ容量が200MBを越えたいま、そう呼ぶ方がふさわしいだろう)を開設したのが1996年7月1日だから去年の7月時点で満10年を迎えていたわけだ。

さすがに周囲のペンションや旅館の「ホームページ」と比較しても「古くささ」が目立ってきているように、少なくとも「ぼくには」感じられたのだ。その1年前に、ウェブや最新の書籍で学んで W3C の標準規格で主要な部分を再構築したのだけれど、それだけでは不十分だった。

ぼくがHTMLを書き始めた頃、標準規格は HTML 3.0 がようやく策定されたところだったように記憶している。だいぶ前からそれが HTML 4.01 Transitional ないし HTML 4.01 Strict となっていた。古いブラウザーを使っているひとのことも考えて HTML 4.01 Transitional を採用した。同時に CSS(カスケーディング・スタイルシート)も本格的に導入して、構造記述と修飾記述とを可能な限り分けて書くようにした。

次の段階はブログなどで標準となっている XHTML への対応だ。ものすごく優れたホームページ作成ソフトが出そろって、初心者でもHTMLの知識がまったくなくても素敵な見栄えの良いホームページを作成することが出来るような時代になったのに、ぼくは反対にいまHTMLやCSSやJavaScriptを手打ちで入力している。なんだか10年かけてお里帰りしたような奇妙な感慨を感じている。


ホームページは広告宣伝なのか

ホームページは広告宣伝なのか、と問われれば、「イエス」であり「ノー」でもある。古い用語を使うならば、ホームページによる情報発信は「PR(パブリック・リレーションズ)」であるというのが妥当なのだろう。しかし、じつに微妙なポジションに現在は置かれているように思う。すくなくともWWWは原初より「情報伝達メディア」であったことだけは断言できるのだけれど。

そのことがぼくを迷わせる。その結果、日々、ある時は劇的に、またあるときには細やかにペンション・サンセットの「ホームページ」のコンセプトやポジショニングや語り口やデザインやサイト構成を変化させ続けている。良くないこととはわかっているけれど、試行錯誤とはこのような結果をもたらすのもなのだ。

「広告宣伝」と「情報発信」という似て非なるふたつの位置づけの間を行ったり来たりしているのかも知れない。すくなくともウェブ以外のメディアにおいては、一応、「広告」には広告の作法があり、「情報」には情報の作法が確立されている。しかしウェブにおいてはなんでもありなのだ。

そのことがぼくを迷わせる。頭がかたくなってしまったのかも知れない、そんなことで右往左往するなんて。ただ現象面で見るならば、今年あたりから宿泊業にかんしてはプロに依頼して構築された「プロフェッショナルな広告宣伝にフォーカスしたもの」がメインストリームになってきている。

個人的には、ペンションのホームページは可能な限り「オーナーの手作り」であるべきではないかとも思うのだけれど、そんなのどかな時代は終焉を迎えたのかも知れない。ぼくはあいかわらずトレンディーじゃないのだ、たぶん。あいかわらず「パーソナルなコミュニケーション」を求め続けているのだから。


宿は苦行?

世の中は好景気だそうなのに宿はますますデフレ状態、安売り競争の総力戦になっている。構造不況は当分終わりそうもない。「しゅくはくぎょう」を変換したら「宿は苦行」と出た。まさに言い得て妙ではある。じつに「宿は苦行」となりつつあるのかもしれない。

2007年01月31日

3637 ホームページは「広告」でもあり...

雪のち晴れ 気温:最低 - 6℃/最高 0℃

夜間パウダーが降り、朝からは快晴、2月の気候に

午前0時過ぎから雪が降り出していたが、朝になるとすっきりと晴れ渡り真っ青な空から明るい陽光が2月の到来を予告していた。積雪は数センチだが、さらさらのパウダースノーだ。陽射しは急激に強まり、いつのまにか「厳冬期」を過ぎていたことを知る。

午後3時頃、所用で車に乗ろうとしたら昨日は10センチ以上積もっていた屋根やボンネットの雪がすっかり消えて無くなっていた。気温が氷点下でも雪は溶け、蒸発してしまうのだ。ここに移住して間もない頃、氷点下6℃以下でも家の屋根の雪が溶けて流れる様子を見てびっくりしたことを思い出す。

そのようにして、たとえ厳冬期でも氷点下の春でも屋根の雪が溶けてつららを形成するのだ。鏃(やじり)の先よりも鋭利なつららの先端はサスペンスドラマのトリックさながらにじつに凶器となりうるものだ。

今年のピラタスの丘、のみならず、隣接するピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデも、積雪量にも雪質にも恵まれている。積雪量は100センチから130センチ、雪質は完璧なパウダーでしかも掘っても掘ってもずうっと下までパウダーというコンディションだ。それがどれほど快適なものか、経験者にはよくわかると思う。


ピラタス蓼科共通リフト1日券・2食付で10000円!

さて、昨日はたいそうなタイトルでちょっと書いてしまったけれど、その流れもあって、今日再び迷いが出てしまった。が、意を決して、少なくとも「現在」の状況としてはホームページは「広告」なのだという結論を出した。

だからトップページはいささかアクの強い「広告」ページにした。「ピラタス蓼科共通リフト1日券・2食付で10000円!」という目玉スキーパックの宣伝だ。情報発信として考えた場合でも、ぼくの側からいまもっとも伝えたいことはこのことだから、これはこれで良いのではないかと考えた。


予約方法を3通りに変更

12月から「全自動24時間即時予約システム(暗号化通信)」だけになっていた予約方法に加えて、メールシステムを利用した従来の「ご予約フォーム(暗号化通信)」からもご予約いただけるようにした。さらに、「電話予約」も積極的に承る体制にしたので、ご都合に合わせて使い分けていただければ幸いです。詳しい説明はこちらにありますのでご覧下さい。

2007年02月01日

3638 信州は大雪の冬に

曇り 気温:最低 - 10℃/最高 - 5℃

ピラタス蓼科スノーリゾートは積雪120センチ

ピラタスの丘の上空には終日黒々とした「雪雲」がどっかりと居座っている。降りそうで降らない。いつ降り出しても不思議はない状況で、天気概況でも雪の予報が出ている。あ、ピンポイント予報を見てもこれはわからないはず、標高1700mを超す山岳部の天気は予想しがたい部分が大きい。いまここにいるものが空を見上げるしかないという部分が大きいのだ。

いずれにしてもこれから週末にかけて1回から2回の積雪があることは確かだろう。ピラタス蓼科スノーリゾートは積雪120センチと報告されているけれど、じっさいはそれ以上の積雪のある部分が多いと思う。となると数年に一度の大量積雪ということになる。信州では「雪不足どころか大雪の年になっている」のだ。とはいえ今週末はクルマでの走行が億劫(おっくう)なほどの大雪はなさそうだ。

この写真はピラタス蓼科スノーリゾートの雪景色だけれど、これを撮影したスタッフの方は「まるで森が無言の自己主張をしているように感じる」と撮影時の印象を記している。素晴らしい感性だと思う。

じつはピラタスの丘に暮らすぼくらも、そのように感じることがよくある。意識を同調すると、じつは自然はぼくらにじつに様々なことを語りかけていることに気づく。大切なのは意識を向け、耳を傾けるという習慣だ。それは壮大な独り言かも知れない、あるいは個別のつぶやきかも知れない。

ラジオのチューナーで選局するときのように、慎重にその波動を探るのだ。最初は困難かも知れないが、そのうち慣れてたやすくその波を捉えて同調することが出来るようになる。そっと目を閉じて耳を澄ますだけで、自然の声が聞こえてくる。それを感じることができる。


積雪の森を散歩、至福のエクササイズ

久しぶりにシベリアンハスキーのパル君と散歩に行ってきた。一昨年腰痛を発症して以来、夏の繁忙期以外はほとんど奥さんが彼の散歩につきあっているのだけれど、腰の具合が良いときにはぼくが行くようにしているのだ。なにしろ体調120cm、体重33kg、全身筋肉のマッチョな大型犬なのだ。

彼の身体はこのような気候、このような雪と氷の世界にもっともふさわしくできている。だからこの季節はパル君にとっては1年で最高の季節なのだ。積雪路や凍結路そして急勾配の坂、どんな地形でも彼はずんずん進んでいくことが出来る。

足の指が長く、踏ん張るとそれがぐっと広がって「かんじき」のように雪に沈むのを防ぐ。しかも肉球の周りや指の間にまで長い毛が生えていて雪の付着を防ぐようになっているのだ。爪は常に鋭く長く、スパイクのようにしっかりと氷を捉えることが出来る。

体毛もダブルコートになっていて、雪のつきにくい剛毛の内側には羽毛のように暖かなフェルト状のふわふわの細い毛が密集している。氷点下20℃以下でも雪の上でぐっすり眠れるわけだ。そこには力強い「野生」が宿っている。

もともとソリ犬としての歴史を持つ犬種だけに、この季節の持久力は無限とも思えるほどだ。そんな彼の散歩は1kmやそこらではすまないから、標高差が100m以上あるペンション村をぐるっと一周するのが習慣だ。その距離はおおよそ4kmほどか。30分間は早足でおつきあいすることになる。

しかもこの季節はアイスバーン対策に stabilicer(TM) というスパイクをスノーブーツの上に装着しているので、まるでスキーブーツを履いたように重い。これはもう立派なエクササイズだ。空気も20%も薄いから、文字通りの高所トレーニングでもある。

ということでパル君の散歩につきあっている限り運動不足ということにはならないわけだ。したがって、奥さんはすこぶる健康で体力も維持できている。ぼくは腰痛以来(散歩を休み気味だったせいで)体力が落ちている。今後は積極的にパル君に運動を手伝ってもらおうと思う昨今だ。

※今日の1枚目の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイ の許諾を得て転載しています。

2007年02月02日

3639 個人的な想い

晴れ 気温:最低 - 15℃/最高 - 7℃

ピラタス蓼科スノーリゾートは今週末がベストかも

今日の午後4時頃のピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデの写真です。スタッフの方の撮影です。積雪は120cm以上でロープウエイ利用のヒョウタンコースもカモシカコースもすべてのコースが滑走可能、パウダーゾーンもたくさんあります。雪質は完璧なパウダーで最高です。雪質に関しては今週末が今シーズンではベストのコンディションになりそうです。これからどんどん暖かくなってきますから。

しかし今日に限っていうなら、最低気温が氷点下15℃とこの冬一番の冷え込みになりました。最高気温も氷点下7℃と上がらず、暖房を入れないと館内も氷点下になるほどでした。それでも、年々暖かくなってきていることを実感します。たぶんこの冬も氷点下20℃まで冷えることはないでしょう。

まちがいなく暖冬化は世界規模で進行しています。


ホームページを個人的に運営する意味

それはそうと、このサイトは「ペンション・サンセットのホームページ」であると同時に「オーナーである僕の個人的なサイト」でもあるというところが、他のペンションのホームページと決定的に違うところなのかも知れない。先日のエントリーで「ホームページは広告だ」ということは「イエス」であり同時に「ノー」であるとしか言えなかったのはそのような事情による。

また最近の他のペンションのようにホームページをプロに制作運営委託するということができないのも同じ理由による。というか、単純に僕がそう決めてしまえばいいだけの話なのだけれど、そうなるとこれまで10年以上がんばってやってきたことはいったいなんだったのか、という問いに僕自身が答えなければならない。

僕にとってホームページ(ないしはウェブサイト)の評価は、単純に「どれだけ集客に結びついたか」という指標だけでなく、「どれだけお客様と心が通ったか」ということがとてもとても重要なのだ。じつに青臭い考えだとは思う、それでもこの想いをつないでいきたいと想っている。

そうだ、そうなのだ、これは「個人的な想い」の問題に過ぎない。経営者として判断するならば、こんな大変なことからは早々に手を引いてプロにまかせてしまうほうが、集客の面からもずっと効果的で効率的だと想う。

昨年12月に特に個人的なコンテンツである「蓼科高原日記」をブログ化してホームページ本体と分離したのはそれなりの解決策の方向性だった。ホームページはペンションの集客により最適化していく、ブログは個人的なコンテンツとして(ただし、ペンション・オーナーとしての立場を忘れずに)並立していく。

このかたちはペンションの成り立ちとよく似ていると思う。ペンションは単なるハードウエアとしての宿泊施設ではなく、経営者たるオーナー夫妻ないしはオーナー個人の個性や雰囲気と密接に結びついて初めて成立する宿なのだ。

だから僕はなにがあっても日記を書き続けている。10年余、一日も休まずに。


※今日の1枚目の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。

2007年02月10日

3647 たくさんのお客様で華やぐスキー場

未明まで雪、その後晴れ 気温:最低 - 4℃/最高 3℃

3月なみの陽光の下、華やぐスキー場

ピラタスを始めとして各スキー場とも大変な賑わいを見せた。やはり「雪不足報道」の影響で(じっさいは信州には平年並みの積雪があった)、年末年始のスキー計画をこの連休に延期したお客様が多かったためではないかと推察される。じっさい、ここ数年でもっともにぎわっているのではないかと感じている。

右の写真はピラタス蓼科スノーリゾートの今日の午前中の写真で、リフト待ちはそれでも3〜5分待ちだったとのことだ。左下の写真もスタッフの方による写真だが、昨夜からの降雪でこんな感じで樹氷が綺麗についた。今夜も雪が降る予報なので明日も良い感じになると思うとのこと。

ということで午前中と午後陽射しが弱まってからのピラタスはとても良い感じだった。

しかし正午近くなり陽射しが強くなると、雪質は標高の高い部分は完璧なパウダーだったが、標高の低い部分は正午を挟んだ4時間ほどは水気が出たシャーベット状の部分も出てきた。だが、よく観ると雪の結晶は崩れていないので、これでまた冷え込みがきつくなれば回復してパウダーコンディションにもどる雪となっている。

さっきも書いたけれど、明日未明には若干の積雪の予報が出ているので、明日はもう少し良い感じになると思う。それにしても、一昨日から今日にかけてのこの異常な熱波(?)はなんなのだろう。気温は平年の2月と何ら変わらない低温なのに、この強烈な陽光によって雪が3月みたいになっているのだから尋常ではない。

今夜の冷え込みと積雪に期待したいと思う。


ブログってなんだか裸で街を歩く感覚なんだ

それにつけても、ブログというこのシステムはやはり古来の(?)Web Logに比較すると、まったく異なるカテゴリー、まったく異なる概念のもとに存在するのだということを実感する。自分のホームページ(Web Page)の中で日記ないしは日誌のようなものを書いているときには感じたことのない「丸裸になったような感覚」を日々体感する。(ちゃんとした服装をしているのに)まるで全裸で街を歩いているような気分になってくる。

ホームページで書いているときは心地よくなじんだ自分の部屋で書き物をしている感覚だったのが、ブログの場合はどこか「パブリックな場所」で誰かに向かって語りかけているような気がする。とにかくものすごく「パブリック」な感じなのだ。公式見解を述べているような感じであって、これまでのような「ひとりごと」ではすまされないようなある種のプレッシャーを感じるのだ。

これは気のせいなのだろうか、個人的な特異な感覚に過ぎないのだろうか。それとも誰もが感じていることなのだろうか、浅学寡聞(せんがくかぶん)にしてぼくにはわからない。


※今日の写真は2枚とも(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。

2007年02月12日

3649 ひとそれぞれの神

晴れ 気温:最低 - 10℃/最高 - 1℃

神はなにも語らずなにも指し示さない。それは神の仕事ではないからだ。したがって、宗教の起源はマハリシ(偉大なる観者)の直感であり、宗教の体系はその後を引き継いだ偉大なる聖者のインタープリテーションである。宗教をひとを操る道具にする輩は古来より存在し、それは権力者でありテロリストでありペテン師であった。いつの世でも変わらないのはイノセントな民衆の深い信仰心だけだ。

釈迦が得たのもそれであり、モハメッドが達したのもその境地であり、キリストが語ったのも(いささかメタファーが多いが)その世界である。アニミズムや山岳信仰などの原始信仰と宗教との決定的な違いはそこにある。神のお告げを受けたなどと言うイノセントな体験ではなく、始祖あるいは教祖と呼ばれるかれらは確かにそこに行ったのだ、その境地に達したのだ。

しかし彼らといえども「神」に会うことはかなわなかった。神の思惟する世界に触れたに過ぎない。しかしそれは偉大な業績に違いなかった。そして現代において我々はその恩恵に恵まれ、あるいはその災いに見舞われているわけだ。どちらにしてもそれはわれわれの責任であって、神には関わりないことではある。

同じ境地に達しながら異なった教義を唱えると言うことには蓋然性がない。それは後世に変質(ローカライズ)していったものと考えるのが妥当だと思われる。神が唯一無二であるならば、「聖戦」とよばれるような宗教戦争などありえない。宗派が異なるというだけで殺し合うなどという所行は、すでに神の世界からほど遠い愚かな人間の営みに過ぎない。そのことに神は一切関わりない。

だからぼくは宗教は信じない。しかしぼくは「神」を信じている。唯一無二の神を、この世界の成り立ちを。この世界があるということそのものが奇跡であり、神の存在証明である。だから、物語として奇跡を語る宗教をぼくは信じることが出来ない。そのような奇跡は神のなせる業などではなく、純真なひとびとの信仰とその想いが実体化した出来事なのだ。神は我々の世事には一切かかわらない。それは神の仕事ではない。

ひとそれぞれの神を、宗教を信仰するのはじつに自然なことだから、ぼくはひとのことには一切かかわらない、当然のことだけれど。これはぼくにとっての神のはなしに過ぎないのね。

2007年02月15日

3652 同時代史を語ってなにが悪い

曇りのち雪 気温:最低 - 8℃/最高 -5℃

そいういえば、いまやぼくにはまったく縁がなくなってしまったけれど、昨日はバレンタインデーだった。チョコレートは好きだけれど、僕らの世代は幸か不幸か、学生時代にバレンタインデーなんてイベントはまだメジャーではなく、その悲喜こもごもな雰囲気を知らない。最近ではクルマやメカ好きの彼のためにこんなチョコレート(写真)があるそうで、こういうのだったらいまでも欲しいかも。

期間限定でここ(http://www.rakuten.co.jp/frantz/)で売っていました。

それはさておき、10年間に閏年(うるうどし)は2回あった計算なので今日がまさに閏日を算入した10年目ということになる。じつに、10年一昔ではあるわけで、それ以上前のことをいうとまるで紀元前の歴史を語っているかのように妻に言われるのが不本意な昨今ではあります。まだそんなこといわれる歳じゃないって、ほんとに。

だったら、ビートルズだってジョン・レノンだってストーンズだってクリームだってスティングだってクイーンだって 古代史じゃないか。その時代をコンテンポラリーに体験した世代がそのことを語ってなにが悪い、なんてね、思わず切れそうになっちまうのね。

ガンダム世代の男性たちが熱くガンダムを語るのと同じこと。女性はそういうところに優しさがないというか、デリカシーが無い。何でもかんでもデリカシーがないのは男性の方みたいな言い方を(女性から)されるのだけれど、女性もおなじくらい自分が思っているほど男性がわかっていないということにそろそろ気がついてもいい。お互い「何にもわかっていない」のは同様なのだ、じつのところ。

そして女性の地位向上と、選挙における感覚的浮動票としての影響力の大きさ、そして大量消費社会における消費の主導権を女性が握っている現状とが密接にリンクしている冷徹な政治および企業戦略にしっかりと目を光らせておいたほうがいい。本物のフェミニストなんてそうそういるものではないということは、すでにご承知の通りなのだから、女性もゆめゆめ油断召されるな。がんばれ!

そしてもし少しでも余裕があったなら社会に虐げられし声なき多くの男性の苦悩にも心優しい目を向けてくれるとうれしいのだけれど。

それはそうと、今日はぐっと冷え込んですさまじい強風に見舞われ、終日氷点下の荒れた天候となりました。道路という道路、小径という小径は筋金入りのアイスバーン、氷の王国に変貌しました。その強風に舞う白いもの・・・午後遅くから雪が降り始めました。いまもずうっと降り積もっています。これはよい兆候です。

2007年02月18日

3655 現象としてのぼくのダメな在り方

雪のち晴れ 気温:最低 - 3℃/最高 1℃

ぼくは存在なのだろうか、それとも現象なのだろうか。ぼくはそもそも「存在」なのだろうか、この世界の中に存在するなにものかなのだろうか。それともこの世界で生起している星の数ほどの現象のひとつにすぎないのだろうか。その現象の反映のひとつに過ぎないような気がする。サルトルの「存在と無」の議論に触れていると、どうもそんな気分になってくる。自分とはひとつの現象である、と。

まあ、議論のルーツにフッサールの「現象学」があるのだから当然なのかも知れない。意識もまた「現象」として扱うことが出来るのだ。そのことはこの書物の副題にあるとおりだ、「現象学的存在論の試み」。そのことにぼくも異論はないし、むしろぼくもそのように考える。個人的な直感としても同様の認識を持っている。少なくとも「ぼくの意識」は「現象」である、と。

ぼくは大学で実験心理学(experimental psychology)の徹底した訓練を受けた。2000人もいる文学部の同学年でたった16人の学生をその2倍の人数のスタッフが徹底的に教育するシステムの中で、受験勉強以上の学業をこなした。行動主義心理学(オペラント条件付けの仮説に基づく学習理論)、行動科学、サイバネティクス、ゲーム理論、知覚、ゲシュタルト心理学、人工知能、最適化理論、モデル構成、確率論、解析学、統計学、尺度構成、知能テストの作成と検証、論理実証主義、プラグマティズム、精神医学、臨床心理学、社会心理学、教育心理学、発達心理学。懐かしい名詞が記憶の彼方から湧き出てくる。そのすべてがいまの僕の血となり肉となってぼくという存在を形成している。当然のことながらぼくの卒業論文は「実験心理学的存在論の試み」となった。

それはさておき、ぼくは学究となり学者を目指すべきだったのかも知れない。人生に「もし」はないと信ずるものだけれど、そのことだけはとても興味がある。当時のぼくは学会とか学者の社会とかそういうものにおそらく耐えられないと考えた。それで、その正反対の極である広告業界に飛び込んだのだ。それによって自分を正反対の人間に変えることが出来ると信じて。

結果は見てのとおりだ。いま、ぼくは、ここに、いる。そこはぼくのいるべき世界ではなくぼくの居場所はしだいに限定され最後には自ら決別することとなった。まあ、ぼくに広告マンとしての才能がなかった。すくなくとも超一流の才能はなかったということは、現在のこの広告下手の現状を見れば明らかだ。燃え尽きてしまったということもあるけれど。

そのようにしてぼくは真綿で首を絞めるようにして存在を否定され抹殺されたのだ。良い仕事をする必要はない、利益の上がる仕事をしろというのが至上命令だったのだから、ぼくの仕事ぶりが評価されるはずもなかった。じつにイノセントだったのだ、お馬鹿さんだったのだ。いまならそのことがよくわかるし、よく見える。しかし時間を戻したとしても、ぼくは同じことをするだろう。

だから、もし学究となっていたとしても、その世界での成功はおぼつかなかったことと思う。ぼくはスタンドアローンで生きるべき人間として生まれついているのだと思う。利害の絡む複雑な人間関係の海を航海するすべは努力だけでは身につかない。それは持って生まれた才能のひとつなのだ。ぼくは致命的にそれに欠けていた。

そんなぼくには泥臭い営業活動は出来ない。それが最も有効な営業活動だとわかっていても、それはぼくの土俵ではないのだ。ただひたすら誠実に語りかけることしかできない。ただひたすら誠実に営業するしかない。ただ誠実にお客様に接するしかない。結局のところ、ひとは「自分の土俵で自分の相撲を取る」ほかないのだ。

ああこんなことを書くのではなかったと、いま後悔している。でも、他に書くことが出てこない以上、公開しちゃえということで。こういうことを書かないのが商売上手なペンション・オーナーの条件だというのにね。

2007年02月19日

3656 ひとりぼっちのあいつ

晴れ 気温:最低 - 8℃/最高 - 1℃

ひとりぼっちのあいつ?・・・これだから日本版のビートルズのアルバムはいやなのだ。ぼくはこんな曲知らない。調べてみればなんのことはない Nowhere Man のことだとわかる。一事が万事この調子だから、日本版だと「知らない曲名」ばかりがずらりと並ぶことになる。まあ、そういう時代だったのだとあきらめて、輸入盤を選択するほか無いわけだ。

そしてこんなことを言っているぼくは、いまの若い人から見ればとんでもない古代人だと言うことになるのだろう。古代人ですが、なにか?

それはさておき、きのうはとんでもなくたくさん雪が降り、夜の間に降った雪は軽くて素敵なパウダーだったのに、夜が明けてからの雪は上越に降るような重い湿雪だった。一時霙(みぞれ)になったり雨に近い降りになったりしたほどだった。

しかし、ピラタスのゲレンデではずうっと(けっこういい)雪だったそうで、標高の高いコースでは最高のコンディションになったようですね。やっぱり暖冬には標高の高さが利いてくるわけです。お客様からも「大満足だった」というメールをいただいてほっとしています。

昨日みたいなことばかり書いていると(たぶん)みんなに嫌われると思うので、今日は書かないでおこう。そもそもああいうことを書き始めると際限なくいろんなことを思い出すので、それだけで脳細胞がオーバーヒートしてしまう。やっぱり若い頃とは違うのだと思い知らされますね。

記憶にしても索引だけはちゃんと残っているのに、その中身というか内容が記憶からすっぽり抜け落ちて蒸発してしまっていることが多いのには驚かされる。同時にちょっとショックでもある。なんだかわからないのだけれど、3650日目を越えて以来ものすごい疲労感に襲われていてどうにも回復の兆しが見えない。いったいどうしてしまったのだろう。

なんてね、じつは自分ではわかっているのだ。この日記を書くこと、毎日欠かさずに書き続けることが(少なくともぼく個人にとっては)「身を削る」作業だったし、いまもこれからもそれはきっと変わらないということが。それでもやめないのは「意地」とでもいうべきものなんだろうな、たぶん。

いつまでも「ひとりぼっちのあいつ」でけっこうだ、これがぼくの生き方なのだから。

2007年02月20日

3657 ピラタスの春は冬なのだ

曇り時々晴れ 気温:最低 - 7℃/最高 - 1℃

か、書けない。きょうもまた、書けない。いや、正直言うと、書けないんじゃなくて、書くとまずいことばかり浮かんでくるのだ。これが私小説ならば、フィクションならば、じゃんじゃん書けるんだけれど。個人的なブログじゃあちょっとね、しかも日記だし。

で、当たり障り無いことといえばお天気の話しかないかも。朝から曇っていたけれど、しだいに晴れ間が出るようになった。しかし気温はあまり上がらず、雪も溶けなかった。これはゲレンデにとっては優しい天気でなによりだった。

午後9時頃には雲海の中に入ったらしく、窓外は濃霧状態になってなにも見えなくなった。スポットライトすらその光束は途切れてしまう。雲の粒子がありとあらゆる光を吸収してしまうのだ。残るのは純粋な闇だけだ。しかし、それはそれでなかなか感動的な体験ではあるのだけれど。

いまはもう霧は晴れているが、頭上には分厚い雲があり、雲の上から照る月の光も淡いものになっている。いつもどおりとても静かなピラタスの丘(の夜)だけれど、その静寂の中にいのちの気配を感じるようになってきた。

もうすぐ春なのだ、といっても都会のひとからみればあと2ヶ月近くは冬の気候が続く。ピラタスの春は冬なのだ。しかし、ここではここなりの春が確かにやってくる。樹木の周囲の雪が丸く溶け、木が水を吸い上げ始める。それはまさに森の胎動だ。小動物がまるで冬眠から醒めたみたいに活動量を増やす。

空の色が変わり、雲のかたちが変わり、陽射しのベクトルが変化し、熱量が増す。風のにおいが変わり、音の伝わり方が変化して、空気が柔らかくなってくる。それを感じる度にぼくは冬景色の中に新緑の春の森の幻を見る。つがいの時期を迎えていのちを謳歌する野鳥たちの大合唱を聴いたような気がする。

今夜もパルの犬舎のすぐ前を野生のキツネ(通称コンちゃん)が通って、パル君がスクランブルをかけた。もし彼が繋がれてなかったら、コンちゃんはとんでもない災難に見舞われたことだろう。しかしコンちゃんもパルが繋がれていることを知っているので、こうしてすぐ近くまでやってくるらしい。

悪意は感じられない、むしろパルに対して親密な感情を抱いているようにさえ見える。シベリアンハスキーはそんな野生のにおいを持った数少ない犬種なのかも知れない。スクランブルをかけるときでもパルは一切ほえたり声を立てたりしない。

無駄吠えもしないし、他の犬に吠えかけられても吠え返さないで無視する。そして、自分の気配を消すのがとても上手だ。そんなパルを僕らは「ステルス犬」と読んでいる。ほんとうにいるのかいないのか忘れてしまうほど静かなのだ。そして天然で、楽天家で、とってもお茶目なのだ。

そんなパルをぼくらはこよなく愛している。

2007年02月21日

3658 ペンションという宿の変化

晴れ 気温:最低 - 7℃/最高 - 1℃

ぼくは疲れている、とっても。というか、徒労感に襲われている。こんな格差社会になっちゃったから、みんなもそうかもしれないけれど。(^_^;)

これは宿泊業および旅行業界全体の構造的問題でもあるのだけれど、ペンション業界も安売り第一の消耗戦という、仁義なき戦いの時代になってしまったからだ。見識を持って独自の道を歩み、それを評価してくださるお客様によって成立する時代は終わってしまったようなのだ。

どうせペンションなんて社会的敗者とか変わり者がやっている「安宿」ぐらいにしか思われていないのかも知れない。その認識はイエスでもありノーでもある。

それは個別のペンションの問題だからだ。しかしはっきり言っておきたいのは、社会的成功を収めた後の人生としてペンションを始めた人もたくさんいるけれど、ぼくみたいに社会的敗者となった経験があるからこそ出来る心遣いだってあるし、変わり者(?)だからこそステレオタイプではない独自の道を歩んで安らぎや新鮮な出会いやおもしろさを体験できるペンションだってあるのだということだ。

じっさい、ペンションオーナー夫妻の最終学歴は平均よりずいぶんと高いし、その子供たちの学歴も相応に高いのだ(偏差値60〜75)。職歴も一部上場以上のそれなりの大企業、特に金融やマスコミ出身者が多い。まあ、いっぽうで若いときから独立独歩でやってきたつわもの(=ひとかどの人物)も多い。ちなみにぼくは(株)電通の本社で約20年間切磋琢磨した。妻はANAのキャビンアテンダントだった。結局ぼくの方は燃え尽きてドロップアウトしちゃったけれど。(^_^;)

それ以上に、場合によってはゆうに1億円を超える開業資金をきちんと調達したことは特筆に値すると考えている。ペンションは少なくとも、1990年代に開業したぼくのような場合は、それだけの資本投下がなされているのだ。本当の意味での社会的敗者に始められるビジネスではない。

それはさておき、グローバルスタンダードを標榜する社会というのはローカリズムを否定する社会だ。金太郎飴みたいに切っても切っても同じ顔が出てくるような資本原理主義社会だ。米国発のこの「格差社会を基本とする不幸のシステム」を我が国は「輸入」すべきではなかった。

そのことは米国のノーベル賞受賞経済学者スティグリッツの著書にあるとおりだ。読めばわかるけれど、グローバルスタンダードを導入している(あるいは賛同している)国は世界中を見渡してもほんの数国に過ぎないという事実。我々は騙されているのだ。

ことかようにペンションもどこも同じようなサービス、同じような設備、同じような料理、そして同じような安売り価格へと落ち込んでいかざるを得ない現実としての流れがある。そうしないと低価格戦略に転じたホテルや大型旅館に対抗できないのだ。大型小売店の進出によって滅びてゆく地元個人商店街を見るような思いだ。

しかしそのような流れに逆らって、必死に知恵を絞り骨身を削って新しい概念、ポジショニングそしてサービスを創出しようというペンション経営者が集まっているのがペンション・サンセットのあるピラタスの丘ペンション村だと、個人的には思っている。寡聞にして他のペンション村のことは知らないけれど、同様にがんばっている経営者はたくさんいると思う。

一般論を言うなら、もうペンションなんていう概念自体が必要とされなくなったのだ、と個人的には感じている。まあ、ぼくは個人としてこの「ペンション」という「呼称」および「概念」には違和感を覚えているので、いつかそれを覆した概念を確立したいと思って日々無い知恵を絞っている・・・のですが。はてさて。

2007年02月23日

3660 思考と行動における言語

雪のち曇り 気温:最低 - 6℃/最高 0℃

一番好きな映画はなにかと問われたら、以前なら「フィールド・オブ・ドリームズ」と答えたかも知れない。しかし、いま思い浮かぶのはフランシス・コッポラの「地獄の黙示録・完全版」なのだ。一方、もっとも影響を受けた映画はなにかと問われれば、やはりスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」とアンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」を挙げることになるだろう。

そして座右の書はなにかと問われたなら、即座にジャンポール・サルトルの「存在と無」と答えるしかない。その書物をぼくはいまだに読破していないにもかかわらず。デカルトが登場すれば「方法序説」を読み、ヘーゲルが登場すれば「精神現象学」を読み、ハイデッガーが出てくれば「存在と時間」を読み、「現象学」が出てくればエドムント・フッサールの著書を読む、といった具合に読み進めざるを得なかったからだ。

そもそもぼくをそのような省察的な思考へと導いたのは、S.I.HAYAKAWAによる「思考と行動における言語」という「一般意味論(GENERAL SEMANTICS)」への啓蒙的著書だった。たまたまそのとき英語の講義で「統辞論(Syntax)」を習っていて、それを鳥羽口にソシュールの構造主義言語学やチョムスキーの理論に首をつっこむことになった。しかし「意味論」こそぼくにもっとも衝撃を与えたものだった。「この意味はなにか」ということではなく、そもそも「意味とはなにか」と問いかけるのだから。

この著作によってぼくはものを体系的に考える礎(いしずえ)を得たといっても過言ではない。

2007年02月27日

3664 最愛のDSC-F828

晴れのち雪 気温:最低 - 7℃/最高 1℃

2月27日(火)の午前2時の月です。月齢10.2、上弦の月から満月に向かう月が、漆黒の闇に浮かんでいます。いつもは群青色の空が今夜は pure black です。息を詰めて200mmで手持ち撮影したのですが、初めての経験で露出過多でしたね、月面がよく見えません。ぶれてもいるし・・・これは練習あるのみ。っていうか、三脚を使うのが常識だろうって声が聞こえるけれど。(^_^;)

いま使っているデジタルカメラは SONY の DSC-F828 というデジタルカメラです。一昨年の11月に新型(DSC-R1)が出て値下がりしたときに手に入れたものです。新発売の時の価格は16万円を越えていましたが、9万円ほどで入手できました。特徴はなんといってもカールツァイスのT*(Tスター)レンズでした。ぼくはカールツァイスのレンズの味が大好きなのです。

このカメラは、あくまでも バリオゾナー28mm-200mm/F2.0〜F2.8 を最大限に生かすためにカメラ部分を設計して取り付けたといった、カメラ付きレンズといったコンセプトのユニークなものです。なんといっても全域にわたって非常に明るいレンズであるところが、サンセット(夕暮れ)を撮影することの多いぼくには最適だったわけです。

が、しかしカメラ好きのぼくとしてはやはり昨今完成度を高めてきたデジタル1眼レフを1台は手元に置いておきたくなってきた。それと、普段どこに行くにも身につけていたいコンパクトデジカメが欲しくなってきた。この2種類のデジカメは相互補完的な役割を担うわけです。まさか1眼レフなみにでかくて重いこのカメラを首からぶらさげてゲレンデを滑走するわけにもいかないでしょ。

とは言ってもカメラ道楽できる身分ではないですから、限られた予算で工夫しなければなりません。ペンションってなにやかやで、維持するだけでも年間数百万単位のお金がかかるのですね。やれやれ・・・。まあ、好きで始めたことですからこれは「ぼやき」でも「文句」でもありませんが。どこに行ってもなにをやっても生きている限り「金が敵(かたき)の世の中」なのです、ってことについ「やれやれ」と言ってしまう、ダメな自分です。

それはそうと、色恋沙汰(?)から遙か遠ざかっているなあ、オレ。って思う昨今でありますが、だからまあ夫婦は平穏無事なわけではあるわけです。でも、いくつになっても、男だって、恋をしてみたいものなのさ。それは女性だけの専売特許ではないのだ。もちろん、恋するこころと人間としてのモラルのバランスを失ったら破滅あるのみだけど。

それにしても、バイロンの言うとおり「男の恋は生涯の一部だが、女の恋は全生涯だ。(ドン=ジュアン)」なのかもしれないけれど、いまや男性だってまったく同じなのだ。いまはむしろ男の方が全生涯をかけてひとりの女性を愛し抜くことが多いのかも知れない。男は「終わった恋を引きずる」とよく言われるけれど、それは違うのだ、その恋は永遠に終わることがない恋なのだ。女性のようにこころの倉庫にしまい込んで忘れてしまうことは出来ないのだ、男という生き物は。

2007年03月03日

3668 あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ

晴れ 気温:最低 - 3℃/最高 5℃

ペンション・サンセットはいったいどこに向かっているのだろう。僕がこんなことを言っていてはいけないのだけれど、激動の時代にあってときにはすっかり迷ってしまうことがある。自分はいったいどこに向かおうとしているのだろう、その方向は時代性にマッチした方向なのだろうか。

「時代性」がキーワードになって久しいけれど、いまやそれは「消費者心理」あるいは「世論」と言い換えてもいいだろう。古き良き時代には、自身の信じる道を真摯(しんし)に歩んでいれば、そしてそれを正しく伝えることができればビジネスは高い確率で成功したように思う。

しかしいまはまったく事情が異なっている。

「それだけ」ではダメなのだ、そして「そうでなくても」成功できるのだ。いまや「自身の信じる道を真摯に歩む」ことはビジネス上の障害になりこそすれ、そんなものは捨て去るべき「つまらないプライド」として語られるようになってしまった観がある。

自分の仕事に「個人的」な、あるいは「ひとりの人間として」の、プライドなんて持っていたらビジネスは成立しないのだ。ビジネスにはビジネスの倫理とプライドがあるのだ。それは人間性とはまったくかかわりないところで動いていく。その意味においてビジネスマンは、あるいは商人(あきんど)は、「公人」であって「個人」ではないのだ、またそうであってはならない。


過ぎ去ってみれば古き良き時代はもう戻っては来ないだろう。それにしても、ビートルズの歌声を聴いているだけで、この世界はまだ人類が未来に夢を抱くことができた時代のように感じさせてくれる。眼前には展望が開けあらゆる可能性がその扉を大きく開いて待ち受けているように見える。そんな時代に自分がまだいるような気分にさせてくれる。

「純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ。」=物質と記憶(アンリ・ベルグソン)

もうあともどりすることはあり得ない、われわれは観念としてすら「あの楽園」に戻ることはできない。それはもうすでに終わってしまったことなのだ。


※写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。

2007年03月05日

3670 概念としてのペンション村なのだ

雨 気温:最低 0℃/最高 3℃

ピラタスの丘ペンション村というのは全体がペンション村として造成されたものではない。そこがディベロッパーが最初から「ペンション村用地」として開発したペンション・ヴィレッジと決定的に異なるところだ。正式に表現するならば、ここは「ピラタスの丘」という名の「別荘地」である。

バブル景気に向かう景況の中で、1600m〜1800mの亜高山帯に展開するこの別荘地は開発されたと聞いている。いまから30年前になろうかという昔の話しだ。そこに別荘に混じって思い思いにペンションが建ち始め、やがて様々な実際的な理由から「ピラタスの丘ペンション村」が形成された。

つまりこのペンション村は「概念的」なものなのだ。事実としては広大な別荘地の中に30軒ほどのペンションが営業しているということになる。それぞれの想いを抱いて、あるいは突き動かされてこの地にやってきたオーナーばかりだから、同じようなペンションは1軒も無い。それが最大の特徴かも知れない。

そしてオーナーたちは(配偶者も含めて)みんなピラタスの丘を愛している。この地の豊かな自然を愛している。空を愛し、雲を愛(め)で、山を愛し森を愛している。雪を愛し、新緑を愛し、花を愛し、野鳥や野生の動物たちを愛している。夏の太陽を愛し、秋の紅葉を愛(め)で、再び巡り来る厳寒の冬を愛す。

そりゃ〜人間だから、仲の良いひとそうでもないひとはお互いにあるかも知れない。みんなそれぞれに個性的だから、もちろん良い意味で。だからべったりと仲良しというのはないかもしれないけれど、想いは一緒だから最終的には力を合わせてこの地での暮らしをエンジョイできるようにがんばっている。

個人的には、だからこそ、ピラタスの丘はとても素敵な場所なのだと思っている。これまでの人生でこれほど素晴らしい場所はなかった、少なくとも「観念的」には。


※写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。

2007年03月06日

3671 ピラタスは積雪120cmもあるのだ

晴れ 気温:最低 - 6℃/最高 4℃

昨日は全国的に大荒れの天気になったとニュース報道で知った。しかしピラタスの丘では強風というようなことはなく、雨もさほど降らなかった。2000mから3000m級の山に囲まれているためかも知れない。

それでも昨日の雨と今日の陽射しとで、おもだった道路はほとんど乾燥路面になった。ペンション村の中も同様で、積雪の嵩(かさ)もだいぶ減った。しかしピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデは相変わらず良いコンディションで、積雪120cmをキープしている。

ロープウエイ利用のコースをはじめとしてすべてのコースが滑走可能で、ブッシュや岩や小砂利はでていない。雪はたっぷりある、それに気温がとても低くなったので夜には人工降雪機で雪撒きを行って整備を進めている。

まだまだ「春スキー」という感じはない。春スキーになるのは3月下旬からではないだろうか。平野部ではうららかな早春を実感なさっているかも知れないけれど、ここはまだまだ冬なのです。まだまだスキー、スノーボードシーズンは終わっていませんよ。(^^)


★★★


先週の金曜日にえいやっと決断して初めてのデジタル1眼レフカメラを発注した。NIKON D80 にするか SONY α100 にするか最後まで迷ったけれど、最終的に「使いたいレンズ」で選択した。そして、速攻で翌土曜日に SONY α100 が到着した。

組み合わせるレンズは DT18-200mmF3.5-F6.3 という35mmカメラ換算で27mm〜300mmのデジタル専用ズームレンズと、ピラタスの雄大な自然を捉えることのできる超広角ズームレンズ DT11-18mmF4.5-F5.6 という35mmカメラ換算で16.5mm〜27mmのレンズを選択した。

シャッター音やファインダーや質感は NIKON D80 の方が上だと思うしとても気に入ったのだけれど、デジタル1眼レフ初心者の僕にはいささかマニアックに過ぎるように感じた。使い始めてみればそんなことはないのだろうけれど、銀塩カメラに熟達することのなかったレベルでは「目指したのは、誰もがいい写真を撮れること。」という α100 に共感を抱く。

これまでカールツァイス・レンズ、バリオゾナー18mm〜200mm T* 搭載の SONY DSC-F828 を使ってきたこともあって、ユーザーインターフェイスになじみがあるということもあるし、いかにもカールツァイス・レンズ的な絵づくりも気に入っている。じっさい、このαシリーズ用のカールツァイス・レンズも暫時リリースされ始めているし、その点もプラス評価となった。NIKONの写り具合もとても好きなのだけれど、最終的にはやっぱりツァイスが好きなのだ。

しか〜し、僕はまだ梱包を開いていないのだ。1週間以内ならば未開封商品は返品可能だからだ。だから、宅配便で届いたままの段ボール梱包の状態のまま大切に保管しているわけだ。ということは・・・まだ NIKON D80 + AF-S DX VRズームニッコールED18-200mm/F3.5-5.6G(IF)の組み合わせの方がいいかなあと迷っているのだ。

その道具を気に入るかどうか、愛せるかどうかというのは僕のようなタイプの人間にとってはとてもとても大切なことなのだ。信頼することと愛することとはまったく別の次元の出来事なのだ。どちらもとても大切なことだけれど。


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2007年03月07日

3672 And I Love Her

晴れ 気温:最低 - 11℃/最高 - 2℃

ここでは時間は問題ではない。関係性もまたさしたる問題ではない。ここでは生きているということは意識がある(覚醒している)ということと同義なのだ。必要なのは生きていくという意欲、そしてそれを支える資本。貨幣経済社会においては生きるということは貨幣無しでは考えられない。生きるのには水と食料とそしてお金がかかるのだ。

今朝は一転してずいぶん冷え込んだ。最低気温は氷点下11℃、3月としては寒いのかも知れない。おかげでゲレンデの雪づくりはとてもはかどったようで、極上のパウダースノーが生成された。ピラタスの丘では3月というのは冬と春の中間点のようでもあり、真冬と冬の終わりの過渡期のようでもあり、とても変化の激しい季節だ。

今朝、氷点下10℃の雪の中でシベリアンハスキーの愛犬パルと遊んでいるとき、風の音の中に野鳥の声を聞いた。冬の鳴き声とは異なって、ピーピー、ヒューヒューという口笛のような地鳴きに変わっている。もうすぐ番(つがい)の季節が始まるのだ。渡り鳥が飛来し、にわかに森が騒がしくなる。といってもそれは美しい野鳥の歌声で満たされる至福の季節であるわけだけれど。

午後になって強い風が吹きすさぶようになった。おかげで空には雲ひとつ無くなった。たまに雲がやってきても(おそらく)時速数百キロで吹き飛ばされていく。真っ青な空は、深く澄み渡り距離がまったくつかめないほどだ。風のせいで氷点下2℃でも体感気温は氷点下20℃ほどに感じる。モーレツに寒い。

ついでに、こころも懐(ふところ)も寒い。

"The World without Love"(ピーターとゴードン)、懐かしい。夫はこの年齢になると妻にとってはもう用済みなのだ、たぶん。男なんて女が子供を産んで育てるための道具に過ぎない、男なんて便宜的(べんぎてき)存在にすぎない。男なんてたとえば「白物家電」みたいな耐久消費財に過ぎないのだ。だから歳をとると「粗大ゴミ」扱いされることになってもそれは自然なことなのだ。

もし言い過ぎだというならこう言い直そう、女にとって男は子を産み育てるあるいはエピュキュリアン的欲望を満たすための「装置」にすぎない。しかしながら、女性にとって心地よい世界を構築するのが男性の本質的喜びである。捉えようによっては男性は哀しい性(さが)だ。

それを知ってなお女性を愛さずにはいられないということが男性のDNAに組み込まれた地獄である。愛する女性の笑顔を見たいがために男は必死で努力するのだ。

念のために言っておくけれど、ぼくはアンチ・フェミニズム論者ではない。

And I Love Her.


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2007年03月10日

3675 鏡の国はあるのです、たぶん

晴れのち雪 気温:最低 - 9℃/最高 1℃

ペンション・サンセットにいらっしゃると、どこかでこのパブミラーに出合うことと想います。しかしリピーターのお客様でも、あれこんな鏡あったっけ?・・・なんていうかたもいらっしゃるかも知れませんね。じつはこの鏡はペンション・サンセットの「宝物」のひとつで大変貴重なものなのです。

もちろんパブミラーとして貴重だ、という意味なのですが、個人的に大切に想う理由がもうひとつあるのです。

日が当たっているときにじっと眺めているとじつに様々な物語が映し出される不思議な鏡なのです。ほんとうですよ。この写真のように見えることはめったにないのですが、さて背景にはなにが映り込んでいるのでしょうか。そして本当なら映り込むはずのぼくはどこにいるのでしょう。(^^)

鏡を隔てて、「こちら側の世界」と「あちら側の世界」があるという説を、ぼくは個人的に信じています。べつにこの世とあの世ということでもないので、怖がることはありませんが、ただ、ボーッとした意識で鏡の前に立つことは出来るだけ避けた方が良さそうです、経験的には。

鏡という鏡がいつも別の世界との出入り口になっているわけではないですし、誰もがその力というか影響を受けるわけでもないですから。ただ漫然と鏡の中の自分(の映像)と語らうのはやめておいたほうがいいですね、きっと。

あ、怖がらなくっても大丈夫です。ペンション・サンセットの鏡はごく普通の鏡ですからね。ただ、ひとによってはどんなものでも「特別なもの」になることがあるということです。ぼくの場合はたまさかそれが「鏡」だというだけのことです。この世界はじつに多様な不思議に満ちているわけです。


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2007年03月11日

3676 美しい雪景色です

雪のち晴れ 気温:最低 - 8℃/最高 - 4℃

昨夜から降り始めた雪は予報に反してみぞれにはならず、午前11時頃までパウダースノーが降り続けました。今日はピラタス蓼科スノーリゾートの「蓼科冬の感謝デー」だったので心配しましたが、いい雪が15センチ〜20センチも積もり一面の銀世界、しかもバーベキューの無料サービスや餅つき大会の始まる時間に合わせたかのように雪が止み、お日様が出て青空になったのには感激しました。

イベントは大盛況でした。どの催し物も大賑わいで、お客様に存分に楽しんでいただけたようで、関係者一同ほっと胸をなでおろしているところです。なんといっても、とても質の良いパウダースノーが降って綺麗な雪景色になったのが最大のプレゼントになったのではなかったでしょうか。

昨日の夜から使い始めたデジタル一眼レフ(SONY α100)ですが、さっそく今朝の雪景色を16mmレンズで撮影してみました。なかなか良い感じです。ペンション・サンセットの館内も撮影してみましたが、これまでは不可能だった映像を写し取ることが出来てちょっと感動しています。

左の写真はペンション・サンセットの自慢の吹き抜けスペースですが、こういうアングルで撮影すると6メートルという本来の高さと全面ガラス張りによる開放感が感じられることと想います。こういう写真でお客様に本来のイメージなり実際をお伝えしようと考えています。

いずれにしても、お客様に写真映像によって情報を伝える道具として大活躍してくれるものと思います。その前提としてぼくががんばって写真を勉強しつつ、それ以上にいろんなところに行って撮影しなければダメなのですが。(^^ゞ


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2007年03月13日

3678 超広角レンズの世界にはまる

晴れ 気温:最低 - 14℃/最高 - 2℃

明らかにいつもと違う冬です。冬の始まり方も去年あたりからすっかり変わったように感じていましたが、この冬ははじめから(おそらく)おわりまで、いつもとは異なった冬になるのかも知れません。

八ヶ岳のちょうど向こう側(東側)の野辺山では、八ヶ岳おろしが吹きすさぶ冬にはなにもかもが凍り付き耐え難い寒さだと聞いたことがありますが、それほどではないまでも、この冬はこちら側(西側)でも3月に入って風の強い日が多くなり日中の気温が高いわりに寒い日が続いています。

この澄み切った真っ青な空が夜の寒さ、アフターダークの冷え込みの厳しさを証明しています。

それはそうと、この超広角ズームレンズ、最初は「あれ、こんなていどかぁ」と思ったのですが、実際に使い始めてみるとこれがけっこうワイドで、面白くてしょうがない。標準の35mm換算の28-300mmズームはまったく使っていません。というか出番があまりない。


デジタルカメラの色に関して「記憶色」という概念が最近よく使われますが、同様に「記憶空間」というのもあると思うのですね。昔通った小学校などを大人になってから訪ねると「え?こんなに狭かったっけ」なんてことがあると思いますが。それが「記憶空間」のなせる業です。

この超広角レンズで写した写真は「記憶空間」のイメージなのです。物理的にはひとの周辺視野を含んだ空間なのです。あるいは一点に視点を置いてぐるりと見回した映像です。

そもそも人間の視野というのは「非ユークリッド空間」つまり「球面幾何学」の世界なので、超広角レンズや魚眼レンズと同じように空間を写しているのを脳が情報処理してわれわれが日常的に認識する「ユークリッド空間」に変換しているわけです。要するに平行線が永遠に交わらない世界です(非ユークリッド空間では地球の経線のように平行線は必ず交わる)。

この空間に妙に親しみを感じ、やがてまったく違和感なく観ることができるようになるのは、そのことに大いに関係があると思っています。


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2007年03月15日

3680 1年で最も長い1日が終わった

曇り 気温:最低 - 15℃/最高 0℃

今朝もぐぐっと冷え込んで、もう何日まるで厳冬期のような寒気にさらされているのだろう。3月と2月が入れ替わってしまったような気候になっている。そんなこととは関係なく、ここ数日ほとんど寝ないで愛用のMacに帳簿の数字を打ち込んできた。

いまは会計ソフトがとても良くできているので、むかしほど大変ではなくなってきたけれど、大変なのは何かの加減で数字がおかしくなってしまった時だ。たとえば現金残高がなんとマイナスになってしまうなんてことが帳簿上で起きる。

そんなことはありえないので、どこかで数字の入力や仕分けを誤っているわけだけれど、それを見つけ出すのが大変なのだ。年中大量にこの作業を行っているなら何でもないことなのだろうけれど、なにしろ(多くの個人事業主がそうであるように)この1ヶ月ほどの間に集中してやって、次の1年の間にコツというようなものをすっかり忘れてしまうのだ。

まあ、そんなこんなで、何とか締切り時間の5時には諏訪税務署に青色申告を提出し受理された。1年で最も長い1日が終わった。めでたし、めでたし。(^_^;)

それにしても(まあ1年で最も忙しい1日だから同情する余地はあるけれど)お役人というのはどうしてこうエラソなのだろう。威張っているというのではないのだけれど、少なくともにこやかではないし、ぼくみたいに50kmもはなれた標高差1000mを下ってきた市民に、ご苦労様のひと言もないというのはどうしたことだろう。彼らには公務員という言葉の意味と、公務員の立場というものが理解できていないのではないだろうか。

べつにふつうでいいのですよ、とくべつにこにこしなくたって、丁寧な応対でなくったっていいのですよね。そこまでは期待してない。ただ、自分たちが国民に奉仕する立場の人間であり、そような仕事に携わっており、つまりは「パブリックサーバント」であるという認識を新たにして欲しいのだ。

昨年のご用納めの日の終業間近に税務署に行く用事があったのだけれど、すっかりき気がゆるんでいたのか、取りやすいところ(立場の弱い者)からいかに税金をぶったくるかという「ニュアンス」のことを笑い話にしているところを目撃してしまった。

上からああしろこうしろとこづき回される現場の人間としての「本音」が思わずでちゃったのだと思うけれど、まあ気持ちはわからないでもないけど、がっかりしましたね、はっきりいって。いまや誰もが動画録画できるデジカメや、IC録音機能つきの携帯端末を持ち歩いているご時世だから、くれぐれもお気をつけあれ。

消費税みたいに取りやすいところから取るのではなく、納めるべきところにしっかりと納めさせる、納税能力のあるところにしっかり課税するというのが正しい税務というものではないのだろうか。生きるために必要な食品にまで一律課税している現在の消費税は、世界に冠たる天下の悪法だと僕は思っている。これこそ現代日本をむしばんでいる「悪平等主義」の「誤った公平性実現」の良い例だ。これじゃあまるで「生存税」ではないか。


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2007年03月21日

3686 初心に返ること野心を失わないこと

晴れ 気温:最低 - 14℃/最高 - 6℃

GWに向けてペンション・サンセットのHPを少しでもご覧いただきやすくするために、改善を進めています。

大きな変更といえば、これまで載せてこなかった私たちオーナーのご紹介ページを「プロフィール」としてアップたことです。プライバシーというか個人情報というかそのへんに関して心配もあるのですが、お客様が知りたいことのひとつに「どんなひとたちがこのペンションをやっているんだろう?」というのがあると思うからです。小さな個人的な宿であるからこそ、そのご心配というか不安というか、それがかなり大きな部分を占めることが理解できるからです。

24時間全自動即時予約システムも、以前よりシンプルな仕組みに変更しました。従来どおり実際の宿泊料金を確認してから予約できますが、料金確認だけでも利用できます。予約完了までのステップ数が減ったのと、お客様サイドで3部屋までの部屋割りができるようになったところが進歩しました。また、残室数が数字で出るようになりました。

素泊まり(食事無し)が基本プランで、それに朝食、夕食、プランオプションを付け加えていくスタイルなので、あらゆるご利用形態にお答えできるものになりました。たとえば3名様のうち2名様が1泊2食付き、遅く到着なさる残り1名様が1泊朝食付というケースも簡単です。早朝ご出発のケースなら1泊夕食付(朝食無し)も選択できます。実際にご利用になってみてご意見ご要望がありましたらご一報いただけると幸いです。

方向性としてはもっともっとシンプルでわかりやすいものにしていきます。もっと詳しく知りたいお客様にはそのような「うんちく」のページをご用意しますので是非ご覧いただければ幸いです。

★★★

さて、今日も冷え込みは相変わらずで、昨日と同じく晴れなのにより強く冷え込みを感じた一日でした。春を感じさせる空に、沸々とペンションへの想いがつのってきました。自分がどのような「大志」をもってこの仕事を始めたのか、そのことを心の中で反芻しています。目標や、目的や、良い意味での「野心」をうしなってしまうと、その仕事には活気というものがなくなってしまいます。苦しい時代が続きますが、だからこそ元気を出して初心を貫徹すべくがんばるのだ。


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2007年03月22日

3687 だれかさんの望みどおりの社会へ

曇りのち雪 気温:最低 - 11℃/最高 - 6℃

夕方5時頃から小雪が舞い始めた。今日は雪の予報はなかったけれど、本降りになって積雪があるかも知れない。この降り方だと、雪が降っているのは山岳部だけと思われる。早春の静かな森に降る雪は悪くない情景だ。ひっそりとした景色に舞う雪は、たしかに悪くない。これを見るためだけでも、ここにいる価値がある。

この11年間のホームページ運営でなにを持ってしても伝えることの出来ないことがあるということを思い知った。それは百万の言葉でも数千万の写真でも伝えることの出来ないものだ。いまここにあって、はじめて感じることの出来るもの、そういうものやことがあるのだ。

しかし人々はそのようなモノやコトをわかりやすく伝えることを求める。ユビキタスだか情報革命だかなんだか知らないけど、そういうことを伝えることが可能なインフラと技術とが実現された時代になったのだと信じ込んでいる。それは誤った認識であり、いわば都市伝説にも似た経済伝説あるいは粉飾された技術革新宣言にすぎない。

ケータイが我々の本質的ななにかを変えただろうか、イエス、なにかとても大きなものを変えてしまった。インターネットが我々の本質的ななにかを変えただろうか、イエス、なにかを劇的に変化させてしまった。それによってわれわれは幸福になっただろうか。社会は啓発され安全で明るいものになっただろうか。ノー、じつはその正反対のことが起きているように感じるのは間違った認識なのだろうか。

そのような情報革命によって情報過多社会になったために我々の情報処理能力は疲弊して、目は曇り理解力は鈍り、気づかないうちに既得権者がその特権と利益をますます増大させることを保証する社会になってしまった。小泉政権〜安倍政権へとひきつがれたこの流れは変わることなく続いている。時代は逆行している、かつての資本家と労働者という昔懐かしい構図がいまの社会にもすっきりと当てはまるではないか。

これに対してアンチテーゼを示さなければならないのに、それがなされにくいのは、「情報化社会」あるいは「構造改革」という名の空虚なテーゼあるいはプロパガンダが浸透してしまったせいだ。これらのお題目はそれに異を唱えるものを異端者として排斥するためのシステムとして「考案」されたものだったのだ。いまさら気づいても遅いかも知れない。

格差社会を目指すものがこの国を動かすシステムの中枢を占め、異を唱える大多数の領民(国民なんかじゃない、もはや)の声はかき消される。ぼくは旧来よりノンポリティカルな人間だけれど、その僕でさえそんなふうに思わざるを得ない昨今だ。

北朝鮮やイラクやテロリストたちは、そのような画策から自国民の目をそらすための「悪役」を演じさせられているだけなのかも知れない。こちら側の世界から観れば、確かにかれらは間違ったことを行っているのだから、それを改めさせることは必須なのかも知れない。が、そのプロセスを自分の企図に利用している勢力の存在を僕は感じるのだ。

2007年03月23日

3688 春来たる・・・が、まだまだ滑れる

晴れ 気温:最低 - 8℃/最高 6℃

昨日の最低気温、氷点下11℃から氷点下8℃に、最高気温氷点下6℃からプラス6℃へと一気に気温が上昇した。陽射しは温かく日中はまさに早春となった。ピラタスの丘の森の木々もよく観れば枝の輪郭がギザギザとして新緑の芽吹きへの準備に入っている。

落葉松などはもうライトブラウンの針葉をつけている。そうだ、落葉松は(その名の通り)昨秋すっかり針葉を落として枝だけになっていたはずなのだ。しかしふと気づけばしっかりと美しい色合いの針葉を付けているではないか。

常緑針葉樹のもみの木やしらびそなどはその色を緑濃いものへと変化させている。山並みもしだいに山体の色合いを変えてきている。

ピラタスの丘の広葉樹の新緑の季節は5月中旬からだけれど、蓼科湖などの湖沼部の新緑はまさにGWからになる。同時に蓼科湖では400本を越えるソメイヨシノが一斉に咲き誇り、これは写真撮影の被写体としてもおすすめだし、ただ眺めるだけでもこころがうきうきしてくるほど素晴らしい景観だ。

もうすぐ春が来る、そのことを実感させる一日だった。

不思議なのは、その一方でお隣のピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデはいまだ「春スキー」にもなっていないスキーシーズンだということなのだ。あと1週間もすれば「春スキー」の雰囲気とゲレンデ状況になってくるだろうけれど、今週末はまだ2月のハイシーズンなみの雪が満喫できる。今シーズンの締めくくりの滑り納めにおすすめだ。


※今日の写真と図版は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。
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2007年03月25日

3690 アウトオブデートな僕?

雨のち曇り 気温:最低 - 1℃/最高 5℃

春の雨

ことことという雨音で目が醒める。これは「春の音」だ。たしかに、と断言できる、今年の春はずいぶん早くやって来た、と。氷点下まで冷え込むのに春だなんておかしいと思うかも知れないけれど、この地ではこれが春の訪れの気候なのだ。


特記事項

今日石川県能登半島沖を震源とした地震があった。ピラタスの丘で地震を感じることはほとんど無い。たとえ諏訪で震度3でもここはゆらりともしない。前回揺れを感じたのは阪神淡路大震災の時だった。今回もそれに似た揺れを感じたので、どこかで大きな地震があったのだと直感した。

揺れたといっても震度1か2程度だったけれど。すぐにNHKをつけるともう速報が流れていて、どこで地震があったのかがわかった。最近は日本各地で地震の少ない地方で突然大地震がやってくるようで不気味だ。被災地の方々にはこころからお見舞い申し上げます。


ニュースです

ホームページにオーナー(つまり僕と妻)の簡単なプロフィールを掲載しました。どんな人がペンション・サンセットをやっているのか、少しでも知っていただいた方がお客様も安心してご利用になれると考えました。プライバシー丸出しでちょっと怖いけれど、このような仕事をしている以上それはある程度しょうがないのかな、と思っています。


といったところで今日はおしまいです。いつもあんまり長く書いてばかりだときっと嫌われちゃうだろうから。いま僕は「現代」というか「現在」の社会風潮が理解不能というか、うまく認識できなくなっています。いよいよ僕もアウトオブデートになってしまったのかも知れません。

2007年03月27日

3692 My Favorite Things

曇りのち雪 気温:最低 - 2℃/最高 9℃

デジタル一眼レフカメラを手に入れたことと、昨年末から始めたブログ(といってもWeb版ブログのつづきだけど)に毎日写真を載せられるようになったことで、写真を撮す機会がぐっと増えた。一眼レフのシャッターを切ったときの機械的な感触が好きなのだ。それはいかにも目の前の写し取りたい風景や情景をしっかりと捕まえたという確信を与えてくれるからだ。

シャッターを切るとファインダーに映像を送り込むためのミラーが跳ね上がりシャッター幕が高速で走りその後再びミラーが元の位置にもどる、その音と振動がたとえようもなく心地よい。プリミティヴな宗教儀式で打ち鳴らされる打楽器のように、その波動は呪術的でこころ惹かれるものがある。

リズミカルに撮影を続けるうちに次から次へとインスピレーションがあふれてきて、撮影そのものが音楽的なものに変質するところが、ぼくにとっての一眼レフカメラの楽器的位置づけとなっている。それはいまこうして(そのことを)タイプしているキーボードの音やキーの感触もまた同様なのだけれど。ようするにこれもまたぼくにとっては音楽であり、楽器であるわけだ。

いまこうして文章を打ち込んでいる(書いて?)いる間にも、背後のスピーカーからはジョン・コルトレーンの演奏する My Favorite Things が聞こえている。エルヴィン・ジョーンズの自在に時を刻む呪術的なドラミングとマッコイ・タイナーのシンプルなコード進行の呪術的な反復の上にコルトレーンの呪術的なアドリブがソプラノサックスによって奏でられ続けている。スティーヴ・デイヴィスの野太いベースはそれを支えるギリシャ神殿の巨大な柱のようだ。

それはこの世界を一度バラバラに分解し、瞬時に再構成する作業の永遠に続く反復のように感じられる。バラバラにし、組み替える、再びバラバラに分解し、そして組み替える。以前とは異なった少しだけ新しい世界が現れる。

ぼくもそのような写真を撮ることが出来たらいいなと思う。自分もそのようなことを文章で行うことが出来たらすごいなと思う。ささやかだけれど、たぶん実現しない夢ではあるけれど。


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2007年03月29日

3694 蓼科高原は春の行楽シーズンに

曇りのち晴れ 気温:最低 - 3℃/最高 11℃