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2006年08月20日

3473 お盆ツーリズム

晴れ 気温:最低 14℃/最高 21℃

きのう深夜から楽天トラベルのサーバーに繋がらなくなってメインテナンスができなくて困っていたが、今朝調べてみたら「定期メインテナンス実施中」だってさ。ほかの業種はとにかく、「トラベル」にとっては書き入れ時の夏休みそれもお盆最終日にこういうことをやる神経がわからない。

これではじゃらんnetに水をあけられても仕方がない、じゃらんは旅というものを理解しているが楽天は残念ながらそうではないようだ。こういうところにインテリジェンスの違いが出るのだと思う。

それはさておき、昨夜もものすごい星空だった。満天の星で、天の川や銀河の中心の星の密集している様が手が届きそうにくっきりと見て取れた。そしてやはり空気がうまい。こんなに空気がうまいと感じたのはここに移住して12年で初めての経験だ。森が生い茂ってフィトンチッドが倍増したのかも知れない。マイナスイオンとフィトンチッドとオゾンの多さでは蓼科は昔からよく知られているのだ。

今朝は気持ちよく冷え込んだ。キーンとした大気が心地よい。半袖ではちょっと肌寒く感じる。お客様はフリースを羽織って散歩に出ているようだ。そうだもう少しすると朝晩には吐く息が白く見えるようになる。しかし日中は真夏の日差しが降り注ぐ。これから1ヶ月ほどはそんな夏と秋とが同居した季節が続く。それは僕にとっても最高の季節だ。年間を通じて最も「癒し」に満ちた季節だ。

お盆休みも今日で終わる。すくなくとも旅行業界的にはそうだ。我々のように夫婦二人だけで営むペンションにとっては(おかげさまで)「怒濤のようなお盆休み」となった。そんなことで、今年もまたお盆休みは「失われた夏の記憶」となった。

一日2時間の睡眠をとることもままならず、三日連続で徹夜するのも当たり前、まともな食事をしたのはお盆休み以前の思い出だ。そこら辺にあるパンとかお菓子とかバナナとかをかじってしのぐのがこの時期の僕らの食糧事情だ。

何しろ分刻みのルーティンスケジュールで忙しすぎて買い物にでられないのだから地元野菜を別としてほとんどすべてを保冷備蓄せざるを得ない。日本中が(市場も休みになっているから)同じような状況で、あらゆる生鮮食料品が保冷備蓄されている。現状としてしょうがないのかも知れないけれど、これはちょっとおかしいと思う。

旅行業とそれに関わる諸産業はお盆に休むべきではないと僕は思っている。最も需要が在るときに公共性の高い市場(いちば)が一斉に休んでしまうというのはどうにも近代的ではない、現代的ではないし論理的でも合理的でもない。だからお盆には物価が高騰するのだ。生鮮食料品も3割も(場合によっては)10割も値上がりするのだ。

この「お盆ツーリズム」は我が国の休暇事情の貧しい一面を端的に表わしているように思われる。

2006年08月23日

3476 MOON TALK(1)

曇りのち晴れ 気温:最低 14℃/最高 20℃

避暑地の夏の終わりはいつも祭りのあとのようなそこはかとなく物寂しい印象を与える。僕らのような仕事をしていると、それはある種の虚脱感に近いものになる。同時に「癒しの季節」の訪れを感じる時節でもある。

夏の日差しは凶暴な力を失い、むしろ優しく柔らかなものに変わる。風はひんやりとして、しっとりと心をうるおしてくれる。空も森も風もすべてが優しくなる季節。今朝はとても冷え込んでダイニングラウンジの温度は21℃になった。9月にはいったら朝晩は暖房が必要になるかも知れない。

ひさしぶりにウォンウィンツァンの MOON TALK を聴く。今や知るひとぞ知る彼だから、それにあやかるみたいで嫌だから、最近はあまり友人であることを言わないことにしている。僕より3歳年上の彼とは18年来の友人なのだけれど、その間じつは13年間ほど音信不通だった。

あることで喧嘩(?)というか激しい意見の相違というか、要するにかなり決定的な行き違いがあって気まずいまま別れてそれっきり交友が途絶えていた。それがあるお客様が彼のHPの掲示板にペンション・サンセットに行ったこととそこのオーナーがウォンさんの友人だと言っていたということを書き込んで下さった。まあ、それがきっかけであらためて交友が始まったというわけだ。

もちろん僕など大勢の友人・知人のうちのひとりにすぎないと思う。しかし、個人的に音楽の話をしたり、個人的に精神世界について語ったりできるという意味では、スピリチュアルでソウルフルな関係だと思う。

話がそれた。秋に聴く音楽としてこのライヴアルバム MOON TALK はベストかも知れない。知っているひとはみんな知っているけど、ペンション・サンセットでは BGM としてはウォンウィンツァンのアルバムしかかけない。これ以上に僕が望みうる限り「この場所」に適切な音楽はないからだ。

まあ、JBL+McIntoshで聴く音楽は Blue Note 全盛期のモダンジャズが多いのだけれどね。それはそれ、じつはウォンウィンツァンのルーツはジャズピアニストなのだった。若い頃は新宿の PIT INN の昼の部で演奏していて、18歳の僕はよく彼の演奏を聴いていた、ということを彼と友人になってしばらくしてから思い出した。

当時の彼はいまの演奏からは想像もつかないけんか腰のアグレッシヴなピアニストだった。ユニット名は「江夏健二トリオ」だったかな?間違っていたらごめん、なにしろ36年も前のことだからね。年をとってくるといろんなことを忘れていることに気づき、いろんなことを覚えていることに気づく。

昨今、自分の若さに奢って年配者を馬鹿にしたような言動をする輩が増えてきたけれど、若さがなんぼのもんじゃいと言うのが実感だ。そんなものはあっというまになくなってしまうのだ。若さになんてなんの価値もない、志を持って何かに打ち込む圧倒的パワーがあるということだけが若さの特権だ。

だから自分が若いからという根拠の無い全能感や優越感だけで生きていると、あなた、大変なことになりますよ。ほんとなんだから。

この青二才がなにをわかった風なことを言ってやがる、社会人にもなってメンチ切ってるんじゃねえよ、って思うこともしばしばだし〜。ははは。まあ、世間や社会をなめてかかるってのも若さゆえのかわいい過ちといえなくもないか。ほんと、かわいいんだから・・・。(笑)

いまできることをしっかりやっておくことだ、それは僕自身への言葉であると同時に、僕よりもずうっと若い人たちへの体験的忠告でもある。若さなんて泡沫(うたかた)のようなものなのだから。

2006年09月02日

3486 季節・気候にふさわしい服装

晴れ 気温:最低 8℃/最高 17℃

昨夜は雲ひとつ無い快晴で、すさまじいばかりの星空を望むことができた。晴れた夜は放射冷却現象で冷え込むというセオリーどおり、今朝はぐっと冷え込んで6月中旬以来の最低気温8℃を記録した。数年前の「冷夏」の年にはお盆休みにこの気温になったことがあったが、その年はお盆休みも連日全館暖房を入れていたことを思い出す。

今朝はダイニングラウンジの気温が16℃だったので、7時前から大型ストーブに火を入れて建物全体を暖めた。客室の気温は24℃以上はあるので暖房を入れるとあっという間にむしむしと暑くなってしまうから、この季節にはこのような暖房方法をとることが多い。中旬を過ぎたら部屋の暖房も入れてちょうどいいかも知れない。

平野部では「残暑」とか。今朝の気温を体験すると、ちょっと信じがたい思いだ。お客様は、反対に、この涼しさ(というよりは「寒さ」)にかなり驚かれたようだ。しかし、陽射しがあれば気温はどんどん上昇して日中はピラタスの丘で18℃〜20℃、ここより標高が低い観光名所では20℃〜24℃になるので残暑のない心地よい晩夏が楽しめる。

こちらにお越しになるお客様は是非冬用のフリース、そして長袖のアンダーシャツを1枚是非持参していただきたい。アンダーシャツ1枚で信じられないほど温かく快適に過ごすことができるのだ。経験的には「冬用のフリース」より「長袖アンダーシャツ」のほうが温かく快適だ。少なくともTシャツにショートパンツでは朝晩の気温では凍え死んでしまうのは確実だから、僕の言葉を是非信じていただきたいのね。(^_^;)

山小屋の親父さんでも今時こんなことは言わないのかも知れないけど、「季節、気候にふさわしい服装をお願いする」しだいだ。その上で寒ければ客観的気温を勘案して全館暖房を入れるようにしているので安心されたい。

ただ、いつでもどこでもいきなり暖房や冷房で暑さ寒さを調節するというのは本末転倒だと思う。まず服で気温の変化に対応し、その上で暖房冷房(ここでは冷房は不要だけれど)を利用するのが古来からの人間の知恵なのだと思う。またそれがクールビズ、ウォームビズが定着しつつある我が国のみならず世界の時流だとも考える。

大切なお客様に寒い思いをさせるつもりは毛頭無いけれど、季節・気候にふさわしい服装で蓼科をじっくり味わっていただきたいと思っている。そのための暖房は必要十分以上のものにするつもりはない。Tシャツにショートパンツで部屋を30℃以上にむんむん暖めて過ごすというライフスタイルには賛同しかねるしだいだ。少なくともここはそのように過ごす場所ではないし、いまはそのような時代ではないと思う。

★★★

最近我が敬愛する友人ウォンウィンツァン氏のHPのリンク集からペンション・サンセットを知ったというお客様がいらしてくださることが多くなった。ご予約時にそのことを告げてくださるケースもあるし、チェックアウトの時に初めて話題にのぼってびっくりさせられることもある。

いずれにしても、ウォンウィンツァン氏との交友について語り出すと長くなるので、ここでは重複は避けるが、興味のある方はこちらでキーワードを「ウォン・ウィン・ツァン」としてサイト内検索してみてほしい。

ウォン氏とは魂の深いレベルでの縁(えにし)を感じている。何の利害関係もなく、魂のふれあいと共感のみで成立しているこれは本当の意味での「友情」だと実感している。それは「狩野さんがHPにお書きになっている世界観は私の音楽に通じています。13年の隔たりの後、それぞれが自分の世界を切り開きこのように再会したとき、それぞれのたどり着いたところが、同じところであったとは何と素晴らしいことでしょう。あの時に出会ったことの本当の意味を今、噛みしめています。」という6年前の氏の言葉に集約されているように思う。人生最良のこの出会いに感謝。

2006年09月06日

3490 スタイルの表現としてのペンション

曇りのち雨 気温:最低 11℃/最高 17℃

先日僕は『蓼科高原日記は、じつは日記風の「小説もどき」だったのだとお考えいただくとわかりやすいかも知れない。』と書いた。がっかりしたひともいるかも知れないし、裏切られたような気持ちになったひともいるかも知れない。

僕がそのように書いたことは真実だ。しかし、「真実」は一義的だが「事実」は多義的に、つまり、多様にその姿を現すものだ。この日記は事実を記している。しかしその事実はそれぞれの出来事のほんの一面に過ぎない。それが僕のような「物書き」では無い素人の文章の限界だ。

実はかつてあるお客様から「蓼科高原日記を小説のように読んでいる」と言われたことがある。そうなんだ、とそのとき僕は思った。これは書かれたとたんにフィクション(少なくとも通常の個人の日記とは異なったもの)になるのだ、と。なぜなら、先日も書いた通り、僕はある「スタイル」にしたがって日記を書いているからだ。

それは公開を前提とした日記を成立させる諸条件を満たしたガイドラインとしての「スタイル」であり、この中に登場する「僕」をぶれの少ない語り手として保持するための「スタイル」と言ってもいい。たとえば自分がペンションのオーナーであるということを大前提としてつねにお客様としての読者を意識しなければならない。

またウェブで公開する以上、公序良俗に反した記述は避けなければならない。登場する企業や組織や個人のプライバシー保護にも配慮しなければならない。観光地としての蓼科高原の不利益となるような誤った情報を伝える間違いを犯さないように慎重でなければならない。

たとえばそのようにさまざまな制約の中で僕はこの日記を書いている。「蓼科高原日記」に何らかの価値があるとするなら、「語り口」としての「このスタイル」だと(個人的には)考えている。書かれている内容にかかわりなくいつも変わることの無いこのスタイルこそが「僕」なのだ。

ペンション・サンセットがほかのペンションと決定的に異なるところ(あるいは特徴といってもいい)があるとすれば、ペンションにおいてもこのスタイルが生きているということだ。ペンションは僕の「スタイルの表現」なのだ。単なるハード、ソフトの統合体としての宿泊施設では無い。

僕のペンションになんらかの特徴的な「雰囲気」や「心地よさ」があるとするならば、僕らが「表現としてのペンション」を強く意識しているからかも知れない。ペンションは僕にとって「商売」というよりは「表現」なのだ。何かを演じているつもりは無いけれど、素(す)の自分がお客様を前にして「この場所のほんとうの心地よさ」へとご案内するということを意識している。

MC(マスター・オブ・セレモニー)として僕はペンション・サンセットという舞台に立っているのだ。僭越かも知れないけれど、僕はそう認識している。そうした意味においても、ここでの出会いは一期一会だ。

2006年09月07日

3491 プライバシー保護、匿名不可

曇りのち雨 気温:最低 13℃/最高 19℃

1996年7月1日の開設当初から、このホームページは僕の署名入りのウェブサイトとして運営されてきた。何かを語る以上、たとえば新聞の署名記事のように、誰がそう言っているのかという責任の所在をはっきりさせる必要があると信じたからだ。

もちろんのそのために自身のプライバシー保護に問題が生じる可能性はある。大変危険なことでもある。が、それはウェブ上で情報発信する以上負わなければならないリスクだと僕は考えている。そもそもペンションガイドブックにはかなり詳しくオーナーの個人情報が公開されている。ペンションとはそもそもそのような業態なのだ。

そこがほかの宿泊施設と決定的に異なるところだ。ペンションは特定の個人がその個人的責任において経営している宿泊施設なのだ。組織では無く資本でも無く「個人」が全責任を負って運営されているのがペンションという「宿」なのだ。

だから、匿名あるいはハンドルネームでペンションのホームページを公開することは僕にはできない。個人が公開する趣味のホームページとは決定的に異なるものだからだ。お客様にはその違いなどどうでも良いのかも知れないけれど、僕はそうでは無いと考えている。匿名による暴力が頻発する世の中にあって、僕はぜんぜんトレンディーじゃないのだ。

しかし蔓延する匿名性によって現代社会が犯罪の温床になってゆくのを苦々しく思っているのは僕だけでは無いと思う。匿名性とは自分が自分であることに責任を持たないということだ。自分が行うこと行ったことに対して責任をとらずに頬被り(ほおかむり)して隠れることだ。

それは「プライバシーの保護」という概念とはまったく異なる行為だ。そのことがわかっていないひとが多すぎると感じている。だからペンション・サンセットではいっさいの匿名およびハンドルネーム(ニックネーム)を認めない。

旅館業法でも宿泊者は正しく自身の氏名、住所等の事実を宿帳(宿泊者名簿、宿泊カード)に記帳することが義務づけられており、偽名等を記す行為は厳しく禁じられている。

このような主張をすると「なにを固いこと言っているんだ」とか「ずいぶん厳しいのね」と言って敬遠するひともいるが、これが本来守られてきた社会的同意事項だし、それはいまもなんら変わっていない。我が国は先進国家であり、歴史ある法治国家なのだ。

匿名性と言うのは無責任と同義である。匿名性を利用すると言うことは、自分は安全なところに身を置いて、ひとをおとしめたり攻撃したり傷つけたりする行為を行うと言うことだ。たとえば匿名性の突出した例としてはテロリズムがある。テロリズムの恐怖はその匿名性に本質があるのではなかったか。テロが蔓延するのは匿名性を甘やかす現代社会そのものにあるような気がしている。

少年犯罪の増加も現行少年法の本質である「匿名による犯罪」と言う少年犯罪の取り扱いにその本質的原因があると考えるものだ。少年法はもはや「少年保護・更生」のための法律ではなく「少年犯罪の保護」のための法律におとしめられているように感じる。少年でさえあれば「匿名性」を担保され、罪を問われず、大人のような罰も受けず、ただ見せかけの「反省」と見せかけの「更生」だけで済んでしまうのだ。これを「犯罪特権」と呼ばずになんと呼んだらいいのだろう。

いずれにしても匿名によるやり取りには真実も責任も信義も無い。諜報機関やスパイ同士の交渉では無いのだ。匿名でなければ成立しないようなコミュニケーションや契約行為などそもそもの始めから行うべきでは無いし、存在そのものが犯罪の温床となる要素を内包している。

匿名社会こそ、プライバシーの保護と言う名のもとに、犯罪性という危険な誘惑に満ちた社会を形成しているのではないか。いま立ち止まって考える必要がある。

2006年09月12日

3496 《匿名》状態における人間の行動傾向

雨 気温:最低 11℃/最高 15℃

秋の長雨のようだ。天気概況は当分雨の日が続くと告げている。でも台風が来ていないだけましかも知れない。ピラタスの丘は朝から霧がかかったような幽玄な風景になっている。雨は、そう、そんなに本格的には降っていない。ほとんど降っているのかどうかわからない程度の状況が続き、たまにはっきりとした降りになる。

今日は終日気温が低めだったけれど、寒さは感じない。身体が季節に順応してきたのと、森がいまだに湿潤で枯れていないせいだと思う。じめじめしているわけではないが、例年より湿度は高めだと思う。そのために、僕らにはこの夏はいつもより「暑く」感じられたのだが、お客様にとってはとんでもなく涼しいと感じられたという感覚のギャップがあった。例年並みの湿度ならば、ピラタスの丘の夏はもっとずっと涼しいのだ。

森の様子もいつもの9月とはいささか異なるようだ。いまだに黄葉、あるいは紅葉する樹木が散見される程度にとどまっているのだ。いつもだったら白樺の葉はすでに紅葉してはらはらと落ち始めているはずなのだ。タラノキやナナカマドやヤマブドウはそれぞれに紅葉しているはずなのだ。

地球規模で温暖化が進み、日本は亜熱帯性気候から熱帯性気候へと変化しているのではないか。様々な報道の告げるとおり、それは特異な気候としてではなく、日常的な気候として定着しつつあるように感じる。このように自然のまっただ中に身を置いているからこそ、そのことがはっきりとわかるのだ。

★★★

さて、先日(9/6)この日記で:

《しかし蔓延する匿名性によって現代社会が犯罪の温床になってゆくのを苦々しく思っているのは僕だけでは無いと思う。匿名性とは自分が自分であることに責任を持たないということだ。自分が行うこと行ったことに対して責任をとらずに頬被り(ほおかむり)して隠れることだ。

それは「プライバシーの保護」という概念とはまったく異なる行為だ。そのことがわかっていないひとが多すぎると感じている。》

ということを書いたが、今日ウェブで以下のようなことを学んだ。

《壊れ窓の理論というものがある。(中略)元々、この壊れ窓の理論は、「匿名状態では、人はより自己規制が働かず、無責任な行動をとる傾向がある」という心理学者フィリップ・ジンバルドの理論をベースにしているそうだ。そう言われてみれば、公衆便所に落書きをする人も、匿名性の保たれない自分の会社のトイレではあまり落書きはしない。もっとも壊れ窓の理論では、匿名性に加えて「窓がたくさん割れている」という事実が、さらに自己規制をなくしてしまうということを提唱している。》

出典はこちらの記事だが、記事の方の議論は僕の議論とはベクトルが異なっている。僕の興味を引いたのはこの理論における《匿名》状態における人間の行動傾向だ。誰でも「なるほど」と思うだろう。もし現在のネット界が治外法権的に「荒れて」いるとするならば、それはやはりネット特有の匿名性に対する寛容さにあるのかも知れないと僕は考えている。

本来的に「契約行為」である宿泊予約において「フリーメールアドレス(ヤフーやホットメールなどの無料メルアド)」を使うことも、個人情報保護の目的はわかるが、こちら側からみれば「準・匿名行為」に当たるということに気づいてほしい。

まともなネットショップではフリーメールアドでは買い物できないご時世に、ペンションはなめられている(あるいは下にみられている)と感じている。が、それは違うのね。これはお客様の不見識というよりは、ペンション経営者兼ウェブマスターたち(僕も含まれる)の不見識であり怠慢だと、やっぱり、僕は考える。

ペンション・サンセットでは従来からフリーメルアドの使用を避けるよう推奨してきたが、昨今むしろ増加傾向にあることを鑑みて、今後はフリーメルアドのお客様のご予約は一切受け付けないことに方向性を定めて暫時対応を変えていくつもりだ。フリーメールアドレスは匿名性を本質としたものだからだ。

そもそもフリーメルアドがどうして無料であのようなサービスを成立させているのかその仕組みを考えたことがあれば、あんなものを使う気にはならないはずだ。メルアドを取得するにはあなたの個人情報を(場合によっては洗いざらい)登録しなければならなかったのではありませんか?

僕の経験では登録したとたんにスパムメールがそのフリーメルアド発でやってきて驚いたものだ。「やられた!これはいっぱい食わされた」と思ったものだ。極論するならば、なにがしかの個人情報提供と引換にあなたはフリーメルアドを利用することができるのだ。そして一度登録した個人情報はフリーメルアドを解約したあともどこかに流れるか消えないで残るのだ。

きちんと個人情報を保護したいのならば、契約しているプロバイダーのメールアドレスをもう一つ用意して、個人的用途と、ショッピングなどの用途に分けて使うことだ。そして後者に関してはスパムメールが送りつけられてもやむを得ないと割り切ることだ。それならば、「匿名行為」あるいは「準・匿名行為」を行わなくても済むというものだ。僕はそのようにしている。

このようなことを書くと「また小うるさいことを言っている」と感じるかも知れないが、そのようなメンタリティーじたいが個人情報を売り買いするような社会を作り出していることに気づいてほしい。スパムメール(迷惑メール)の発信者が匿名、源氏名あるいは「なりすまし」であること、そしてその発信メールアドもまた匿名、「でっちあげ」あるいは「なりすまし」であることをみれば、自分が「匿名性を本質としたフリーメルアド」を使うという同様のことをしているのに文句を言える人がどれほどいるだろうか。

「匿名状態では、人はより自己規制が働かず、無責任な行動をとる傾向がある」のだ。みながそのような状態になって、より安全な社会、よりよい社会が構築できるだろうか。悪意を持って(これはもってのほかだ)、安易に、あるいは無定見に、あるいはイノセントに(そのようなひとが一番多い)「匿名行為」あるいは「準・匿名行為」を行うひとが減少するよう願うばかりだ。

2006年09月13日

3497 全然怖くないですよ〜

雨 気温:最低 10℃/最高 13℃

昨日ぐだぐだ書いてしまったけれど、要するに「個人情報保護と匿名の行使とは異なるものである」ということを言いたかった。個人情報保護を目的に匿名を行使するのは社会規範に照らしてに間違っている。個人情報を守るために匿名を行使しなければならない状況じたいを避けるのがもっとも賢明な行動だろう。

フリーメールアドレスの利用じたいは決して否定されるべきものではないが、少なくとも社会的に責任ある発言や商行為を行う場合には使用すべきではない。フリーメールアドレスはかつての一部のプリペイド携帯電話同様に「匿名性」をその本質として持っているからだ。相手にはあなたが実在する人物なのかどうかがわからない、「なりすまし」でないことを根拠無しに信用するしかない。

一方、あなたが契約しているプロバイダーの発行するメールアドレスには少なくともこの実在性の根拠が見いだせる。それは契約に際してプロバイダーに対して開示された非公開の個人情報を根拠として発行されたメールアドレスだからだ。そこが決定的に異なる。相手に対する個人情報開示とあなたの信用度とは正比例するのだ。これは社会の仕組みとして避けて通ることはできない。

「匿名」あるいは「匿名性」の乱用は避けなければならない。

どうしてそうなのかは9月6日および9月12日のこの日記で論じたので繰り返さない。


★★★

こんなことを折に触れては書くからかなあ、あるお客様に「オーナーが優しい方で良かったです。正直もっと怖い方かと勝手に思っていました。」なんて言われちゃうのかも知れない。(^_^;)

全然怖くないですよ〜。ヽ(^0^)ノ

ご安心下さい。(ホントです)

こういうことを言ったり書いたりするのはこの日記の中だけですから〜。

2006年09月14日

3498 「人を下に見る」ということ

雨のち曇り 気温:最低 9℃/最高 13℃

朝のうち雨が降っていたが、昼前から止んで曇り空になった。夕暮れ時、再びにわか雨が降ったがいまは止んで曇り空になっている。ピラタスの丘は今年は紅葉が遅く感じる。まだまだ夏の風情が濃厚なのだ。

ここ数日フリーメールアドレスたたきみたいなことになってしまったが、個人が個人的目的でちょっと危ない掲示板や当たり障り無いけどニックネームで参加するのが慣行となっている掲示板などでニックネームとともに使う分にはちょうど良いのかも知れないと思うし、それを否定するものではない。

しかし同じ「乗り」で商取引や責任ある発言をすべき場面でそれを使用することに異議を唱えただけであるということを、多くの善意のフリーメールアドレス利用者の方には誤解の無いよう、再度記しておく。

それはさておき、昨今「人を下に見る」という態度や言動や行為が増えてきている、特に、若い世代にその傾向が顕著な現象として現れてきているという。「人を下に見る」という意識は他者を自分より下に置くことによって自分をより上にいるように感じる「病んだ意識」だ。それはその根拠がないという点においても「あらゆる差別やいじめの根源的意識」である。

「人を下に見る」という態度や言動や行為はそもそも決して「品の良い」あるいは「人格の成熟した」印象を与えるものではない。それは「人間としてのあるいは一個人としてのプライド」とはまったく異なるものだ。後者は失ってはならない大切なものだが、前者は絶対的に否定解消されるべきものだ。それは相手に対して卑劣きわまりない態度だからだ。

相手が逆らえないあるいは反駁できない立場であることを見透かしてそのような態度に出るわけだからね。これは卑怯千万、卑劣きわまりない、ついでに唾棄すべき社会的行動だ。老若男女を問わず、自分のプライドの表出表現としてそのような態度をとることはまったく間違っている。プライドとはそのように野卑なものではない、もっと崇高なものだ。

本当の大人物は大人物だという態度をとらない。本当の人格者は人格者ぶらない。本当に偉いひとは偉いひとぶったりしない。それらは自然とにじみ出てある種のオーラとしてひとに伝わるものだ。「偉ぶる」必要はない、「威張る」ひつようはない、ひとを見下したような態度や言動をとるべきではない。それはあなたを貶めるだけだ、見た目は人々を自分に従わせたように見えるかも知れないけれど、人々は本当はあなたをさげすんでいるだろう。

それに気づかないとしたならそれはあなたにかしずいている人たちが良くも悪しくも狡猾で世渡り上手だからに過ぎない。あなたは「裸の王様」なのだ。

いずれにしても僕は、それが誰による誰に対するものであっても、社会的観点からも個人的信条からも、「人を下に見る」ことを許さない。

2006年09月15日

3499 排他性によってしか自己を確立できない人々

晴れのち曇り 気温:最低 8℃/最高 14℃

宗教の本質は「神」にではなくその「排他性」にある。この「排他性」無くして宗教は成立しないのだ。あらゆる戦争や武力闘争はこの排他性が原因であると言っても過言ではないだろう。宗教としての「神」が登場するのは排他性の根拠としてであり、戦争や武力闘争の理由付けとその遂行の正当性を裏付けるためである。

広島、長崎に対する米国の原爆投下「実験」を祝福した「神」を僕は信じるわけにはいかない。

無垢の人々を無差別に殺戮するテロリズムを祝福する「神」、聖戦を善とする「神」を僕は信じない。

異教徒を迫害し、殺戮する「宗教」を僕は信じない。

オウム真理教の元教祖の死刑判決確定のニュースを観て、ふとそんなことを思った。

ミクシィが隆盛を誇る時代にあって、排他性によってしか自己を確立できない人間の激増を思う。ある属性によってしか自己を位置づけられないということの危うさを思う。もちろん人間はひとりでは生きられないというのは永遠の真実だと思う。

しかし、この状況はそれとはちょっと異なっているように僕には感じられるのだ。

やはり人間も動物の一種であり、群れて生きる定めなのだと改めて思う。

「はぐれ猿」として生きることを選択したものとしては複雑な思いがする。

2006年09月16日

3500 そして日記は螺旋を描いてふりだしに戻る

曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃

僕らは過大な期待をしすぎていたのかも知れない。インターネットというインフラに、WWW(ワールドワイドウェブ)というひとつの世界観に。一個人が国境を越えて不特定多数の人々にメッセージを発信できると、いささかなりとも、思いこんでいたところがある。

しかしそれはどうも違っていたようだ。インターネットの世界でも、インターネットが出現する以前の現実世界と同じことが起こっているだけだ。個人のメッセージは個人のメッセージ以上の力を持ち得ないし、広告は広告らしくなければその効果が期待できない。新しいコミュニケーション形態は未だ出現していない。

それはケータイ以前とケータイ普及後の社会が何ら本質的変化を遂げていないということとも相通じる事実だ。それを使うのが人間である以上、そしてその人間が何ら進化していない以上、あたりまえのことかも知れない。インターネットとケータイというこのふたつのコミュニケーションのために用いられるインフラのもたらしたものといえば、社会における個人の匿名性の氾濫だけなのかもしれない。

また「匿名性」だ、やれやれ。

僕らは「匿名性」を身にまとうことによって、まるでなんでも透明にしてしまう魔法のマントをまとったような気になってしまう。自分は安全圏に身を置きながら何だってすることができる。この匿名性による自己の行為の秘匿こそ、現代社会の病理といえるだろう。

というようなことをまた書いてしまう。これでまたお客様が減ってしまうのだろう。がんばって書けば書くほど潜在顧客の数が減ってゆくような気がする。もっと楽しくて、おいしそうな話ばかり書く方が何倍良いのか知れないけれど、僕にはそれができない。

「匿名のペンションオーナー」としてお料理の四方山話(よもやまばなし)とか、パンを焼く話とかだけしていた方がずっとずっと良いのかも知れないのにね。

匿名を使わずに日記を書くという行為は結局はこのようなスタイルこのようなコンテンツへと帰結するほか無いのかも知れない。僕という実在の個人の核心から読者を遠ざけるために螺旋(らせん)を描くようにして個人的想いから話をそらせてゆくのだ。

螺旋構造(らせんこうぞう)は DNA だけではない。それは思考においても存在する構造なのだ。弁証法なども僕の感覚では「螺旋構造」そのもののプロセスのように感じる。しかも(少なくとも)僕の思考における螺旋構造はエッシャーの「だまし絵」のように、あるいは音楽における音階のように、のぼることもなくくだることもなく、進むこともなく戻ることもない。気がつけばいつの間にか「ふりだし」へと戻っている。

11年前に書き始められたこの日記は、おそらく、12年かけて巨大な「円環」を描くような気がしている。つまり、12年の歳月をかけて「ふりだし」に戻るのだ。それを「徒労」と呼ぶべきか、「いささかの進歩・進捗」と呼ぶべきか僕は知らない。

2006年09月18日

3502 インターネット・セキュリティー

曇りのち晴れ 気温:最低 12℃/最高 17℃

幸いなことに、蓼科では、台風13号の影響はまったくといってよいほど無かった。朝は晴れ間がのぞいたほどだったが、その後雲がかかって、一時雨がぱらついた。しかし、夜になると空は晴れ渡って、満天の星空になった。

この連休は朝晩数時間全館暖房を入れる必要があった。暖か(暑い?)平野部からいらしたお客様とピラタスの丘で暮らしている僕らとでは体感気温が異なるので、客観的気温とお客様のよう鵜から判断して暖房を入れるかどうか決めている。

個人差もあるので、暖房を入れると「暑い」とおっしゃるお客様もいらっしゃるし、反対に「寒いので暖房を入れてください」とおっしゃるお客様もいらっしゃる。基本的には厚手のトレーナー等を羽織ってもまだ寒ければ暖房を入れるようにしている。

結果を見直してみると、土曜日は暖房を入れてちょうどよかったが、日曜日は暖房は「余計なお世話」だったかも知れない。自宅にいるときと同じ室内気候をお客様は求めていないということを学んだしだい。高原には高原のひんやりした気候を求めていらっしゃっているのだということを、危うく忘れそうになっていた。


それはそうと、CATVのインターネット回線を20MBコースに変更してからしだいに「ポート番号135」に対するアクセス試行が急激に増加した。それも同じCATVのネットワーク内の複数の個人からのものだ。調べてみるとこのポートは開けておくと大変危険なポートだそうだ。僕の場合はファイアーウォールソフトが検知してブロックしてくれたので難を逃れた。

実際、警察庁の発表でもこの135番ポートへの不正アクセス試行が急増しているとのこと。みなさんもどうぞご注意いただければさいわいだ。是非OS標準のファイアーウォールだけにまかせないで、もっと強力なファイアーウォールソフトをインルトールすべきだと思う。

特定のグローバルIPアドレスからのアクセス試行が執拗なので今日そのデータをプロバイダーに送って、その事実を報告した。グローバルIPアドレスから個人を特定できるからね。そしてどうにも目障りなので、山を下りて街のヤマダ電気で有線ブロードバンドルーターを購入して、それを経由してMacに接続するようにした。

これはプロバイダーのサポートの方の推奨する接続方法でもある。そのことは知っていたけれど、これまでこれほどしつこい不正アクセスがなかったので、スピードを優先して、HUBを介して直接PCを接続していたのだった。

ついさっき細かなファイアーウォール設定が終わったところだ。ちなみに僕が選んだのは BUFFALO BBR-4HG という機種だ。回線速度は予想していたのとは異なってほとんど落ちなかったので、満足している。セキュリティーレベルを上げると回線速度が多少落ちるのはまあやむを得ないと思う。

大切なお客様情報の入ったPCだからこそ、セキュリティーを最優先項目にしている。ルーターやセキュリティーソフトをまったく使っていないと、あなたのPCのハードディスクの中身もモニター画面もすべてが丸見えになっていることがあるのですよだって・・・ほんとに怖い話だ。


冒頭でも書いたが、今夜は満天の星空になった。この夜空をお客様に見ていただきたかった。なんて皮肉な巡り合わせなんだろう。土曜日、日曜日とも夜は雲がかかっていたからね。なんだかとっても申し訳ない思いでいる。

2006年09月22日

3506 TVドラマ「静かな時間」

曇りのち晴れ 気温:最低 8℃/最高 16℃

平原綾香の「明日(あした)」という曲がとても好きだ。倉本聰原作のTVドラマ「静かな時間」のタイトル曲だったのだけれど、初めて聴いたときから一発でファンになってしまった。なんだか胸がきゅんとなるのね、まるで思春期の頃みたいに。年齢を重ねるにつれてそんな機会はあまりなくなっていたから、なんだか不意を突かれてしまったというわけさ。

「静かな時間」というドラマを僕は「父親」の立場から観ることになった。年齢から言って当然のことだけれど、たとえば若い人が息子の立場から観たらどんな風に感じたのだろうか。奇しくも蓼科高原日記のかつてのサブタイトルは「静かな生活」だった。「静かな時間」とほぼ同義で名付けたものだ。

じつに僕はここで静かな時間を過ごしている。ラッシュライフとも言える激しい時間を20年ほど過ごしたあとで、僕はこちらに移住したのだった。気づいたときには心身とももうぼろぼろになっていたからだ。充実した濃密な時間だったけれど、それらの時間はしっかりととるべきものを僕から奪っていったのだ。

今夜 Amazon.co.jp と楽天市場に賞品レビューを書いていてふと思った。なにを書いていてもこのスタイルは変わらないんだなあ、と。そして、ああ、このスタイルこそが僕なのだ、と。セルフアイデンティティーなんてことは考えないほうがいい、セルフイメージなんて持たないほうがいい、百害あって一利無しだ。この僕が体験者だから間違いない。

しかし、スタイルには目を向けたほうがいいのかも知れない。自分のスタイルにはこだわったほうがいい、たぶん。表現手段やメディアは何だって良いのだ。文章でも、ファッションでも、写真でも、なんでもいい。ただ、誰のまねでもない、だれもまねできない自分のスタイルを持ちたいと意識し続けることは大切なことだと思うよ。

そんなふうにして生きていると、良い想いをしたり得したりすることよりも、嫌な想いをしたり損したりすることの方が多いかも知れない。いや、きっとそうなる。でもね、自分が自分であることこそが幸福なのだ、という観点に立つならば、僕らはどんどん先に進まなければならない。この道は間違っていない、この道を進むのが正しいのだ。

生来「世渡り上手」なひとはその才能に従って生きるのが良いだろう、しかし多くの「世渡り下手」なひとたちは、「自分の土俵で自分の相撲を取る」ほかないしそれがベストなのだと確信している。要するのそれこそが自分のスタイルで生きると言うことなのだ。

自分のスタイルを持つこと、自分の文体を持つこと、まずはそのあたりから始めてみてはどうだろうか。あらためて、僕もそうしてみようと思う昨今です。

2006年09月26日

3510 Amazon.co.jp にカスタマーレビューを書く

曇りのち雨 気温:最低 5℃/最高 10℃

天気予報どおり正午から雨が降り出した。始めはぽつりぽつりという感じだったのが、急に夕立のような激しいふりに変わった。その後風が出たりもしたが、いまは普通のにわか雨のような降り方に変わっている。この雨は明日の朝まで降り続き、その後もぐずつくが夕方からは晴れてくるという天気概況だ。

9月8日に腫瘍の手術をした愛犬パル君の抜糸に行ってきた。最初から警戒してクルマに乗せるのもひと騒ぎだったが、獣医院が近づくにつれて何とか逃げ出そうとクルマの中でじたばたと大騒ぎしてもう大変だった。まったく大きななりをしているくせに、頭の中は子犬の頃と変わらないんだから。

しかし診察台に乗ると観念しておとなしく抜糸させた。これでもう大丈夫と言う獣医さんの言葉もあってひと安心。まあ、内臓の腫瘍では無くお尻にできた繊維腫だったので、今後も心配は無いとのこと。しかし今日の診療もまた彼にとっては怖い体験だったらしく、いまも犬舎にこもってすっかり気配を消しているパル君である。

さて、先日 Amazon.co.jp にカスタマーレビューを書いていることを記したが、これって「このレビューは参考になりましたか?」というかたちで投票ボタンを押せる仕掛けになっているので、読んだひとの反響がダイレクトにわかってしまう。当然「支持」もあれば「不支持」や「反感」や「悪意」もありうるわけだ。

その点でこの日記よりもはるかにパブリックな発言とみなされているわけで、かなり怖い行為でもあると感じている。しかしそれによって自分が鍛えられると言う側面もあるので、あえてチャレンジを続ける所存だ。いずれにしてもいまやネット界は「渡る世間は鬼ばかり」なのだ、たぶん。(ドラマは見たことないけど)

「ウェブログ(web log)」という定義から言うならば、この日記は「ブログ」と言って差し支えないが、システムや機能の観点から見れば「ブログ」の要件を満たしていない。このページはすべてHTMLによって記述されているからだ。RSS機能は備えているが、トラックバック機能やコメント書き込み機能は無い。

加えてコンテンツとしてもいまはやりの「ブログ」の要件を満たしていないように思われる。この日記は当初のタイトルが「オーナーのひとりごと」だったことからもわかるとおり、独白文なのだ。社会事象をタイムリーにとらえてインタラクティブに論じるものでは無いし、そのことに関して第三者と議論するものでも無い。

だから蓼科高原日記がいま風の「ブログ」に変身することは無いと思うし、僕にはそれができないのでは無いかと考えている。

ピラタスの丘では樹木が急激に緑から黄色へとその色彩を変化させている。今日のように強い風が吹くと庭や道路にはかなりの量の落ち葉が降り積もるようになった。じつに劇的にそのように変化したのだった。まるで誰かがかちっとスイッチをいれて季節を「秋」に切り替えたみたいに。

今夜もまた冷え込んでいる。そしてどこまでも静かな夜が更けてゆく。

2006年09月27日

3511 100万アクセス間近

曇り 気温:最低 6℃/最高 15℃

1996年7月1日がこのホームページ(正式にはウェブページあるいはウェブサイト)の誕生日なのだけれど、そのとき漠然と夢見ていたのは100万アクセス達成という里程標(メルクマール)だった。当時のインターネットの利用者数はいまの14分の1程度、現在のミクシィの会員数程度だったから、それは文字通り夢の数字だったわけだ。

その夢の数字が目前に迫っていることにいまさら気づいて、ちょいと感無量ではある。ブロードバンドが一般に普及し始めてからはアクセス数は指数関数的に増加したから、一回のアクセスのありがたさにいささか麻痺してしまっていたきらいがある。そのことを反省する昨今だ。

改めて日々アクセスしてくださる方々に感謝の念を抱くものである。が、100万アクセスももはや文字通りの里程標(メルクマール)であって、ひとつの通過点に過ぎないと考えるようになった。この日記は基本的に僕の「個人的な日記」であるけれど、このホームページの大半は僕の営む蓼科高原ペンション・サンセットの商業的なものでもあるわけだ。

後者のコンテンツ充実に向けて軸足を移す時期なのかも知れないと思っている。

2006年09月29日

3513 Amazon.co.jp に感銘を受ける

晴れのち曇り 気温:最低 6℃/最高 15℃


Amazon.co.jp でインターネットショッピングをした経験のある人は多いだろうと思う。こんなとんでもない山暮らしだから、僕もじつのところよく利用している。とても良くできたサイトで、商品検索を含めてお目当ての商品へのアクセスが容易で、その後の比較検討から購入に至るまでの流れが自然でスムーズなので、ついつい迷いを振り切って購入に至ってしまったことも一度や二度ではない。

商品ブラウズや購入の履歴をしっかり記録していて膨大なデータベースからユーザープロファイルを作成し、それに基づいて「おすすめ商品」を提示する仕掛けになっているのだけれど、その的確さと来たらまるで(たとえが悪いけれど)心の中を含めて個人情報をそっくり持って行かれたような感じなのだ。じつにツボにはまった商品を薦めてくる。

このようなサイトをペンション・サンセットのサイトで実現できたならどんなにユーザビリティーが向上するだろうかと夢想してしまう。個人的にはベスト・オブ・ベストのサイトだと評価している。

しかし、ひとたび Amazon.co.jp と連絡を取りたい事情ができたときには事情が異なってくると言うことを最近体験した。ひとことで言うならばものすごく距離を置かれている感じがして「遠い」のだ。相手の顔が見えない、相手の声が聞こえない。交渉の余地などというものはまったく存在せず、じつにプログラムどおりの対応でそれはじつに不条理を感じるほどなのだ。

試しに一度「お問い合せ」のリンクをたどってみるといい。巨大迷路みたいに堂々巡りの連続になる。ぼくはいまだにサポートの電話番号を見つけられないでいる。かろうじて奥の奥にあったお問い合せフォームにたどり着くのが精一杯だった。

そうした「日本的な意味でのホスピタリティー」を Amazon.co.jp に期待してはいけないのだろう。また、日常的な購買行動のようにフェース・ツゥ・フェースのコミュニケーションを期待してもいけないのだろう。さらに通常の「小売店」のような対応を期待してもいけないようで、Amazon.co,jp の業態は基本的に「商品取次業」であるということを知っておく必要がある。購入後の商品について Amazon.co.jp は一切関知せず、フォローはメーカーなり代理店が行うということになっているのだ。

これは批判ではなく、知り得たことの開示に過ぎない。そのようなものなのだということを言っているだけだ。それを知った上で利用する限りにおいて最高のパートナーとなりうるネット企業でありサイトなのだ。だから、そのような「但し書き」付で、今後も僕は Amazon.co.jp 利用し続けることだろう。

こんなことを書いたのも、日本的常識や社会通念から逸脱してもそれに勝るユーザビリティーを明確に示すことができるならばビジネスとして成功しうるのだという「感嘆」を述べたかったからだ。

2006年09月30日

3514 パブリックな自己

晴れ 気温:最低 7℃/最高 14℃

もう10月だというのにピラタスの丘にコスモスが咲いている。これは異例のことだ、早いときには7月から咲き始めて8月中には咲き終えてしまうのが通例だと僕は記憶している。今年は秋が早いのか遅いのかよくわからない。12年も住んでいる僕らでさえそうなのだ。

かつてこの日記は僕の想いを語る場であった。それでも良かったのは、時代がそれを許したからだ。WWWが限られたひとびとの交流の場であったころにはプライベートな自己が直情的に語ることが許されたが、パブリックな自己が語るとき直情的に語ることは許されない。

1996年当時、日本のインターネット利用者数は510万人に過ぎなかった。奇しくも現在のミクシィの会員と同じ程度のコミュニティーだったのだ。昨年の利用者数は7000万人ほどだから、14倍近くにふくれあがり、WWWの世界は現実社会を転写したかのようなリアルで物騒な世界に変貌している。

この10年間ウェブマスターとしてじつに様々な経験をしてきた。不思議な出会いもあれば、じつに奇妙な体験もした。もちろんきわめて不快な思いもしたし、これ以上はないというほどのうれしい出来事もあった。そのような10年間を経て、いまの僕はここにある。

それが「パブリックな僕」だ。以前のような個人的なプライベートな僕ではない。これを進化と呼ぶべきか、あるいは進歩と呼ぶべきか、いや、そうではなくてこれは退行だと言うべきか僕にはわからない。しかしこれは必然であって、もう戻ることはできない。それはもうすでに終わってしまったことなのだ。

過去の僕を知りたければ過去の日記を読めばよい。僕自身はそうしている。いまの自分を知りたければ、僕は自分に問いかけ、ひとはいまの日記を読み解くほか無い。まあ、そこまで手間暇かけて読む価値のある日記だとも思わないけれど。

さて、僕は「心を閉ざしてしまった」のだろうか。なにかを語ることを断念してしまったのだろうか。わかってほしいという想いを諦めてしまったのだろうか。いやそうではない、わかるひとにはわかるし、わからないひとには永遠にわからない、伝わるときは伝わるし、だめなときはだめなのだ。そんなふうに考えるようになっただけだ。

こんなふうに書くと、村上春樹の小説の主人公のように「わかってもらえなくてもいいや」というふうにみえるのだろうか。そういうのってある種の人たちの癇に触るのだろうか。そうであろうとそうであるまいと、僕は僕なのだ、これが「いま」の僕なのだ。

人生の前半、つまり山暮らしを始める以前の半生を僕は自分を偽って生き抜かざるを得なかった。だから、残り半分の人生を自分が望むとおりの自分、いや「自分があるとおりの自分」として生きてはいけないのだろうか。それは許されないことなのだろうか。

このいのちに代えても、僕はもう僕以外の自分にはなりたくないし演じたくもない。

2006年10月11日

3525 その思いを手放すのだ

雨 気温:最低 5℃/最高 10℃

Everything's gonna right! そう思いたいけれど、性分なのかついついいろんな心配事を抱え込んでしまう。そんなだからサラリーマンというかビジネスマン落第だったわけさ。もっとひらりひらりと世渡りできなくっちゃね。でもそれができないのが僕という人間なのだ。このことからは逃げられない。

だから逃げることをやめたわけだ。逃げることを止め、自分でない自分を演じることを止め、自分でない《本当の自分》とやらを探すことを止め、ありのままの自分で生きていこうと決めた。どうあがいたところでひとは自分という事実からは逃げられないのだ。

そう決意したのは、それができたのは15年ほど前のことだろうか。結論から言ってしまえば、それは簡単なことだった。それまで守るべきものだと信じてきた、それまで築き上げてきたと思い込んでいたものをすべて手放せば良いのだ。インドの聖者が言った「その思いを手放すのだ!」と。そのとおりだった。

手放せばすっと身も心も軽くなる。それが探し求めて止まなかった「本当の自分」だった。あっけないほどあたりまえにそれはそこにあった。僕はシンプルに「僕」だった。なんの肩書きもなく、しがらみもなく、守るべきものも無く、迷いも無く同時に迷わないということも無く、ここにいたのだ。

なんだか100万アクセス達成を機に、きゅうにしゃんとした印象なのだけれど、これは「たまたま」なのだ。これは僕の「振れ」の範囲内のことなのだ。想定内のゆらぎなのだ。なにしろいま語っている僕は「パブリックな僕」だからね。個人的な生身の人間としての僕では無いのだから。

さて、今日は朝からいかにも高原らしい雨降りとなりました。空は明るいのだけれど、そして降りはたいしたことがないのだけれど、とうとう宵まで雨が止むことは無かった。夜半には完全に止んで空は晴れてきたけれど。天気予報では明日以降当分は晴れマークがついているから、今週末は絶好の紅葉狩りのタイミングになると思います。

蓼科の紅葉は、現在標高2000m〜1900mあたりまで降りてきているので、週末にはちょうどピラタスの丘ペンション村(標高1750m)まで降りてきて鮮やかな紅葉世界になると思われます。蓼科湖や白樺湖は標高1300m〜1200mだから紅葉が最盛期を迎えるのは10月末から11月上旬になります。これがまたなんともきれいなのだ。ちなみに渓谷美が売りの横谷峡の紅葉は今週末から来週末あたりになりそうです。

今夜もピラタスの森はしんと静まり返って、野生動物の気配の他はときおり吹き抜ける風の音が支配しています。あ、でも、ときおり鳴くフクロウの声と野生の鹿の鳴き声が、夜のしじまを破って遠くから聞こえてきます。僕のペンションでも鹿除けに建物回りに夜間照明を施しましたが、いまのところ効果が出ているようで、朝起きて庭に鹿の糞が転がっているようなことが無くなりました。

ピラタスの丘も開発から30年余を経て、ふたたび野生に支配され出してきているのを感じます。

2006年10月15日

3529 コミュニケーションと冗長度(redundancy)

晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃

昨日の日記にも書いたけれど、このサイトのトップページをペンション・サンセットのページに変更した。これまではいわば「扉ページ」あるいは「表紙」にあたる蓼科高原日記をメインコンテンツとするページがトップページだった。

ぼく個人の美学としてはこれがベストだったのだけれど、閲覧者動向を追跡してみるとかならずしもベストとは言えないことがわかった。結論めいたことをいってしまえば、みなさんいそがしいのだ。昔みたいに1分いくらの高額な電話料金+インターネット回線接続料金を取られるわけでもないのに、まるで「駆け抜けてゆく」といった風情なのだ。

平均すると1ページ当たりの閲覧時間が数十秒というのではまともなコミュニケーションは成立しないと思うのだが、それが実態だ。どうりで「ホームページを見ているのですが」とおっしゃりながら電話でご予約いただいても、ホームページにはっきりと書いてあることを読んでいらっしゃらないお客様が多いのだ。

見てはいても、読んではいないし、理解もしていない。これは自己防衛的コミュニケーション拒否といえなくもない。しかし、情報過多時代にあって個人としても情報のフィルタリングが必要なのは理解できるが、必要な情報までフィルタリングして拒否してしまうというのはもう現代の「社会的病理」というほかない。

要するに「ぜんぜんひとのはなし聞いてないし〜」ということなのだ。(^^;)

このような時代に合ってはむしろ「情報過小」という逆の方法をとったほうがコミュニケーションが成立しやすいのかも知れないと考え始めている。たとえば世にはびこる「パワーポイント型プレゼンテーション」が良い例だ。メインタイトルは1ページにつきひとつ、1ページにつき3項目のサブタイトル、1ページにつき1項目3行以内の解説、文章を限りなく抑えて図表で「ビジュアルに」説明する・・・というやつだ。

そういう時代なのだ、そういう社会になったのだ、たぶん。

しかし、同じことを繰り返し伝えるという「冗長度(redundancy)」もある程度必要なのだ。1度だけ聞いてもうわかったから繰り返さなくてもいいというひとが多くなったが、実際のところ人間の能力はそこまで優れてはいない。人間の能力では「繰り返し確認」という手順が正確なコミュニケーションには不可欠なのだ。

パワーポイントスタイルのプレゼンテーションが見た直後にはすっかりわかったような気がしつつも、時間が経ってみるとよくわからないことが多々出てくるのは「冗長度」が低いからだ。よくいえば「簡潔」なのだが、繰り返しがほとんど無い分、コミュニケーションの深さは期待できない。

一般的に言語はおおむね50%の「冗長度」を持っていると言われている。言い換えるならば、たとえばこの文章の半分の文字をランダムに消去したとしてもだいたいの主旨はわかるという場合がこれにあたる。あるいは「キーワード」が文脈上に少なくとも2度出現すると考えてもいい。冗長度が50%を切って極端に低くなると、ひと言聞き逃しただけでもう話の筋がわからなくなる。人間のが正確な言語的コミュニケーションを達成するためには50%の冗長度が必須だと考えても良いのかも知れない。

ペンション・サンセットのホームページやご案内メールは「冗長度」が高い。意図的に高くしてある。それはより深いコミュニケーションをめざしているからだ。それがお客様にとって良いことだと信じているからだけれど、ほんとうのところ、ビジネスとしてペンションを考えた場合「どうなのだろう」と迷いが出てきている。この50%の冗長度に「最適化」することによって、くどくなくまた簡潔すぎないホームページになるのかも知れない。今後の作業になるけれど、こつこつやっていこうと思っています。

2006年10月16日

3530 それでは納得できない自分がいる

晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃
おととい、そして昨日の日記で書いた通り、このサイトのトップページをペンション・サンセットの集客ページに変更した。これまではいわば「扉ページ」あるいは「表紙」にあたる蓼科高原日記をメインコンテンツとするページがトップページだった。

しかし、アクセスいただいた閲覧者の動向をデータで見てみると必ずしも良い選択ではないということが一目瞭然だった。やはり付け焼き刃的にサイトの一部だけを大変更するとある種の混乱を招くのだと思う。Yahoo! Japan では少しだけランクが上がり、Google では少しだけランクが下がり、msn ではランクがぐっと上がった。といっても、ベスト10のなかでの動きだけれど。

結論として、即決でもとに戻した。3日前までと同じに戻した。蓼科高原日記をメインコンテンツとするページがトップページで、ペンション・サンセットの集客ページをサブページにまわした。これが長年守り続けてきたこのサイトのスタイルなのだ。やはり変えるべきではないと思った。しかし「実験」としての価値は充分以上にあった。いずれにしてもお騒がせしました。

そんなチェックをしながらじつに久しぶりに他のペンションのホームページを見て回った。じつに魅力的で技術的にも高度な楽しそうなページが目白押しだった。それはもう圧倒されてしまうくらいだ。しかし、がんばれば同じようなものを作ることは可能だけれど、でもやりたくないというのが本音だ。

プロにお願いするという手もあるし、じっさいにそうしているペンションも散見された。情報がよく整理されていて閲覧しやすそうで、これは効果的なホームページなんだろうなあと思った。やはりプロの手になるものは魅力的だった。僕もそうすべきなのかも知れないと思った、そのときは。

でも、そうしたくないというかたくなな自分がここにいる。お料理もパンもすべて手作りといっている一方で、お客様との最初のコミュニケーションの場であるホームページが「手作り」でないのは矛盾するように思われてしまって・・・僕はトレンディーじゃなくって頭が固いんだ、きっと。

経営者としては、これまで築き上げてきたこのサイトのすべてをうち捨てて、プロの手になるサイトに切り替え、集客に全力を尽くすべきなのかも知れない。蓼科高原日記なんて書いている暇があったら、団体旅行の営業に奔走すべきなのかも知れない。しかしそれでは納得できない自分がいる。

とうわけで、まずは情報を整理し直して、いささかとっちらかってしまっているこのサイトの再構成とナビゲーションの充実を行おうと思っています。表現の簡素化や視覚化も必要かも知れない。とかく現代は文字を読むのが嫌いなひとが増えたようなので。

でも、本音としてはこのサイトを「見る」のではなく「読んで」ほしいのです。このサイトは本来テキストだけで構成されるべきものとして誕生したのだから。いまとなってはトレンディーじゃないのは確かだけど。なぜそうなったかということは過去に何度も書いたからここでは繰り返さない。

★★★

さて、昨日から吹き続けていた風は未明にピークを迎えてびゅーびゅーと木々の梢を鳴らす音で目が覚めた。中庭にいるパルのことが気になって、もぞもぞと起き出した。中庭にでて犬舎の雨戸を閉めてやると中からパルが飛び出してきてやたらとなついてくる。きっとこのただならぬ雰囲気と大きな風の音が不安だったのだろう。

未明の空に真っ白な月が怜悧(れいり)な光を放っていた。明かりなしでもあらゆるものがくっきりと見えるほど明るく鋭い光だ。冷たい風に身体は凍えるが、心はなぜかとても温かだった。この優しい生き物が僕らのもとにやってきたのは12年前の冬だった。以来僕らとともにこの森で生きてきた。彼は飼い犬などではなくペットでもなく文字通り対等な関係としての家族なのだ。あるいはシベリアンハスキー流の解釈でいうならば、同じ「群れ」の仲間なのだ。

僕は多くのことをパルから学んだ。その反対に彼が僕から学ぶべきことはおそらく何もなかっただろう。自然の中で生きる、ただ単純に「生きる」ということを僕は彼から学んだのだ。ただ生きて、当たり前のこととして死んでいく。そのどこに疑問や不安があるのだ、といつも問われているような気がした。

強風でロープウエイは運休となったが、その風も午後はやくには止んで穏やかな天気に変わった。何もかも吹き飛ばしてくれたおかげで、今日の夕焼けはじつに感動的に美しかった。ピラタスの丘の紅葉もいよいよ最盛期を迎えている。山岳部の紅葉はピークを越えて、もっと標高の低い湖沼部や蓼科高原の観光スポットでの紅葉の見ごろは今週末からになる。

2006年10月20日

3534 iTunes Music Store 初体験

曇りのち晴れ 気温:最低 6℃/最高 9℃

(1)↓↓冗長度を下げようと思ったり。↓↓

やはりみなさん忙しいのだ、朝から晩までケータイやってるし、ゲームやんなきゃいけないし、もちろん仕事は超忙しいし。要するに世の中全部「みんなひとの話しぜんぜん聞く気ないし〜」状態なのだ。

数日前にこのホームページは「冗長度(redundancy)」が高いのだ、と書いた。わかりやすく言っちゃえば、意図的に「くどく」書いてあるのだ。それは「念押し」というニュアンスなのだけれど、はっきり言ってあまり効果はないようだ。「みんなぜんぜん読んでないし〜」ってことで。

これはミスマッチというほかない。ということで、今後はこのホームページも「冗長度」を下げていく方向に持って行こうと考えている。

ちなみに(科学的に測定したわけではないけど)現在の冗長度は70〜80%以上だと思われる。どうせやるなら冗長度25%ぐらいで、「ほんと、真剣に見ないとダメなのね」的なものにしたいという欲求が高まってくる・・・これはやばいかも。

このわくわくした心境、これはかなりあぶない。(^_^;)


(2)iTunes Music Store 初体験。

iPod の爆発的普及と同時に大ヒット中の iTunes Music Store (ITMS) を初めて利用した。MP3 フォーマットでこの価格はどうかな、とずうっと思っていたのでなかなか利用する機会がなかったのだけれど、やってしまった。なんだかふらふらっと「購入する」ボタンをクリックしてしまったのだ。

Amazon.co.jp スタイルのこのインターフェイスは限りなく僕の購入欲を刺激し、感性をインスパイアするのだ。もともとが音楽フリークだから、ツボにはまるとさあ大変なのだ。しかもこんなに簡単にリアルタイムで音楽が購入できてしまうというのは、まったく新次元の音楽体験というほかない。

1950年代初頭生まれの僕としては iTunes Music Store (iTMS) はお宝の山といっても過言ではないのだ。熊を蜂蜜蔵に投げ込んだようなというか、アイスクリームの家に入った子供というか、どうにもたとえようがない。クレジットカードに利用制限でもかけておかないと「危険なにおい」がする。

これはかなりあぶない。(^_^;)


(3)蓼科で熊が目撃?(それってWさんが歩いてたんじゃないのってか)

これも危ない話しだけど、昨日ペンション村の合同草刈り作業があったんだけれど、そこで出た話。

「○○さんが昨日○○あたりで「熊」を見たんだってさ」

「えええ!《熊》がでたぁ〜?!まさか、それってMさんが歩いてたんじゃないの?」

「いやいや、Wさんだろうそれは、大きい体していつも黒い服来てもっそり歩いてんから。」

「ははは・・・でもほんとだってば。」

なんていうやりとりがありまして・・・。

これもかなりあぶない。(^_^;)

(注)実際のところその後も公式の目撃情報はありませんから、心配はないと思われます。きっと(僕の考えでは)宵闇迫る時刻に体格のいいYさんが道ばたで躓いているところを目撃したのではないかと・・・。

2006年10月21日

3535 ひとの話しぜんぜん聞いてないし〜

晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃

「ひとの話しぜんぜん聞いてないし〜」というのはやはり現代の潮流のようだ。昔と違うのは決して悪意はないということか。それは情報過多時代にあって情報処理能力に限界のある人間の頭脳を守るためのブレーカーあるいはフィルターみたいなものなのだと思う。

ほとんどの情報をいわば「ノイズ」として「流し」ていながら、ふと必要な情報に気づけばそれを吟味して摂取するという様子なのだ。現代の高度情報化社会にあって頭脳を健全に守るためにはそのような機制もまた必要なのかと思う。TV、インターネット、ゲーム、CMを始めとしてこれでもかこれでもかと情報が流し込まれるのだからそれをすべて真に受けていたらたまらないだろう。

だからといって、本来精神の滋養となる読書や音楽鑑賞、映画鑑賞などの学芸の分野まで無差別にフィルタリングされてしまっているのはいかがなものかと危機感をつのらせている。そんな感性の殺戮とも言える状況があり、その一方でそれらに(時間的に)とってかわっているのはまぎれもなく「ケータイ」だ。

不思議なのはケータイ以前と以後の時代を比較してひととひととのコミュニケーションがより深まっているかというと、決してそんなことはないという事実だ。伝えたいこと、伝えたい想いを伝える困難は同様に存在するのだ。ケータイによってかえって手続きが面倒に遠回りしている感すらある。

人々はお互いが「繋がっている」ことの確認のために、ケータイメールを打ち合っているようにさえ見える。それは「群をはぐれたくないという不安」によって動機付けられているにちがいない。個人的にはあまり健全だとは思えないのだけれど、まあそれ自体が「娯楽」といえなくもないし、どうこう言う立場にもないから「良いんじゃないっすか」なんて言ってしまうのだけれど。

僕のようなケータイ以前に生きる「古代人」からみると、それにしても膨大な時間の浪費のようにも思われるのだけど。シンプルにストレートに生きることのできない時代になったのかも知れない。山間部ではライフラインとしての意味もあってケータイは都市部以上に普及しているのだけれど、基本的には同様の使い方がされている。

ケータイ以降飛躍的にコミュニケーションが容易になったことは実際問題として革命的だった。しかし、それが定着して以降、都市部と同じ使い方がそれに加わった。結果として、のどかな山暮らしにしてはなにやらとても忙しくなった。昔のように用件のみのメールではない「メル友」メールのトラフィックが増大したのだ。

場所を選ばず、ケータイ以降(これは象徴的な意味でということだけど)みんなとてもとても多忙になった。本を読んでじっくり想いを巡らせたり考えたりすることも少なくなり、フェース・トゥ・フェースでの会話もストレートではなくなった。ケータイやメールの方が話しやすくなっていたりしてね。

これは喜ぶべきことなのだろうか、悲しむべきこと、憂慮すべきことなのだろうか。

時代の流れといってしまえば受け入れるほか無いのだけれど、ケータイが小・中・高生の世代に大人の目の届かない絶対的無法地帯を提供してしまったことは(たとえば映画《リリーシュシュのすべて》を見るとそのことがリアルにうかがえるけど)紛れもない負の側面だ。

マスコミが大好きな「心の闇」とやらはそのような暗黒の無法地帯で密やかに肥大化している。そのような世界においては「人間」らしいまともな人間は生まれないし、育たない。文字通りの「人でなし」が大手を振ってまかり通る世界がある。ゲームによって培われる病んだ思考形態については別の議論に譲るが、ケータイとゲームの現状を僕は認めない。それが「人間」を壊す機構となっているからだ。

ケータイとゲームとそしてもしかしたらインターネットとによって、ひとびとは、特に子供たちと若者は「リアリティー」を喪失している。リアリティーとは「いま、ここに、ある」という絶対的な認識のことだ。自分が自分であるという確信のことだ。本当の自分を生きる唯一の手がかりのことだ。

その大切なものがいま失われ続けている。

2006年10月23日

3537 どうかもうこれ以上急がないで

曇りのち雨 気温:最低 6℃/最高 14℃

朝、雨は止んでいました。予報どおり日中は曇り空になりました。午後4時過ぎにふたたび雨が降り始めあっという間に本降りになりました。これは天気予報よりちょっと早かった。今日はちょっと憂鬱です。僕のペンションのコンセプトが時代のツボを外しているような気がするからです。

ツボを外しているからと言って、これは僕の生き方の問題なのでおいそれと変更するわけにはいかないし、ペンションを純粋な商売とは考えたくないので、そういう観点からはどうしようもないのだけれど。やっぱり集客のためのホームページはプロに頼んでお客様受けの良いものに徹したほうがいいのではないかと思い始めています。

なにを書いても、なにを語ってもなにも伝わっていないような気がしてきています。パワーポイントで作ったプレゼンテーション資料みたいなホームページのペンションの方が集客実績が高いように感じるのです。そのほうが効率的に集客できているように感じるのです。

みんなものを考えなくなってしまった、少なくとも考えるひとの絶対数が減ってきているのを実感しています。ペンション選びなんてホームページを開いて上っ面をさらっと眺めて感覚的に「印象」だけで決めてしまっているように感じます。あるいは貸し切り温泉露天風呂の写真が載っていたとか、料理の写真がきれいだとか。宣伝上手だとか。

それは普通の行動ではあるけれど、それだけではただ宣伝に乗せられているだけで、ご自身で選択しているとは言えないと思うのです。まあ、ペンションごときを選ぶのにそんなに労力なんて使えるかってことなのかも知れませんけれど。

立地や設備、サービスの内容やお料理のレベルや接客の丁寧さ、親切さのどれをとっても他の同価格帯のペンションと比べて同等かそれ以上なのに、このホームページではそのことを伝えることができていないのかも知れません。そのことを検証し、反省しなければならないのかも知れません。(もっと宣伝上手にならなければいけない、もっと宣伝に徹しなければいけないのかも知れません)

そもそもこんなに手間暇かけてホームページを運営していること自体、間違っているのかも知れません。もっと他にやらなければならないことが山積しているのですから。それでもやめないのはいまの時代性に「ノー」と言い続けたいからです。

何でもかんでも「手っ取り早く」という風潮に異議を唱えたいからです。逼迫したニーズがあるときのネットショップの「手っ取り早さ」や「迅速性」はじつにありがたいもので、僕も日常的に利用しているのですが、それとは違うものもあると思うのです。ペンションは「商品(モノ)」ではありませんから、違った選択基準を持ってみてほしいなんて僭越なことを願ったりしています。

「スローライフ」なんてことが喧伝されていますけれど、実際の行動はちっとも「スロー」では無いどころか「スロー」を許容しないというのが現代社会の実相だと思います。スピードを要求されないプライベート・ライフにおいてすら仕事と同じペースで事を行おうとしているように見えるのです。

そんなに生き急いだって、人生の長さも密度も変わらないのです。じっくり味わったり、じっくり鑑賞したり、じっくり考えたりということによって、人生はじつに味わい深いものになるのだと思います。そして蓼科は、少なくともペンション・サンセットは、ラッシュライフとでも言うべき現代の生活からいっとき逃れ出て「スローダウン」する場所なのです。

僕はそのような理念を持ってペンションを始めました。自分自身が「ラッシュライフ」のまっただ中で疲労し疲弊してしまった1人ですから。秒単位の生活、一日に20時間以上働く生活、休日のない人生を20年近くも送った人間ですから、そのことが痛いほどわかるのです。

だからどうかもうこれ以上急がないでください、身近にありながら気づくことの無かった様々なものに気づき、それをじっくりと味わってほしいのです、自分の呼吸する音が聞こえるほどの森の静寂とゆったりとした時間の流れに身をゆだねて本来のご自分を取り戻していただきたいのです。

それだけが僕の後半生の願いです。

2006年10月27日

3541 この時代潮流にノーと言いたい

晴れのち曇り 気温:最低 4℃/最高 12℃

正直言うと僕はマイクロソフト社の誇るプレゼンテーションのデファクトスタンダードであるところの「Power Point」を仕事で使ったことがありません。僕がビジネスマンやってた頃にはまだ MS DOS 3.1の時代で、一太郎 と Lotus 1-2-3 がようやく標準として普及しだしたころでしたから。オフィスLANや社内LANなんて存在しなかった。

でも、考え方は同じでした。見栄えや演出ではかなうはずもないのですが、プレゼンテーションの基本的作法は「Power Point」以前もそれ以降も変わらなかった。まあ、当然といえばその通りなのですが。で、ペンションを始めて数年後、Mac版の Office がリリースされて以来お遊びでいじることはあっても仕事として使ったことはなかった。

でも今回別のコンセプトでペンション・サンセットのホームページ制作をすることになって、時代の方向としてはそっちにいくのかなと思いました。実際の制作に使っているソフトウエアは別のものなのですが、考え方には共通するものがあります。

思いのこもった写真と、インパクトある簡潔な文章、美しいレイアウトとフラッシュムービーによる演出。言葉を尽くして表現するのも大変だけれど、反対に言葉を削って簡潔に表現することもまたものすごく難しい作業です。写真選びやスライドショーの素材集めや画像加工も地味な消耗戦です。

ひと時代前、ペンション経営者が自らこのような仕事をするようになるなどと、いったい誰が想像したでしょう。ペンションを始めて、エンジン式刈り払い機やチェーンソウや大型除雪機を日常の道具として使うようになるなどと想像していなかったのと同じぐらいの驚きです。

「市場原理主義」を標榜するいまの時代の流れは個人的には「違うな」と思うのですが、この大きな潮流にあらがえるはずもなく、経営者としては適応対応していかなければならないのだと思います。ひとびとの頭脳構造が変えられてしまった、洗脳とまでは言わないけれど、「ゲーム脳」というのは実在すると思うし、思考停止が日常的に起こっているのも事実だと思います。これはきわめて危険な状況です。

思うに米国は紛れもない(本来的意味における)「帝国主義国家」であり、彼らが推し進めている「グローバルスタンダード」とやらは間違いなく世界を不幸にしていると思います。それはノーベル賞受賞経済学者スティグリッツの著書を読むまでもなく、米国は自国の「不幸な社会」と「ゆがんだ経済システム」を世界に押しつけ押し広げようとしています。

米国民がみな幸福そうならまだ納得も行くのですが、ネオコンと称されるひとにぎりの特権階級こと「勝ち組」以外の人々はどんどん不幸になっていっている。僕は自分の世代においては異例の反・学生運動的考えを持っているのだけれど、それは政治的立場とは関係なくどんなイデオロギーもインチキだという実感に基づいています。

それでもなお「グローバリゼーション」というこのインチキなお題目あるいはムーブメントに抗うことは十分以上に価値のあることだと思います。誰も「ノー」と言わないこの社会は健全なのでしょうか。偉大なるイエスマンこそ現代の寵児(ちょうじ)なのでしょうか。

2006年10月31日

3545 ややこしいのはあかんで!

晴れ 気温:最低 0℃/最高 10℃

昨日アップロードした「簡潔な説明の新しいペンションご案内ページ」はご覧いただきましたでしょうか。良くも悪しくも古典的なHTMLとCSS(とは言っても現在最新の標準規格準拠)による従来のホームページに比べると、少なくとも見かけだけは「いまどきのきれいなホームページ」になったように思われます。

あとの課題はご予約フォームの記入項目を絞り込んでお客様の負担を軽減することです。キャンセル規定や、ご予約の流れなどは、筋としては必ずお読みいただいた上でご予約していただくべきものなのですが、それが負担になっているようですので、「よろしければお読み下さい」というかたちにせざるを得ないのかも知れません。

世の中どんどん簡略・簡素化されてなにも考えなくてもあとは全部システムが「よしな」に取りはからってくれる時代になっているようですから、ペンションのご予約もそのようになるべきではないかと考えるのが順当でしょう。その方向で今後も早急に改善を進めて参ります。

キーワードは「ややこしいのはあかんで!」です。私は横浜で生まれ育ちましたが、この関西の言葉にすべてが要約されているように思いますのでそのままキーワードとして使わせてもらいます。じっさいそのとおりなのです。わかりにくいのはダメだし、めんどうくさいのもダメなのです。

50歳を過ぎて時間がたつにつれて僕自身も「めんどうなこと」が出来なくなってきたのを感じます。特に「ややこしいのはあかんで!」という感情は時として怒りにすら変わりますから、ホームページのつくりもまず自らそのような怒りを誘発しないわかりやすく簡潔なものにしていかなければならないと実感しています。

それにしても11年間の蓄積で良くも悪しくもコンテンツが量的にふくらんでしまったので、きちんと整理して現在進行形のものとアーカイブすべきものとを分けたサイト構成にしなければなりません。単純に考えれば「日記」部分と「ペンション」部分とを二分して整理すればよいわけです。

検索エンジン(グーグルやヤフーなど)がここまで進化した現在、「観光情報」については「基本的な情報源」として価値のあるものと「穴場情報」的なものに絞り込んで良いのではないかと考えています。もはや膨大なリンク集は必要ないと思います。

さあ、ホームページのコンテンツの「間伐」「枝打ち」とでもいうべきものにとりかからなければなりません。自然の森だって、そのように人の手が入らなければ混沌(こんとん)としたジャングルと化してしまうのですから。

2006年11月03日

3548 オーナー失格?

晴れ 気温:最低 0℃/最高 8℃


「あたたかいねえ」という言葉が地元でよくかわされている。今日山麓の街のメガマートに行ったときもカウンターの女性とそんな話題になった。「年々温かくなって、それはいいんだけど、やっぱりおかしいよねえ」。

たしかにそうなのだ、これは妙なのだ、おかしなことなのだ。かつてのこの季節なら、石油ストーブや電気ストーブの段ボール箱を抱えて一所懸命クルマに積み込んでいる人が駐車場にたくさん見られたはずなのに、今年はその気配もない。いまだにフリースを着込んでいる人もいないし。

直営の灯油スタンドに並んでいる人もほとんどいないし。やはり温かいというのは実感というのだけでなく、紛れもない「事実」なのだろう。「暖冬」というとなにやら過ごしやすい冬と感じられるのだけれど、じっさいは雪が溶けやすいためにアイスバーンがあちこちに出来てとても危険な道になってしまう。

当地のような土地では暖冬は「鬼門」なのだ。

それはさておき、大きな疑問が頭をもたげてきている。10年間も蓼科高原日記を書き続けてきたことはペンション・サンセットの経営にとってプラスだったのだろうか、マイナスだったのだろうかということだ。ふつうだったらペンションの玄関を入るまでわからないはずのオーナーの人となりとかペンションを支配する雰囲気とかが、日記によってわかるようになっていることが、むしろ集客においてマイナスになっているような気がしてきている。ひしひしとそれを感じている。僕はペンションオーナーとして落第なのだろうか、そんなにひどいひとなのだろうか。

蓼科高原日記があることによってペンション・サンセットはお客様を遠ざけることになっているのではないだろうか。書かれた文章はその瞬間から独立した言葉として伝播していくものだから、どのように解釈されどのように理解されなにを感じさせるかは書いた本人には制御できない。

こうした商売にとって、本音で語るということはタブーであり、耳あたりの良いことだけを書くべきだったのかも知れない。いや、このような日記自体を無くしてしまうべきなのかも知れない。長期的展望に立てばきっとそのほうがよいのだと思う。

商売にとっても「口は災いの元」なのだ。なにも語らない方が想像力を刺激できるしね。僕はおしゃべりしすぎたのだ、たぶん。現代社会においてはむしろ「情報を制限する」ことによって「情報飢餓状態を発生させ」て、結果として衆目を集め「特定の情報」の集中的情報摂取を促すことが出るのだ。

ソフトバンクが今回の広告キャンペーンにおいて「予想外だ」と「¥0」しか語らなかったのは、そのような手法に則っていたからだ。結果は大成功といって良いと思う。このような手法が成功するなんて、なんて幼く貧しい精神が支配している社会なのだろうと個人的には思うのだけれど。一人一人はおそらくとても賢く良識あるびとひとなのに、集団としての社会を形成するとこのていたらくだ。いまなんとかしなければ、このままでは簡単に戦争に駆り立てられてしまう。

2006年11月05日

3550 グローバリズムのもたらした幸福

晴れのち曇り 気温:最低 0℃/最高 9℃

10年間にわたる日記を消去してなにもなかったことにしてしまうことは簡単だ。そうするべきなのかもしれない。時代は変わったのだ。そして、僕も変わった、変わらざるを得なかった。米国が蔓延させた「市場原理主義」を核とする「グローバリズム」という名のウイルスは世界を一変させてしまった。

米国は民衆を不幸にした自らの失政を世界に蔓延させることによってチャラにしようとしているかのようだ。「そうだよ、これがふつうなのだ」と。金持ちはチャンスをものにし、ひとの何倍も努力したから金持ちなのだ。君たちにだってチャンスはあったのだよ、怠惰な貧乏人諸君。そういう論理でしょ。

それは違う。金持ちは、権力層はずうっと金持ちだったし、その既存権益を守り通してきた。成り上がったものはほんの一握りに過ぎない。これはお寒いレトリックでしかない。「地主と貧民」という有名なトランプゲームをやってみるがいい、すべてがそこに集約されている。

「グローバリズム」とは少数の特権階級が支配するゆがんだ社会を正当化するためのプロパガンダに過ぎない。新たな「貴族と奴隷」という図式の社会を構築するためのロードマップに過ぎない。既成の事実として語られることはあっても「グローバリズムのもたらした幸福」について誰か語ったことがあったろうか。ゆがめられたプロパガンダとしてではなく、真実としてもたらされた幸福について。

僕は寡聞にして知らない。

2006年11月08日

3553 「心地よさ」こそが市場原理であるような世界

晴れ 気温:最低 - 5℃/最高 8℃

本音とか正直とか公正とか、そんな言葉も概念もおとぎ話の中にしか出てこないのだ。世界は嘘と欺瞞と不公正に満ち、不公平がその実体に違いない。愛という名のメタファーに救いを求めるほか無い。しかし、メタファーはあくまでもメタファーでしかない。愛は人間存在によってのみ存在させることができる。愛はそのままでは生き続けられない。

世の中が公平であるとか、神が正義であるとかいうのと同様にそんなものはわれわれの妄想でしかない。信じる努力なしに愛は永遠ではないし、闘う勇気無しには正義は存在すら危うい。戦争や闘争は人間の原初的性向であり、平和や融和はその合間に訪れるに僥倖(ぎょうこう)に過ぎない。

だからこそわれわれは演技するのだ。この世界は本来的に平和であるかのように、人間は平和をなによりも愛する生き物であるかのように、人間とその社会は必然的に正義と公平を志向するものなのだと。社会正義は必ずなされるものなのだと。愛さえあれば平和は必ず訪れるものなのだと。

別に悲観的にものを見ているわけではない。ことさら斜に構えて世界を見ようとしているのでもない。僕はただ可能な限り公平に見極めたいだけなのだ。僕なりのささやかな勇気を持って。

先日僕は、この日記を書くことが僕の生業でもあるペンションからお客様を遠ざける結果になっているのではないかという疑念を持っていることを告白した。本当にそう考えているのだ。現代社会においてひとは耳に心地よいものを志向する、自我に心地よいものにのみ心が傾く。

時代はまさに誘惑の時代を迎えている。社会はいまや、少なくとも、市場は「女性原理」に従って動き始めている。それは倫理を越えた原理である。それは「心地よさ」こそが市場原理であるような世界だ。

2006年11月09日

3554 ぼくのホームページの起源

晴れ 気温:最低 - 2℃/最高 9℃

今日、床下の通風口を閉めた。去年はいつ頃閉めたんだっけ。サイト内検索で調べてみたら、蓼科高原日記にちゃんと書いてあった。だいたい毎年10月中に閉めて、翌年5月中に開けている。今年は雪が多かったのでいつもより早く開け、雨が多かったのでいつもより遅く閉めたというわけだ。

トップページに設置してある Google(TM) の「サイト内検索」機能はとても便利なので、是非ご利用下さい。さらっと見ただけでは普通のペンションのホームページに見えるけれど、じつは100MBを越える情報が詰め込まれた複合サイトになっているのです。

とくに10年以上にわたる蓼科高原ピラタスの丘の天気と気温の記録に関しては他には存在しないと思われます。当地の気候については過去の日記を参照すれば具体的に状況を把握できるはずです。そしてそのとき僕がなにをどう考えていたか、ペンション・サンセットがどんなふうだったかも。

そのために僕はこの日記を毎日欠かさず書き続けているわけです。ですからこれは「日記」とはいっても「ダイアリー(diary)」ではなく「クロニクル(chronicle)」に近いのではないかと思っています。ですからペンション・サンセットの歴史はここにすべて記されています。

そのような膨大なコンテンツの中にペンションとしてのホームページが置かれているというのがこのサイトの構造です。同時に開設時の1996年というインターネット黎明期の時代背景から「蓼科高原のポータルサイト」的な部分も残っています。当時はようやく Yahoo! Japan(TM) のポータルサイトが開設されたばかりでいまだ日本法人になる前の状況でしたから、そのようなものが必要だったのです。

このサイトは、白樺湖池の平ホテル、マリー・ローランサン美術館とほぼ同時期に開設された蓼科高原で最初の「ホームページ」です。味の素やトヨタ自動車のホームページがまだ存在しなかった頃の話しです。その当時からホームページからの宿泊予約が出来たのがひどく珍しがられ、ホームページで予約してみたいがためにサンセットにお越しになったお客様も多かった。(^_^;)

もっともシステムエンジニアとかIBMとか新日本電気とかIT関連企業の方ばかりでしたけれど。逆に言えばそのような方しかまだインターネットを日常的に使っていなかったと言うことです。白書によれば当時のインターネット利用者数は約510万人だったということです。それが昨年では7000万人を越えています。

時代は大きく変わりました。インターネット界も変わりましたが、世の中そのものが大きく変わりました。ケータイが爆発的に普及し、「ゲーム脳」が人間の思考形態を変化させ、「グローバリズム」という名の市場原理主義が経済を支配し、勝ち組負け組が出現し格差社会化が進み、われわれ人類が平和と繁栄を謳歌すると想像していた21世紀は文化衝突とテロの時代であることが明らかになりました。

そのような枠組みでものを考えるとき、こんなところでオレはいったいなにをやっているんだと思うこともあります。標高1800m近い山の上で仙人みたいな生活を送っているわけですから。もちろん霞を食って生きていくことは出来ませんから、ビジネスとして生業のペンション経営を成立させることに腐心もしています。

長くなっちゃいました。そんなことでいま改めて、自分が「いま、ここに、ある」ことの意味を問い直しているところです。このホームページになにがしかの混乱が見られるとしたならば、そのような個人的事情によるものです。ご容赦下さいませ。

2006年11月10日

3555 先読み貧乏

晴れのち曇り 気温:最低 0℃/最高 11℃

ホームページ運用者としてもペンション経営者としても混迷を深めています。ペンション・サンセットのご案内ページをまったく新しいかたちに改める決断をしたことが、このサイトを訪れてくださる方にどのように評価されているのか、そもそもじっさいに見てみようという気にさせるレベルにあるのかどうかがとても心配なのです。

高機能のアクセスログ解析システムを使っているので、訪れてくださった方の動きがつぶさにグラフと表でデータ表示されるのですが、それがかえって心配の種になっていることも否めません。世の中には知らないほうがいいことも(たしかに)あるのだと、改めて思ったり。

データなんてあまり気にしないで伝えたいことをストレートに伝えていた頃が懐かしい。むしろ、昔のようにやったほうが善いのかも知れませんね。敬愛する糸井重里氏が面白いことをおっしゃっているのを読みましたが、まさにいま僕が置かれている状況が語られていました。(ほぼ日経ビジネスオンラインSpecial)

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20061018/111909/

著作権の問題でリンクは張っていないのでコピペして下さいね。「ディズニーランドにキティちゃんが入ろうとしたらどうする? 俺は止めるね 」なんてタイトルがあったりして、僕的にはもう読まずにはいられませんでした。(^^)

そして、このような転機を迎えているホームページ運用者は僕だけではないのだと言うことを知りました。また、

「私は器用貧乏ではなく、先読み貧乏なんです」というメールが来たんだ。先読み貧乏ってナンダ?

というタイトルの回では、じつに身につまされる想いをしたしだいです。いままさに自分がこの状況にはまってしまっているからです。

新しいホームページ、そんなに出来が悪いでしょうか。かなり落胆しています。

2006年11月28日

3573 資本原理主義

雨のち曇り 気温:最低 3℃/最高 7℃

ようやく雨は上がったが、さんさんと降り注ぐ陽光はない。麓から見るとピラタスの丘のある山の上はすっぽりと雲をかぶっているのがわかる。ここは文字通り別世界なのだ。ステイン塗り立てのテラスの床も弾かれた雨水が乾いていない。

この高温では雪の気配は全くない。森はいまだに秋の気配を残したままたたずんでいる。いささか当惑しているかのように。風が吹き抜けるが、空っ風ではない。それどころか濃密な湿度を感じる。これで気温が下がればいつ雪が降ってもおかしくない。

これまである意味で迷うことなく一筋に突き進んできた。ペンション経営も、ホームページ運営も。

しかし、時代潮流は大きく変化した。過酷な不幸な時代へと大きく梶を切ったのだ。先人たちが命がけで勝ち取ってきた資本主義における労働者の権利や地位がリセットされようとしている。自由民権運動や数十年に及ぶ労働運動、労働争議によって実現された社会主義的制度が資本原理主義によって、まるで明治時代にまで戻されようとしている。

資本家が潤い、労働者が搾取される。そんな前時代的なステレオタイプが息を吹き返そうとしている。資本原理主義の完成型は「格差社会」そのものだ。資本家と労働者、まるでカードゲームの「地主と貧民」そのままの社会。資本家はますます富み、労働者はますます悲惨な境遇へと追いやられる。

20世紀のある時期、われわれが「1億総中流社会」などと思いこめたのは、長年の間に修正主義的に盛り込まれた社会主義的システムによってのことだったのだ。小泉政権が標榜した「小さな政府」とはその「社会主義的システム」と「福祉」を切り捨てることによって実現するものだった。これは欺瞞である。小さな政府とはそのようなものではなくて、政府システムが小さな=官庁や役人が少ない政府のことなのだ。

また資本原理主義においては企業活動は資本家の利潤追求の場であって、そこに従来のような社会の一員としての品格や資本の社会還元といった考え方はない。「会社は株主のものである」とはそのような意味だ。もはや企業は社会的システムではなく、単なる利潤追求のためのシステムに過ぎない。

「競争社会」のメリットを説く政府だが、その本質は「地主と貧民」というゲームそのままに、それは競争などではなく、既得権者をますます富ませる結果となる弱者同士のつぶし合いに結果する。競争するのは弱者同士であって、強者であるところの資本家は「高みの見物」を決め込んでいるだけでよい。それが安倍政権の「再チャレンジ」スキームである。これもまた欺瞞だ。

過度の競争は人々を不幸にする。これは人類の体験的法則である。

動かしようのない格差はひとびとの心をすさませる。

もうすぐペンションの居場所など無くなってしまうのかも知れない。

それは同時に僕の居場所がこの社会にはなくなってしまうということでもあるのだけれど。

2006年12月06日

3581 サーバーの引っ越し

晴れ 気温:最低 - 10℃/最高 1℃

ピラタスの丘の中の日陰部分の道路に2カ所アイスバーンが出来ていました。半分溶けかかっているのだけれど、ノーマルタイヤの車は慎重に通過する必要があると思います。あとはほぼ全面乾燥路面になっていますが、これからのお出かけはどこでも山岳部は降雪や積雪や路面凍結がいつあっても不思議ではないと考えて準備することをおすすめします。

まだ書いていなかったと思うのですが、先月末から今月初めにかけて作業してサーバーを引っ越ししました。様々な要素を検討して「ネットショッピングシステム」とか「カード決済システム」とかの不必要な機能をカットしたわけです。セキュリティーと信頼性・安定性はとにかく一番大切ですからそれを基準に選定したサーバー・ホスティング・サービスです。まあ、みなさまにはこれまでどおりなにも変わらない状態でアクセスいただけるので、関係ないというか、どうでも良いことだとは思うのですが。

それからもう一つ変えたところがあります。ついにこのサイトから私の署名が消えました。とうとうネット界もここまで来たかという感慨を持っています。別段トラブルに巻き込まれたわけではないのですが、ひしひしとそのことを感じるようになり、そしてその程度が私の個人的基準を超えたということです。不本意なのですが、しょうがないですね。

そんなこととはまったく関係なく、今日の夕暮れはじつに息を呑むほど美しい展開を見せてくれました。たまさかこういうときに限って車にデジカメを積んでいないのですよね。デジタル一眼レフではなくてもっと小さなコンパクトデジカメに変えるべきかも知れませんね。美しい映像を高解像度でという方向性も必要だけれど、一方でタイムリーなスナップ・ショットという方向性も必要なのですよね。う〜ん、両方持てればよいのだけれど予算が許さないならば、どちらか一方に決めて割り切るしかないですね。今日だってカメラを携帯していれば数年前に撮影したこんな夕暮れが撮れたかも知れません。

それにしても「情報発信」ってなんなんでしょうね、いまさらながら考え込んでしまう昨今です。私なんぞは10年以上もこんな「垂れ流し」みたいな文章を書き続けていますけれど、これでよいのだろうかという疑問をいつも抱き続けてきました。まあ、個人的な記録としてなら「備忘録」としてそこに一定の価値は見いだせるのですが。

写真撮って「日記」(これもブログって言うのですかね最近の基準では)に載っけて、コメント書いて、熱く想いを語ったり、義憤に燃えてみたり、いったい自分は何やっているんだろう。なにがしたいのだろう。わからない。だから昨今は社会や政治についての議論や想いを書いてないでしょ。よくわからなくなっちゃったのですね、正直なところ。自分の立ち位置がよくわからなくなっちゃった。これはこれでけっこう重傷なのです。(^_^;)

2006年12月07日

3582 暖冬そして格差社会

晴れのち曇り 気温:最低 - 8℃/最高 2℃

ここの住人の共通認識ですが、毎年冬が暖かくなってきています。その割には寒さが身に応えるのは歳のせいか不況のせいか。報道によると「いざなぎ景気」以上の長期にわたる「好況」だそうですが、それは一部の「勝ち組企業」および「勝ち組のひとびと」にとってだけの特権的な利益として還元されているだけで、個人消費を支える庶民に還元されるどころかますます給与所得を減少させようという動きが加速しています。

そんなことをしていて国内需要をどのようにして回復させようと考えているのでしょうかね。おそらく、庶民はいわば古代における「奴隷階級」であってもはや顧客ではなく、「貴族階級」だけを顧客として成立するビジネスモデルを想定して事を進めているのでしょう。

21世紀に再びこのような時代になるとは想像だにしていませんでした。また「階級闘争」だの「革命」だのが必要な時代になってくるのでしょうか。いずれにしても庶民の実感としてはいまだにデフレだし、不況だし、所得は減る一方だし、社会保険料や税金はずしりと重くなるばかりで良いこと無しですよね。

この国の進もうとしている道は明らかに間違っていると思います。そして、そのことを主張し闘おうとしない若い世代、そして私たちはなんて従順なのでしょう。奇妙な絶望感に打ちのめされています。

それはさておき、今日は朝のうち晴れ午後には曇りという天気でした。外で作業していてもそんなに寒さは感じませんでした。きょうはお風呂の循環濾過装置全体の清掃消毒を中心としたメインテナンスを行いました。で、ものすごく重いセラミックフィルターのカセットを引き抜いたときに腰をやっちゃいました〜。(^_^;)

もともとスポーツ性の腰痛を爆弾として抱えていたのですが、ここのところ快調だったのでつい油断しちゃいました。ぎっくり腰ならすぐ治るのですが、これは明らかに椎間板性の腰痛です。やれやれ。まあ、車を運転したり、ペンションの仕事はこなせる程度で済んだのが幸いでしたが、痛いことに変わりはありませんからね、やれやれです。

これでひととおり積雪前の作業は完了しました。少しほっとしたところです。夜、天気予報を見ると、明日の未明から6時間ほど雪が降るとのこと。これは初めての本格的な積雪になるかも知れません。何十センチも積もるとは思えませんが、3センチとか5センチの積雪が道路や地面に積もって、今度こそ根雪になりそうです。

今週末は蓼科高原の多くのスキー場が正式オープンしますから、ちょうど良いタイミングではあります。スキー場にたっぷり雪があっても景色が秋みたいな枯草色ではなかなか気分が出ませんからね。ということで、これから蓼科高原の山岳部やスキー場にいらっしゃる方は必ずタイヤチェーンを携行するかスタッドレスタイヤを装着してきてください。

2007年01月02日

3608 静かな蓼科

曇り 気温:最低 - 4℃/最高 0℃

お正月三が日の2日目ですが、ピラタスの丘は静かです。隣接するピラタス蓼科スノーリゾートにもペンション村にもたくさんのお客様がいらしているのですが、豊かな自然の中では圧倒的な静けさが勝るのかも知れません。この年末年始もここ数年の例にならって、年末にいらして大晦日にお帰りになるお客様と、元旦にいらしてゆっくりしてからお帰りになるお客様に二分されました。共通するのは年越しは自宅でということのようです。

もちろん、ペンション・サンセットで年越しなさったお客様もいらっしゃいました。このような静寂に満ちた越年というのも一度味わってしまうとやみつきになります。奥様もお料理や何やかやの家事から解放されるので、のびのびとくつろいでいただけるようです。ケーブルTVなので観たい番組はすべてご覧になれますし、いたれりつくせりかもしれません。

今日は朝から雪雲が上空にどっかりと居座って、陽射しを遮ったので気温が高い割に暖かさを感じませんでした。午後3時頃から雪になるという予報だったのですが、午後7時現在雪は降っていません。しかし雪の気配はどんどん増してきています。いまネットでピンポイント予報を見たら雪マークが消えてました。それでも、じっさいに空を見れば確かに雪雲が100m上空まで下りてきているのです。このようすだとピラタスの丘から上は雪になるかも知れません。

それにしても、「蓼科高原日記」の、つまり「このブログ」でもあるわけですが、書き方がはっきりと変わったことに気づきます。これまではまず文章を書き、必要に応じて写真を選んで載せていました。しかしいまではまったく反対で、まず写真を選んで、あるいは撮影してきて、それから文章を書いているのです。もちろん文章は写真の説明ということでは全くないのですが、何らかのイメージ的関連は自然と生まれてきます。そのあたりのインタラクションを面白く感じているところです。

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2007年01月03日

3609 年初に思うこと

晴れ 気温:最低 - 6℃/最高 - 1℃

ほとんどのひとにとって年末年始のお休みは今日で終わって、あしたから「さあ仕事だ」ということになるのでしょうか。我が国の休暇は本当に貧弱ですね。せめて米国のクリスマス休み程度は休んでも良いと思うのですが。← 欧米か!★?(^_^)

それはさておき楽しい雪遊びの道具はじつに多彩で、こうしてスキー・スタンドを見るとちょっと楽しくなってきます。もちろん道具なんてなにも無くったって、雪があるだけで楽しく自然と戯れることが出来るのです。雪は厳しい冬からの素敵なプレゼントです。

大人にとってはまたとない心身のリフレッシュ、お子様にとっては家族での楽しい思い出となった年末年始の蓼科ではないかと思います。まあ、「モノより思い出」か「思い出よりモノ」かはひとそれぞれですが、どちらでもいいんじゃないでしょうか、それぞれに幸せを感じることが出来るのならば。

もう二者択一の価値観というか、そういうものの見方は現実にそぐわない時代になったように感じる昨今です、個人的には、ということですけれど。「あれか、これか」というものの見方はデジタル的でまことに「わかりやすい」のですが、その「わかりやすさ」にのせられて訪れた「いまという時代」は私たちにとってより良い時代、より豊かな社会になったのでしょうか。

すくなくとも「構造改革」は私たち庶民を幸せにするための「改革」ではなかったですね。まだ気がついていない人はいないと思うのですけれど。私たちにとっては、結果を見れば、「構造改悪」でしかなかった。多少はよい面もでてきたことはきちんと評価しなければ公平とは言えませんが。

それにつけても、マスメディアにすっかり乗せられて「価値観は多様化した」と思いこんでいたけれど、なんのことはない、ぜんぜん多様化していない。「価値観は多様化」なんてしていない、あいかわらず「あれか、これか」の二元論が支配している。愕然としますね、価値観の多様化と呼ばれていたモノはじつはサブカテゴリーの多様化に過ぎなかったのだってことがわかって。

そんなことを思う年初ではあります。

2007年01月11日

3617 ウェブの精神的対価と「雨月物語(貧福論)」

晴れ 気温:最低 - 8℃/最高 - 3℃

よく訪問するウェブページでこんな一文に出合った。これは個人でホームページやブログを運営しているひとは一読する価値があると思う。

個人がwebサイトを運営、公開していく動機というのはここでも彼が言っている通り「名誉の部分に起因する精神的対価」という部分しかないと思う。

ここで言う「彼」とは『けなす技術〜俺様流ブログ活用法』の著者である山本一郎氏のことだ。あの2ちゃんねるの有名人の『切り込み隊長』でもあるとのこと。ぼくは2チャンネルにはあまり近寄らないひとなのだけれど、そのイメージとはある意味かけ離れた真摯な議論がこの著書ではなされている。

先の引用箇所についてはぼくもまったく同感だ。それは10年以上ウェブサイトを個人で運営してきてた者としての切実な実感でもある。どんなにアクセスの多い優れたコンテンツのサイトを構築運営したとしても、たとえばぼくの場合で言うなら、他のペンションより集客数が多いというわけではない。業者任せでプロフェッショナルな「ホームページ」を運営している同業者の方がむしろ繁盛しているくらいだ。

それでもぼくがプロ任せにしないで、素人仕事でこのサイトやブログを運営しているのは、ペンションをパーソナルなビジネスと考えているからだ。ホテルや旅館などのようなある意味パブリックなというか法人格での商売とは考えていないからだ。ペンションはパーソナルな宿なのだ。お客様に対するフェイス・トゥ・フェイスのホスピタリティー提供を最大の特徴とする宿泊施設なのだと考えている。

Now He Sings.

この10年余でぼくが得たものは素晴らしいお客様。これ以上の名誉、これ以上の精神的対価はないだろう。しかし、膨大な時間と労力を費やして運営してきたこのサイトから得たものといえば、たしかに、「ささやかできわめて個人的な名誉」のみだ。それでも良いじゃないか、と思う。しかし、ちょっと悔しい想いもあるのだ。

Now He Sobs.

しかし、時代はそんな想いとは裏腹な方向へと梶を切っている。経営者の想いや志なんてものは一切評価されない、結果だけがすべての時代へと変わってしまったようなのだ。ビジネスである以上、良い結果を出さなければならないのは当然なのだけれど、どれだけもうけたかという意味での結果ばかりが価値基準となってしまった。それが新自由主義経済の本質なのだからしょうがない。格差社会は新自由主義と呼ばれる企みのもたらす当然の帰結なのだ。

同時に、それは我が国においては江戸中期に確立した貨幣経済の当然の帰結でもあるのだけれど。「金(かね)は金(かね)のことわりに習いて流れる」のだ。それは水が高いところから低いところへと流れるのと同様の自然法則なのだ。金(かね)は金(かね)を愛する人の周りに寄ってくるものなのだ。拝金主義者がますます膨大な富を手に入れるのはそのような法則による。と、上田秋成の雨月物語の最終話「貧福論(ひんふくろん)」に登場する黄金(こがね)の精である翁は語る。

ああ、「こころの時代」は終わってしまったのか。高邁な精神性を目指すのはバカモノの生き方なのか。教養など腹の足しにもならないと、人間としての基本的素養をなおざりにした実学主義に走るのか。昨今奇妙な人間が増えているのはそのひずみによるものではないのか。

ぼくも、みんなも、くだんの翁の言葉にいまこそ耳を傾けるときなのかも知れない。

 私は今、仮に姿形を現して語ってはいるけれども、神でもなく仏でもない、もともと情(こころ)のない物であるから人間とは違った考えをする。古代では富める人というものは、天の時流にかない、地の利をよく察して、産業を営んで富貴となった。これは天の自然にのっとった方策なので、財物がここに集まるのも天然自然の理(ことわり)である。また卑吝貪酷(ひりんどんこう)の人は、金銀を見れば父母のように親しくし、食うべきところを食わず、着るべきものを着ず、ほかに得がたい自分の命さえ惜しいと思わずに、起きて金銀を思い寝ても忘れないほどだから、ここに集まるのも目前に見えるように当然の理屈だ。私は元来、神でもなければ仏でもない、ただの非情の物である。そういう非情の物として人間の善悪を明らかにしたり、その善悪に従わなければならぬ道理はない。
 いったい、善を勧(すす)め、悪を罰するのは天であり、神であり、仏である。この三つは道徳である。われら非情の物たちが関係するわけにはいかないものだ。われらはただ人びとが仕えたりかしずいたりする、その丁重さにひかれ集まると理解すべきである。ここが金に霊があっても人間の情(こころ)とは異なる点なのだ。また富んでいて今生に善行をなすにしても、わけもなく恵をほどこし、相手の人の不道徳をも見きわめず金を貸し与えるような人は、それがたとえ善根(ぜんこん)を行うものであっても財貨はついには消失してしまうに違いない。こういうのは金の使い方をおぼえても、金自体の本質を知らないで、軽々しく扱ったためである。

ぼくも耳が痛い思いがする。お金の大切さをその本質において学んでこなかった。こんなことではお金に見捨てられてもしょうがないのかも知れない。なお、この現代語訳は講談社学術文庫「雨月物語(青木正次・全訳注)上下巻」による。

2007年01月15日

3621 山暮らしと「雨月物語(貧福論)」

晴れ 気温:最低 - 13℃/最高 - 4℃

先日「雨月物語」の最終話「貧福論(ひんふくろん)」のことを書いた。引用部分を読んで、よ〜し、自分もお金を丁重に扱い愛すことが出来ればきっとお金が寄ってきてくれるのだろうと、ちょっとがんばってみようかなどと思ってしまった。が、しかしそれに続く話を読んで「がっくり」きてしまった。

くだんの翁(おきな)=じつは黄金の精の化身=はこう続けたのだ:


(承前)

 「また、わが身の行いも正しく、他人にも真心を持ちながら、世間のつきあいを狭(せば)められて苦しんでいる人は、天の神の恵み少なく生まれついてきたのだから、いかに精神を労しても、生きている間に富貴を得ることはない。だからこそ、昔の賢人は求めて効果があれば求めるし、求めても甲斐(かい)がなければ求めない。そして自分の好みに従って俗世間から山林に脱出して、心静かに一生を終わる。そういう心の中はどんなにか清々(せいせい)としたものであろうかとうらやましくなってしまうのだ。
 だがそうはいっても、富貴の道は技術なのであって、たくみな者はよく富を集め、だめな者は瓦が壊れるより簡単に失ってしまう。一方、われら金銀の類は、人の生業についてまわって、頼みとする主人も決まってはいず、ここに集まるかと思うと、その主人の振る舞いによってはたちまち向こうへ逃げていく。あたかも水が低い方へ流れるようにである。金の動きには夜も昼も往来してとどまる時がない。だから、ただもう閑人(ひまじん)が生業も持たずにいれば、泰山のごとき富もすぐに食い尽くしてしまうだろうし、江海のような富もついには飲みほしてしまうものだ。
 何度でも言うが、徳のない人間が財貨を築き上げたりするのは、金の性(さが)と術(わざ)を競う道のことであり、君子たらんとする人は、それにかかわることなくそれを論じない方がよい。時流をつかんだ人が、倹約を守り無駄(むだ)を省いてよく努力すれば、自然に家は富み人も従うようになろう。私は仏教でいう前世の因縁によるということなどは知らないし、儒教でいう天命だという考えにもかかわりはない。全然別な世界で気ままにやっているのだ」という。


はいはい、たしかに清々(せいせい)したこころもちでございますです。(-_-;)

天の恵み少なく生まれついてきたのね。ぼくは賢人であろうはずもないけれど、賢人みたいに生きるのがいいみたい。君子じゃないけど、君子たらんとする人みたいに、それにかかわることなくそれを論じないほうがいいのね。

やっぱり、配られたカードを取っ替えるわけにはいかないし、手持ちのカードでルールに従って少しでもましな結果を出すように努力するほか無いのだ、ポーカーゲームみたいにね。ずうっとそう思ってきたけれど、やっぱりそうなのかもしれない。

さびしいなあ。

※引用した現代語訳は講談社学術文庫「雨月物語(青木正次・全訳注)上下巻」による。

2007年01月16日

3622 ゲレンデには100センチ以上の積雪が

晴れのち雪 気温:最低 - 8℃/最高 0℃

今日、ピラタス蓼科スノーリゾートのホームページに掲載されていた「坪庭の夕景」です。背景は縞枯山です。霧氷(むひょう)が夕日を浴びて真っ赤に染まっていて、じつに感動的です。が、撮影するには山小屋(縞枯山荘がおすすめ)に宿泊する必要があります。すぐに真っ暗になり歩いて降りることはできませんし、ロープウェイも夕暮れ前の午後4時で終了しているからです。

雪不足なんてありません:積雪100センチ〜120センチ

この写真を見ればわかるとおりピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデには平均でも100センチ以上の積雪があり掘っても掘ってもパウダースノーという素晴らしいコンディションです。ガリガリ言うようなことはまったくありません。パウダースノーのまま、そのままの状態が保たれています。

ぼくらロコ・スキーヤーの経験として、雪質と景色は1月いっぱいがベスト・オブ・ベストです。まさに厳しくも美しい大自然の懐に抱かれて遊ぶという体験ができます。特にピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデでは山岳スキーの雰囲気をたっぷりと味わえます。

天気さえ良ければ、スノーシューによるトレッキングにも最適です。スノーシューはピラタス蓼科スノーリゾート(電話:0266-67-2009)のスキーレンタルショップでも借りることが出来ますから、お気軽にご相談下さい。


昨日のエントリーの補足

昨日のエントリーのぼくの心情を心配してくださる親しい方からメールをいただきましたので、メール返信するとともに他の方向けにも同様にあらためて真意を記します。ご心配かけてすみませんです。(^^ゞ

昨日のエントリーの最後のコメントでぼくが言いたかったのは、というかその背景にあった想いというのは:

(1)新自由主義は「勝ち組を目指してだいそれた野心など持たず、その日その日
   を一生懸命がんばってこつこつと静かに生きる」という生き方を許容しない、
   ということが寂しい価値観、哀しい社会だと言うこと。
   そのような過酷な「階級闘争」を強要するような社会には断固ノーと言う
   べきである。

(2)私自身は、口ではなんと言おうとも、「君子たらん」としているひとだ。
   これは宿命みたいなもので、そんな自分から逃げることは出来ないのだ。
   だから山にこもって(?)暮らし始めたのだ、ということ。
   どんなに自己評価を高くしても、ぼくは決して「賢者」ではないけれど、
   「フール・オン・ザ・ヒル」なのだ・・・ピース。(^^)v

の2点なのでした。ちょいとレトリックを複雑にしすぎて誤解されやすい文章になっているかも知れませんが、私なりの皮肉を込めてそのように書いたしだいです。

方向性を間違えずにこつこつと努力を重ねていれば、いずれ結果は付いてくると個人的には信じてがんばっていますが、問題は一刻も早く結果を出さなければ生き残れない、というか生存そのものが許されない社会になってしまったという不幸な時代性です。そのことを昨今ひしひしと感じています。

品格というものを捨て去った資本主義社会とはこのようなものなのですね。

それがさびしいのです。

しかし翁が言うようにお金は「神でもなく仏でもない、もともと情(こころ)のない物であるから人間とは違った考えをする」のだから、なにを言ってもせんなきことではあるのだけれど。(エントリーNo.3617参照)

ご心配おかけしましたが、そいういうことで、自分の生き方を変えるつもりなど毛頭ありませんので、ご心配なく。(笑)

※今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイ の許諾を得て転載しています。

2007年01月19日

3625 ピラタス蓼科、レールとキッカーが明日オープン

晴れ 気温:最低 - 11℃/最高 - 4℃

ピラタスでは1月20日(土)からレールとツーウェイキッカーオープンします

明日、1月20日(土)からレールがオープンします。右の写真はスタッフによるテストラン風景です。手前はストレートで奥に見えるのがフラットダウンで、全長は共に6mです。

また、このエントリー左下の写真は同日オープンするツーウェイキッカー。リップ作成中の写真です。奥側はテーブル長5mリップ1.5m、手前はテーブル長1mリップ高50cmです。※どちらも利用時には誓約書が必要です。誓約書はチケット売り場にてご用意しております。(以上ピラタス蓼科スノーリゾートからのお知らせでした)


本来 Web はテキストベースのコミュニケーションツールなんだ、って! orz

さて、ブログをメインにする以前、つまり2006年12月20日以前、この「日記」はある意味「純粋な日記」だった。あくまでも文章がメインであり、写真はめったに使わなかった。情景を描くにも文章を用いてそれを行おうと努力し、安易に写真を掲載してすませることを潔しとしなかった。まあ、そのようなポリシーだったわけです。

だからこそ、じつに様々なことについて気軽に書くことが出来たし、同時にまた様々なスタイルで綴ることもできた。それだけ自由度が高かったと言うことも出来るし、そのぶんいわゆる Web 2.0 からは遠い存在だったとも言える。それにしても、本来 Web はテキストベースのネットワークだったのだから、ぼくにとっては当然のことだったのだけれど。

しかし、時代は変わった。劇的に変わってしまった。ぼくが1人でいくらテキストベースのHTMLサイトがベストなのだとさけんだところで、そんな声は風の中に消えてしまう。だから11月から継続的にホームページの大改訂を実施したわけだし、予約システムも全自動即決予約システムにアップグレードした。そして、12月には「蓼科高原日記」をブログ化(HTML版も並行継続)したわけです。

決して嫌々やったわけではなく、やってみれば新しいウェブ制作システムやデータベースによる予約システムの構築は刺激的だった。そのように新しいことを集中的に学ぶことはたいへん楽しい経験でもあった。

いずれにしても、すべてはお客様に快適にブラウズしてご予約いただきたいという想いからでたものです。「わかりやすい」「リアルタイムで空室情報がわかる」「簡単な操作で、即決で予約確認できる」ということを目指しました。そして現在も日々改善を図っています。

さて、結果はいかがでしょうか。是非ご意見をお聞かせいただければさいわいです。


※今日掲載した2枚の写真はともに(株)ピラタス蓼科ロープウエイ の許諾を得て転載しています。

2007年01月23日

3629 グータラノススメ

晴れ 気温:最低 - 11℃/最高 - 4℃

今日は一日グータラしていました。年に何度かは良いかなと思って。うちの愛犬パル(シベリアンハスキー、雄12歳)も一見いつもグータラしていますが、じつは本当にグータラしています。(笑) でも感心するのは、やるときはやるという野生の部分です。他の野生動物が近づいたときや、それを獲物と認識したときの彼の変身ぶりにはいつも感動してしまいます。その繊細かつ大胆なハンターぶりはじつに美しいものです。

しかし、ぼくにはどうやらそれはないようです。ただグータラしています。粗大ゴミなんて言われかねないただのオヤヂですか・・・。(^_^;)

仕事というか「やるべきことリスト」「やんなきゃきけないことリスト」をぜ〜んぶほっぽらかして、音楽を聴くでもなく本を読むでもなくボーッと一日を過ごしました。まあ、ペンションですから、広いっていえばめちゃ広いので、奥さんに「じゃまだからそこどいてよ、ほらほら」なんて言われなくてすむのはさいわいかも。

外も静かだし、パルは庭の雪の上でひなたぼっこして寝ているし、奥さんにも今日はグータラしようよなんてことを言って「お誘い」したり。今日もピラタスの森はとても静かです。太陽がぐりぐりと天空を巡る音が聞こえそうなくらい静かです。しかし、あらためて耳を澄ませばシジュウカラやウソの声が聞こえます、そしてそっと吹き抜ける風の音。夕刻にはキューンという鹿の声やキツネやタヌキやリスの動き回る気配。

どうやら野生の生き物にはグータラした一日って言うのはないようで、いや本当はあるのかな、まあいずれにしてもぼくらから見るとしばしも休まず「いまを生きて」います。野生にあっては生きることそのものが目的です。どうしてこの世界が存在するのかとか、なぜ生きるのかとか、生きる目的とか、そんなこときっと考えていない。そして生きることそのものが幸福であるかのように見えるのです。

動物だけではなく、植物だってここでは厳しい生存競争にさらされています。水や養分はもちろん必須ですが、ここで生き残るためには日照こそが要(かなめ)なのです。成育する過程で自分の上をもっと大きな植物の葉が覆ってしまうと、もうそれ以上大きくなれないか最悪の場合枯れるしかないかも知れない。文字通り必死に「上を目指す」ほか無いわけです、光を求めて。

身をよじるようにして他の樹木と枝を絡み合わせ、光を求めて真横に10メートルも枝を伸ばす姿を見ると、ほんとうに植物も生存競争に勝ち抜くしか生きる道はないのだと知ります。かつてイノセントに「自然は美しい」と感じて最終的ににここに移り住んだぼくらですが、今ではここに同化してそのような生存競争の目撃者・観察者となっています。

勝ち組だの負け組だのというこの「格差社会」の始まりには大いに異を唱えるものですが、こうしてみると生存競争というのはわれわれ人間も含めて運命的に科されたものなのかもしれません。ああ、いまぼくは穏やかな絶望の中にいる、決して失望ではなく。

2007年01月30日

3636 ホームページは広告宣伝なのか

晴れ 気温:最低 - 10℃/最高 - 2℃

10年かけてふりだしにもどった

昨年の10月頃からずうっと自分の、というかペンション・サンセットのホームページのリニューアルにかかりきりだったような気がする。このウェブサイト(データ容量が200MBを越えたいま、そう呼ぶ方がふさわしいだろう)を開設したのが1996年7月1日だから去年の7月時点で満10年を迎えていたわけだ。

さすがに周囲のペンションや旅館の「ホームページ」と比較しても「古くささ」が目立ってきているように、少なくとも「ぼくには」感じられたのだ。その1年前に、ウェブや最新の書籍で学んで W3C の標準規格で主要な部分を再構築したのだけれど、それだけでは不十分だった。

ぼくがHTMLを書き始めた頃、標準規格は HTML 3.0 がようやく策定されたところだったように記憶している。だいぶ前からそれが HTML 4.01 Transitional ないし HTML 4.01 Strict となっていた。古いブラウザーを使っているひとのことも考えて HTML 4.01 Transitional を採用した。同時に CSS(カスケーディング・スタイルシート)も本格的に導入して、構造記述と修飾記述とを可能な限り分けて書くようにした。

次の段階はブログなどで標準となっている XHTML への対応だ。ものすごく優れたホームページ作成ソフトが出そろって、初心者でもHTMLの知識がまったくなくても素敵な見栄えの良いホームページを作成することが出来るような時代になったのに、ぼくは反対にいまHTMLやCSSやJavaScriptを手打ちで入力している。なんだか10年かけてお里帰りしたような奇妙な感慨を感じている。


ホームページは広告宣伝なのか

ホームページは広告宣伝なのか、と問われれば、「イエス」であり「ノー」でもある。古い用語を使うならば、ホームページによる情報発信は「PR(パブリック・リレーションズ)」であるというのが妥当なのだろう。しかし、じつに微妙なポジションに現在は置かれているように思う。すくなくともWWWは原初より「情報伝達メディア」であったことだけは断言できるのだけれど。

そのことがぼくを迷わせる。その結果、日々、ある時は劇的に、またあるときには細やかにペンション・サンセットの「ホームページ」のコンセプトやポジショニングや語り口やデザインやサイト構成を変化させ続けている。良くないこととはわかっているけれど、試行錯誤とはこのような結果をもたらすのもなのだ。

「広告宣伝」と「情報発信」という似て非なるふたつの位置づけの間を行ったり来たりしているのかも知れない。すくなくともウェブ以外のメディアにおいては、一応、「広告」には広告の作法があり、「情報」には情報の作法が確立されている。しかしウェブにおいてはなんでもありなのだ。

そのことがぼくを迷わせる。頭がかたくなってしまったのかも知れない、そんなことで右往左往するなんて。ただ現象面で見るならば、今年あたりから宿泊業にかんしてはプロに依頼して構築された「プロフェッショナルな広告宣伝にフォーカスしたもの」がメインストリームになってきている。

個人的には、ペンションのホームページは可能な限り「オーナーの手作り」であるべきではないかとも思うのだけれど、そんなのどかな時代は終焉を迎えたのかも知れない。ぼくはあいかわらずトレンディーじゃないのだ、たぶん。あいかわらず「パーソナルなコミュニケーション」を求め続けているのだから。


宿は苦行?

世の中は好景気だそうなのに宿はますますデフレ状態、安売り競争の総力戦になっている。構造不況は当分終わりそうもない。「しゅくはくぎょう」を変換したら「宿は苦行」と出た。まさに言い得て妙ではある。じつに「宿は苦行」となりつつあるのかもしれない。

2007年01月31日

3637 ホームページは「広告」でもあり...

雪のち晴れ 気温:最低 - 6℃/最高 0℃

夜間パウダーが降り、朝からは快晴、2月の気候に

午前0時過ぎから雪が降り出していたが、朝になるとすっきりと晴れ渡り真っ青な空から明るい陽光が2月の到来を予告していた。積雪は数センチだが、さらさらのパウダースノーだ。陽射しは急激に強まり、いつのまにか「厳冬期」を過ぎていたことを知る。

午後3時頃、所用で車に乗ろうとしたら昨日は10センチ以上積もっていた屋根やボンネットの雪がすっかり消えて無くなっていた。気温が氷点下でも雪は溶け、蒸発してしまうのだ。ここに移住して間もない頃、氷点下6℃以下でも家の屋根の雪が溶けて流れる様子を見てびっくりしたことを思い出す。

そのようにして、たとえ厳冬期でも氷点下の春でも屋根の雪が溶けてつららを形成するのだ。鏃(やじり)の先よりも鋭利なつららの先端はサスペンスドラマのトリックさながらにじつに凶器となりうるものだ。

今年のピラタスの丘、のみならず、隣接するピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデも、積雪量にも雪質にも恵まれている。積雪量は100センチから130センチ、雪質は完璧なパウダーでしかも掘っても掘ってもずうっと下までパウダーというコンディションだ。それがどれほど快適なものか、経験者にはよくわかると思う。


ピラタス蓼科共通リフト1日券・2食付で10000円!

さて、昨日はたいそうなタイトルでちょっと書いてしまったけれど、その流れもあって、今日再び迷いが出てしまった。が、意を決して、少なくとも「現在」の状況としてはホームページは「広告」なのだという結論を出した。

だからトップページはいささかアクの強い「広告」ページにした。「ピラタス蓼科共通リフト1日券・2食付で10000円!」という目玉スキーパックの宣伝だ。情報発信として考えた場合でも、ぼくの側からいまもっとも伝えたいことはこのことだから、これはこれで良いのではないかと考えた。


予約方法を3通りに変更

12月から「全自動24時間即時予約システム(暗号化通信)」だけになっていた予約方法に加えて、メールシステムを利用した従来の「ご予約フォーム(暗号化通信)」からもご予約いただけるようにした。さらに、「電話予約」も積極的に承る体制にしたので、ご都合に合わせて使い分けていただければ幸いです。詳しい説明はこちらにありますのでご覧下さい。

2007年02月02日

3639 個人的な想い

晴れ 気温:最低 - 15℃/最高 - 7℃

ピラタス蓼科スノーリゾートは今週末がベストかも

今日の午後4時頃のピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデの写真です。スタッフの方の撮影です。積雪は120cm以上でロープウエイ利用のヒョウタンコースもカモシカコースもすべてのコースが滑走可能、パウダーゾーンもたくさんあります。雪質は完璧なパウダーで最高です。雪質に関しては今週末が今シーズンではベストのコンディションになりそうです。これからどんどん暖かくなってきますから。

しかし今日に限っていうなら、最低気温が氷点下15℃とこの冬一番の冷え込みになりました。最高気温も氷点下7℃と上がらず、暖房を入れないと館内も氷点下になるほどでした。それでも、年々暖かくなってきていることを実感します。たぶんこの冬も氷点下20℃まで冷えることはないでしょう。

まちがいなく暖冬化は世界規模で進行しています。


ホームページを個人的に運営する意味

それはそうと、このサイトは「ペンション・サンセットのホームページ」であると同時に「オーナーである僕の個人的なサイト」でもあるというところが、他のペンションのホームページと決定的に違うところなのかも知れない。先日のエントリーで「ホームページは広告だ」ということは「イエス」であり同時に「ノー」であるとしか言えなかったのはそのような事情による。

また最近の他のペンションのようにホームページをプロに制作運営委託するということができないのも同じ理由による。というか、単純に僕がそう決めてしまえばいいだけの話なのだけれど、そうなるとこれまで10年以上がんばってやってきたことはいったいなんだったのか、という問いに僕自身が答えなければならない。

僕にとってホームページ(ないしはウェブサイト)の評価は、単純に「どれだけ集客に結びついたか」という指標だけでなく、「どれだけお客様と心が通ったか」ということがとてもとても重要なのだ。じつに青臭い考えだとは思う、それでもこの想いをつないでいきたいと想っている。

そうだ、そうなのだ、これは「個人的な想い」の問題に過ぎない。経営者として判断するならば、こんな大変なことからは早々に手を引いてプロにまかせてしまうほうが、集客の面からもずっと効果的で効率的だと想う。

昨年12月に特に個人的なコンテンツである「蓼科高原日記」をブログ化してホームページ本体と分離したのはそれなりの解決策の方向性だった。ホームページはペンションの集客により最適化していく、ブログは個人的なコンテンツとして(ただし、ペンション・オーナーとしての立場を忘れずに)並立していく。

このかたちはペンションの成り立ちとよく似ていると思う。ペンションは単なるハードウエアとしての宿泊施設ではなく、経営者たるオーナー夫妻ないしはオーナー個人の個性や雰囲気と密接に結びついて初めて成立する宿なのだ。

だから僕はなにがあっても日記を書き続けている。10年余、一日も休まずに。


※今日の1枚目の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。

2007年02月06日

3643 沈黙は聞くことが出来る

晴れ 気温:最低 - 6℃/最高 3℃


雪道荒れる 強烈な陽光

これが今日のキーワードだ。このようなメモから今日の日記を書き起こしていく。まず写真をアップロードして、写真にインスパイアされて書き綴る場合ももちろんある。どちらがどれくらいの比率になるのか定かではないけれど。

今日は前者のケースに当たる。さて、今日は昨日と同じ最低気温、最高気温になった。天気は晴天で、いよいよ陽射しが強烈になってきた。その熱量は半端ではなくて、氷点下の気温でも輻射熱の出やすい面の積雪はどんどん溶け始めた。

屋根からの落雪は昨日同様激しく、ほとんど落ちてしまった。道路は積雪の少ないところはほぼ乾燥路面になり、積雪の厚い部分はもこもこの悪路になった。それを見計らって除雪車が雪を道路から押し出してくれたので、その後はかなり状況が良くなった。

予報では金曜日夜あたりに雪が降りそうとのことだから、週末には道路は再び冬らしい積雪路になると思われる。くれぐれもまだ2月上旬なのだということを忘れずに、タイヤチェーンなどの準備おこたりなきよう。


沈黙は聞くことが出来る 責任は夢の中から始まる

それはさておき、我が敬愛する作家、村上春樹の「海辺のカフカ」を読み返している。もう何度目になるのだろうか。深夜、作中に登場して読者の間で話題になった100万ドルトリオによるベートーベンの「大公トリオ」を聴きながら読む。この難解とも言える作品を読み解くことが自然に出来るようになった気分になる。

ここが里ならば、「なにもかもが寝静まった深夜」と書くところだけれど、ここは標高1800mにせまる亜高山帯なのだ。自然は決して眠らない、都会が眠らないというのとまったく異なった意味において。

野生動物はそのほとんどが夜行性なのだ。だから我が家の夜警担当のシベリアンハスキーのパル君も、時代劇で武士が刀を肩に立てかけて壁にもたれて仮眠するような感じで、夜間は半分起きているのだ。そして、我々が起床したのを確認してから爆睡する。

ここは静かなところだ。その印象と実感は13年暮らしたいまでも変わらない。日中でも耳の奥からきーんという音が聞こえてくる。深夜ならなおさらだ。「海辺のカフカ」でも山奥の小屋で主人公の少年が聞く「沈黙」はこのようなものだったのだろう。第15章の終わりに彼は語る。

「沈黙は耳に聞こえるものなんだ。ぼくはそのことを知る。」

それはここではあたりまえのこととして体験される、最初は新鮮な発見として、その後は感動的な日常として。そんな環境の中で日々を送り想いを巡らしているとイェーツの言葉もまた自然に心を打つようになる。体質が変わるのと同じように、こころも変わるのだ。

「夢の中から責任は始まる。(In dreams begin the responsibilities.)」

想像力のないところに責任は存在し得ない。想像力がなければ、その人間にはなぜそれが罪なのか永遠にわからない。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」

そのような種類の殺人者は「夢」を見ることはないのだろう、たぶん。想像力のないところに夢はなく、責任も始まることはない。

2007年02月15日

3652 同時代史を語ってなにが悪い

曇りのち雪 気温:最低 - 8℃/最高 -5℃

そいういえば、いまやぼくにはまったく縁がなくなってしまったけれど、昨日はバレンタインデーだった。チョコレートは好きだけれど、僕らの世代は幸か不幸か、学生時代にバレンタインデーなんてイベントはまだメジャーではなく、その悲喜こもごもな雰囲気を知らない。最近ではクルマやメカ好きの彼のためにこんなチョコレート(写真)があるそうで、こういうのだったらいまでも欲しいかも。

期間限定でここ(http://www.rakuten.co.jp/frantz/)で売っていました。

それはさておき、10年間に閏年(うるうどし)は2回あった計算なので今日がまさに閏日を算入した10年目ということになる。じつに、10年一昔ではあるわけで、それ以上前のことをいうとまるで紀元前の歴史を語っているかのように妻に言われるのが不本意な昨今ではあります。まだそんなこといわれる歳じゃないって、ほんとに。

だったら、ビートルズだってジョン・レノンだってストーンズだってクリームだってスティングだってクイーンだって 古代史じゃないか。その時代をコンテンポラリーに体験した世代がそのことを語ってなにが悪い、なんてね、思わず切れそうになっちまうのね。

ガンダム世代の男性たちが熱くガンダムを語るのと同じこと。女性はそういうところに優しさがないというか、デリカシーが無い。何でもかんでもデリカシーがないのは男性の方みたいな言い方を(女性から)されるのだけれど、女性もおなじくらい自分が思っているほど男性がわかっていないということにそろそろ気がついてもいい。お互い「何にもわかっていない」のは同様なのだ、じつのところ。

そして女性の地位向上と、選挙における感覚的浮動票としての影響力の大きさ、そして大量消費社会における消費の主導権を女性が握っている現状とが密接にリンクしている冷徹な政治および企業戦略にしっかりと目を光らせておいたほうがいい。本物のフェミニストなんてそうそういるものではないということは、すでにご承知の通りなのだから、女性もゆめゆめ油断召されるな。がんばれ!

そしてもし少しでも余裕があったなら社会に虐げられし声なき多くの男性の苦悩にも心優しい目を向けてくれるとうれしいのだけれど。

それはそうと、今日はぐっと冷え込んですさまじい強風に見舞われ、終日氷点下の荒れた天候となりました。道路という道路、小径という小径は筋金入りのアイスバーン、氷の王国に変貌しました。その強風に舞う白いもの・・・午後遅くから雪が降り始めました。いまもずうっと降り積もっています。これはよい兆候です。

2007年02月21日

3658 ペンションという宿の変化

晴れ 気温:最低 - 7℃/最高 - 1℃

ぼくは疲れている、とっても。というか、徒労感に襲われている。こんな格差社会になっちゃったから、みんなもそうかもしれないけれど。(^_^;)

これは宿泊業および旅行業界全体の構造的問題でもあるのだけれど、ペンション業界も安売り第一の消耗戦という、仁義なき戦いの時代になってしまったからだ。見識を持って独自の道を歩み、それを評価してくださるお客様によって成立する時代は終わってしまったようなのだ。

どうせペンションなんて社会的敗者とか変わり者がやっている「安宿」ぐらいにしか思われていないのかも知れない。その認識はイエスでもありノーでもある。

それは個別のペンションの問題だからだ。しかしはっきり言っておきたいのは、社会的成功を収めた後の人生としてペンションを始めた人もたくさんいるけれど、ぼくみたいに社会的敗者となった経験があるからこそ出来る心遣いだってあるし、変わり者(?)だからこそステレオタイプではない独自の道を歩んで安らぎや新鮮な出会いやおもしろさを体験できるペンションだってあるのだということだ。

じっさい、ペンションオーナー夫妻の最終学歴は平均よりずいぶんと高いし、その子供たちの学歴も相応に高いのだ(偏差値60〜75)。職歴も一部上場以上のそれなりの大企業、特に金融やマスコミ出身者が多い。まあ、いっぽうで若いときから独立独歩でやってきたつわもの(=ひとかどの人物)も多い。ちなみにぼくは(株)電通の本社で約20年間切磋琢磨した。妻はANAのキャビンアテンダントだった。結局ぼくの方は燃え尽きてドロップアウトしちゃったけれど。(^_^;)

それ以上に、場合によってはゆうに1億円を超える開業資金をきちんと調達したことは特筆に値すると考えている。ペンションは少なくとも、1990年代に開業したぼくのような場合は、それだけの資本投下がなされているのだ。本当の意味での社会的敗者に始められるビジネスではない。

それはさておき、グローバルスタンダードを標榜する社会というのはローカリズムを否定する社会だ。金太郎飴みたいに切っても切っても同じ顔が出てくるような資本原理主義社会だ。米国発のこの「格差社会を基本とする不幸のシステム」を我が国は「輸入」すべきではなかった。

そのことは米国のノーベル賞受賞経済学者スティグリッツの著書にあるとおりだ。読めばわかるけれど、グローバルスタンダードを導入している(あるいは賛同している)国は世界中を見渡してもほんの数国に過ぎないという事実。我々は騙されているのだ。

ことかようにペンションもどこも同じようなサービス、同じような設備、同じような料理、そして同じような安売り価格へと落ち込んでいかざるを得ない現実としての流れがある。そうしないと低価格戦略に転じたホテルや大型旅館に対抗できないのだ。大型小売店の進出によって滅びてゆく地元個人商店街を見るような思いだ。

しかしそのような流れに逆らって、必死に知恵を絞り骨身を削って新しい概念、ポジショニングそしてサービスを創出しようというペンション経営者が集まっているのがペンション・サンセットのあるピラタスの丘ペンション村だと、個人的には思っている。寡聞にして他のペンション村のことは知らないけれど、同様にがんばっている経営者はたくさんいると思う。

一般論を言うなら、もうペンションなんていう概念自体が必要とされなくなったのだ、と個人的には感じている。まあ、ぼくは個人としてこの「ペンション」という「呼称」および「概念」には違和感を覚えているので、いつかそれを覆した概念を確立したいと思って日々無い知恵を絞っている・・・のですが。はてさて。

2007年02月25日

3662 報道はいつもワンサイド

晴れ 気温:最低 - 12℃/最高 - 4℃

信州には雪がたっぷりあるのだ!

右の写真の通り、雪はたっぷりある。標高が高いことと全県が山岳地という長野県ならではの地形の恩恵で、「ご覧の通り雪はたっぷりあります!ブッシュや岩の露出もゲレンデ内にはありませんっ!これも標高が高いおかげですね♪(2/26のピラタス蓼科スノーリゾートHPのコメント)」というのが本当のところなのだ。

ということを確認した上で、全国の(特にキー局)に、「信州を代表して」というとおこがましいので、個人的に抗議したい。

★★★

報道はいつもワンサイドというのはいまさらいうまでもないけど、それにしてもこの「暖冬キャンペーン」はいったい誰の差し金なのだろう。「東北ではもうスキー場が雪が無くてクローズが相次ぎ、平年より1ヶ月以上も早くゴルフ場がオープンした」というニュース。それだけで終わり。

日本全国、もうスキー場は雪が無くてクローズです、平年より1ヶ月以上も早くゴルフ場がオープンしています。

さらっと見ると、そんなふうに聞こえてしまう、このぼくでさえそうなのだ。いわんや一般の視聴者は言わずもがなだ。ああ、もうスキーシーズンは終わりかあ、と思うに違いない。重要な後ろ半分が欠落しているのだ。

信州ではたっぷりの積雪でスキーシーズンたけなわです、「春スキー」はまだ先です。

という「事実」が隠蔽されている。あるいは「意図的に報道されない」というこの状況はいったい何なのだろう。それも天下の「公共放送」であるNHKが、それをやっている。どこに報道の公平性があるのだろうか。これは「全国放送」なのだ。

一般庶民を裁判に引っ張り出してまでその出自にいまや大いなる疑義のある「視聴料」を取り立てようとしている、「あの」NHKがそのようなキャンペーンを張っているのは許せない。こんなことをやっているようでは「放送の押し売り」を生業としている「公共放送」の存在理由なんて無いじゃん。

ことかように文字通り、報道は「話半分」でしかない現実を改めて思い知らされる。あらゆるビジネス同様、報道も「結果がすべて」なのだ。そこに至るまでのプロセスは一切評価されない。最近どうもそのあたりを勘違いしている報道機関や報道関係者が多いように感じるのはぼくだけなのだろうか。

その点については、志とは関係なく、結果として、民放も「公共放送」も「自称ジャーナリスト」も変わるところがない。

※今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。

2007年03月03日

3668 あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ

晴れ 気温:最低 - 3℃/最高 5℃

ペンション・サンセットはいったいどこに向かっているのだろう。僕がこんなことを言っていてはいけないのだけれど、激動の時代にあってときにはすっかり迷ってしまうことがある。自分はいったいどこに向かおうとしているのだろう、その方向は時代性にマッチした方向なのだろうか。

「時代性」がキーワードになって久しいけれど、いまやそれは「消費者心理」あるいは「世論」と言い換えてもいいだろう。古き良き時代には、自身の信じる道を真摯(しんし)に歩んでいれば、そしてそれを正しく伝えることができればビジネスは高い確率で成功したように思う。

しかしいまはまったく事情が異なっている。

「それだけ」ではダメなのだ、そして「そうでなくても」成功できるのだ。いまや「自身の信じる道を真摯に歩む」ことはビジネス上の障害になりこそすれ、そんなものは捨て去るべき「つまらないプライド」として語られるようになってしまった観がある。

自分の仕事に「個人的」な、あるいは「ひとりの人間として」の、プライドなんて持っていたらビジネスは成立しないのだ。ビジネスにはビジネスの倫理とプライドがあるのだ。それは人間性とはまったくかかわりないところで動いていく。その意味においてビジネスマンは、あるいは商人(あきんど)は、「公人」であって「個人」ではないのだ、またそうであってはならない。


過ぎ去ってみれば古き良き時代はもう戻っては来ないだろう。それにしても、ビートルズの歌声を聴いているだけで、この世界はまだ人類が未来に夢を抱くことができた時代のように感じさせてくれる。眼前には展望が開けあらゆる可能性がその扉を大きく開いて待ち受けているように見える。そんな時代に自分がまだいるような気分にさせてくれる。

「純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ。」=物質と記憶(アンリ・ベルグソン)

もうあともどりすることはあり得ない、われわれは観念としてすら「あの楽園」に戻ることはできない。それはもうすでに終わってしまったことなのだ。


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2007年03月05日

3670 概念としてのペンション村なのだ

雨 気温:最低 0℃/最高 3℃

ピラタスの丘ペンション村というのは全体がペンション村として造成されたものではない。そこがディベロッパーが最初から「ペンション村用地」として開発したペンション・ヴィレッジと決定的に異なるところだ。正式に表現するならば、ここは「ピラタスの丘」という名の「別荘地」である。

バブル景気に向かう景況の中で、1600m〜1800mの亜高山帯に展開するこの別荘地は開発されたと聞いている。いまから30年前になろうかという昔の話しだ。そこに別荘に混じって思い思いにペンションが建ち始め、やがて様々な実際的な理由から「ピラタスの丘ペンション村」が形成された。

つまりこのペンション村は「概念的」なものなのだ。事実としては広大な別荘地の中に30軒ほどのペンションが営業しているということになる。それぞれの想いを抱いて、あるいは突き動かされてこの地にやってきたオーナーばかりだから、同じようなペンションは1軒も無い。それが最大の特徴かも知れない。

そしてオーナーたちは(配偶者も含めて)みんなピラタスの丘を愛している。この地の豊かな自然を愛している。空を愛し、雲を愛(め)で、山を愛し森を愛している。雪を愛し、新緑を愛し、花を愛し、野鳥や野生の動物たちを愛している。夏の太陽を愛し、秋の紅葉を愛(め)で、再び巡り来る厳寒の冬を愛す。

そりゃ〜人間だから、仲の良いひとそうでもないひとはお互いにあるかも知れない。みんなそれぞれに個性的だから、もちろん良い意味で。だからべったりと仲良しというのはないかもしれないけれど、想いは一緒だから最終的には力を合わせてこの地での暮らしをエンジョイできるようにがんばっている。

個人的には、だからこそ、ピラタスの丘はとても素敵な場所なのだと思っている。これまでの人生でこれほど素晴らしい場所はなかった、少なくとも「観念的」には。


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2007年03月07日

3672 And I Love Her

晴れ 気温:最低 - 11℃/最高 - 2℃

ここでは時間は問題ではない。関係性もまたさしたる問題ではない。ここでは生きているということは意識がある(覚醒している)ということと同義なのだ。必要なのは生きていくという意欲、そしてそれを支える資本。貨幣経済社会においては生きるということは貨幣無しでは考えられない。生きるのには水と食料とそしてお金がかかるのだ。

今朝は一転してずいぶん冷え込んだ。最低気温は氷点下11℃、3月としては寒いのかも知れない。おかげでゲレンデの雪づくりはとてもはかどったようで、極上のパウダースノーが生成された。ピラタスの丘では3月というのは冬と春の中間点のようでもあり、真冬と冬の終わりの過渡期のようでもあり、とても変化の激しい季節だ。

今朝、氷点下10℃の雪の中でシベリアンハスキーの愛犬パルと遊んでいるとき、風の音の中に野鳥の声を聞いた。冬の鳴き声とは異なって、ピーピー、ヒューヒューという口笛のような地鳴きに変わっている。もうすぐ番(つがい)の季節が始まるのだ。渡り鳥が飛来し、にわかに森が騒がしくなる。といってもそれは美しい野鳥の歌声で満たされる至福の季節であるわけだけれど。

午後になって強い風が吹きすさぶようになった。おかげで空には雲ひとつ無くなった。たまに雲がやってきても(おそらく)時速数百キロで吹き飛ばされていく。真っ青な空は、深く澄み渡り距離がまったくつかめないほどだ。風のせいで氷点下2℃でも体感気温は氷点下20℃ほどに感じる。モーレツに寒い。

ついでに、こころも懐(ふところ)も寒い。

"The World without Love"(ピーターとゴードン)、懐かしい。夫はこの年齢になると妻にとってはもう用済みなのだ、たぶん。男なんて女が子供を産んで育てるための道具に過ぎない、男なんて便宜的(べんぎてき)存在にすぎない。男なんてたとえば「白物家電」みたいな耐久消費財に過ぎないのだ。だから歳をとると「粗大ゴミ」扱いされることになってもそれは自然なことなのだ。

もし言い過ぎだというならこう言い直そう、女にとって男は子を産み育てるあるいはエピュキュリアン的欲望を満たすための「装置」にすぎない。しかしながら、女性にとって心地よい世界を構築するのが男性の本質的喜びである。捉えようによっては男性は哀しい性(さが)だ。

それを知ってなお女性を愛さずにはいられないということが男性のDNAに組み込まれた地獄である。愛する女性の笑顔を見たいがために男は必死で努力するのだ。

念のために言っておくけれど、ぼくはアンチ・フェミニズム論者ではない。

And I Love Her.


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2007年03月15日

3680 1年で最も長い1日が終わった

曇り 気温:最低 - 15℃/最高 0℃

今朝もぐぐっと冷え込んで、もう何日まるで厳冬期のような寒気にさらされているのだろう。3月と2月が入れ替わってしまったような気候になっている。そんなこととは関係なく、ここ数日ほとんど寝ないで愛用のMacに帳簿の数字を打ち込んできた。

いまは会計ソフトがとても良くできているので、むかしほど大変ではなくなってきたけれど、大変なのは何かの加減で数字がおかしくなってしまった時だ。たとえば現金残高がなんとマイナスになってしまうなんてことが帳簿上で起きる。

そんなことはありえないので、どこかで数字の入力や仕分けを誤っているわけだけれど、それを見つけ出すのが大変なのだ。年中大量にこの作業を行っているなら何でもないことなのだろうけれど、なにしろ(多くの個人事業主がそうであるように)この1ヶ月ほどの間に集中してやって、次の1年の間にコツというようなものをすっかり忘れてしまうのだ。

まあ、そんなこんなで、何とか締切り時間の5時には諏訪税務署に青色申告を提出し受理された。1年で最も長い1日が終わった。めでたし、めでたし。(^_^;)

それにしても(まあ1年で最も忙しい1日だから同情する余地はあるけれど)お役人というのはどうしてこうエラソなのだろう。威張っているというのではないのだけれど、少なくともにこやかではないし、ぼくみたいに50kmもはなれた標高差1000mを下ってきた市民に、ご苦労様のひと言もないというのはどうしたことだろう。彼らには公務員という言葉の意味と、公務員の立場というものが理解できていないのではないだろうか。

べつにふつうでいいのですよ、とくべつにこにこしなくたって、丁寧な応対でなくったっていいのですよね。そこまでは期待してない。ただ、自分たちが国民に奉仕する立場の人間であり、そような仕事に携わっており、つまりは「パブリックサーバント」であるという認識を新たにして欲しいのだ。

昨年のご用納めの日の終業間近に税務署に行く用事があったのだけれど、すっかりき気がゆるんでいたのか、取りやすいところ(立場の弱い者)からいかに税金をぶったくるかという「ニュアンス」のことを笑い話にしているところを目撃してしまった。

上からああしろこうしろとこづき回される現場の人間としての「本音」が思わずでちゃったのだと思うけれど、まあ気持ちはわからないでもないけど、がっかりしましたね、はっきりいって。いまや誰もが動画録画できるデジカメや、IC録音機能つきの携帯端末を持ち歩いているご時世だから、くれぐれもお気をつけあれ。

消費税みたいに取りやすいところから取るのではなく、納めるべきところにしっかりと納めさせる、納税能力のあるところにしっかり課税するというのが正しい税務というものではないのだろうか。生きるために必要な食品にまで一律課税している現在の消費税は、世界に冠たる天下の悪法だと僕は思っている。これこそ現代日本をむしばんでいる「悪平等主義」の「誤った公平性実現」の良い例だ。これじゃあまるで「生存税」ではないか。


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2007年03月17日

3682 ユーザーはウェブを流し読みする

晴れ後曇り 気温:最低 - 11℃/最高 - 1℃

ヤコブ・ニールセンのAlertbox -そのデザイン、間違ってます-」によると、「ユーザーはウェブを読んでいない」ようですね。要するに、「ユーザはウェブを流し読みする傾向がある」とのこと。

以前はそんなことはなかったのだけれど、僕自身も最近はウェブを流し読みする傾向があることに気づく。それはその文章がきちんと書かれているかどうかとか、優れた表現や内容であるとか、そうでないとかはまったく関係ないのだ。

ひとのことは言えない。このブログや僕のHPもアクセスログを見る限り、多くのひとに流し読みされており、じっくり読んでくれていいるひとは少数派のようだ。なんでだよ、ってちょっと腹を立てたり、自己批判してみたりしていたのだけれど、なんのことはない、自分自身同じことをしていたわけだ。

みんな忙しいのだ、と想っていたのだけれど、そうでもないようね。これは時代の傾向というものなのだろう。僕の場合は目が悪くなってモニタースクリーンで文字を読むことが辛くなってきたという事情があるのだけれど、みんながそうというわけでもないだろうしね。

以前書いたことだけれど、これは情報摂取形態の変化と見るのが妥当なのかも知れない。要するに時代はますます「MS PowerPointプレゼンテーション」が主流になったということかも知れない。

(1)冒頭でテーマと結論を明示する

(2)議論のポイントを3つに絞る

(3)要点を簡潔に(可能な限り3行以内で)述べる

ということなのだ、たぶん。

この「箇条書き」が現代の「読ませる」コミュニケーションのキモかもしれない。そして簡潔な文章。文学的な文章はあかんで、ってことか。そうなると「日記」なんて成立しないじゃんか。それは「日記」ではなくて「日誌」だよ。

四の五の言っててもしょうがないので、適応ないしは対応しなけりゃいかんのだろうなあ。ああ、味気ない。僕はオフィスで議論したり説得したり稟議を通したりしたいわけではないのだ。


じゃらんnetの横暴なリニューアル

一般のひとには関係ないし、見えない部分の話だけれど、最近ウェブ宿泊予約サイト大手の「じゃらんnet」の宿側の管理画面が全面リニューアルされた。要するに管理運営システムをバージョンアップないしは入れ替えたというわけだけれど、そのやりかたが僕らにしてみれば「横暴」だった。何様じゃい、っての。

いきなり Mac OS X からはログインできなくなったのだ。事前に確認してそのようなことはないという言質を取ってあったので、追求すると将来的にも対応する予定もつもりもない、Windows 2000 以降を推奨するの一点張りだ。

古いバージョンの Windows ユーザーだってログインできなくなっちゃったわけだから、こういう予告無しの切捨御免のやりかたは「まともな会社のやることではない」と思う。リクルートって言う会社はもともとそういう体質だからべつに本気でやり合うつもりも暇もないけど、これは契約条項に定められた期限予告がいっさいない一方的な契約解除にあたる、契約違反ではないのかな。

少なくとも「今後 Macintosh からはログインできない、接続できないシステム仕様に変わるのだ」と言うことを周知徹底すべきだったのに、「推奨環境は Windows 2000 以降となります」とお茶を濁す告知しかしなかった。これは明らかに確信犯だ。僕の電話での詳細の問い合わせに対しても、「今後 Macintosh からはログインできない」という告知はなかった。僕はそのことを問題だ、と指摘しているわけだ。

ということで、ペンション・サンセットは「じゃらんnet」からは予約できなくなりました。このような「相互信頼関係を構築できない会社」とはお付き合いできないしね。いくらがんばっても予約システム運営費用が黒字にならないという話を聞いていたから、少数派ユーザーを切り捨てるというある種のリストラを敢行したといえなくもない。まあ、がんばって下さい、僕らは僕らでがんばるしかない。

予算と売上実績が折り合うならば僕だって Windows 導入にやぶさかではない。それなりのメリットもあるしね。しかし、そこまでの売り上げが立っていないのね、ペイしていないのね「じゃらんnet」の場合。あと数年後には Intel Mac に入れ替えるから、そうしたら Windows も Mac OS X も画面上で切り替えて両方使えるようになるから問題解決なんだけど、今年入れ替えるのは予算的に無理。

というようなわけで、口では怒って見せていても、妙に醒めている(本当は腹を立ててさえいないで、相手を切り捨てている)自分にちょっと驚いた出来事ではありました。


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2007年03月18日

3683  ダイヤモンドダストが降る朝に想う

晴れ 気温:最低 - 14℃/最高 - 3℃

ダイヤモンドダストが降りしきる

ラウンジの気温が氷点下4℃、今朝は異様に寒かった。窓を開けるとさんさんと降り注ぐ陽光にほっとするが、何やらきらきらと光るものが降りしきっている。なんと、ダイヤモンドダストだ。上空にはまったく雲がない晴天だから、間違いない。その美しさにしばし見入る。すっかり身体が冷えてしまった。何せパジャマのままで窓を開けて見ていたのだから。


アクセスが200を切るなんて信じられない

今朝アクセスカウンターを見ると、ここ数年で最低の1日あたりアクセス数となっていた。ちょっとショックかな。あきらかにネット界は変質を見せている。しかし、ダイレクトにURLを打ち込んでアクセスしているひとがトップで26%、次が Yahoo! で25%、そして Google で20%。いつもはダイレクトアクセスは第3位なのだけれど。

リピートしてアクセスしてくれているひとがなんと45%を越えている。これは単独のサイトとしては異様に高い数字だといえる。しかし、新規アクセスが減少しているということでもあって、これは商業的には微妙なところだ。いったい、僕のサイト運営や制作ポリシーが受け入れられているのか支持を失っているのか判断に迷うところだ。

信じる道を歩むことが世に認められにくい世の中になってしまったから、僕らの迷いもより大きなものとなる。


やっぱり耳当たりの良いことだけを語るのが商売の秘訣か

そもそもペンションのHPを支持するもしないもないのかも知れない。でも、宿選びにそのあたりが大きな要素になってきているのが時流だと思う。特にペンションという宿に関しては小さな宿だけにその経営者なり運営者が何をどのように考えどのような信条やポリシーで経営しているのかということは重要なチェックポイントとなるだろう。

Honesty is the best policy.

そんな格言があるが、現代のこの世知辛い世の中にあってそれはいまも真実なのだろうか。少なくとも僕は "Honesty is the best policy." でやってきた。そして、いまそのことに疑問を持ち始めている。いまや「ほんとうのこと」よりも「どのようにみえるか」のほうが大事なのだ。

Honesty never win the game.

口説き文句のような聞いて心地よい言葉だけが受け入れられる。それは現代社会の数少ない真実かも知れない。

そういう時代になってしまったのだ。

僕は口をつぐんで、いっさい語ることをやめるべきかも知れない。語るほどに支持を失っていくような気がするから。何しろ僕はトレンディーじゃないのだ。


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2007年03月22日

3687 だれかさんの望みどおりの社会へ

曇りのち雪 気温:最低 - 11℃/最高 - 6℃

夕方5時頃から小雪が舞い始めた。今日は雪の予報はなかったけれど、本降りになって積雪があるかも知れない。この降り方だと、雪が降っているのは山岳部だけと思われる。早春の静かな森に降る雪は悪くない情景だ。ひっそりとした景色に舞う雪は、たしかに悪くない。これを見るためだけでも、ここにいる価値がある。

この11年間のホームページ運営でなにを持ってしても伝えることの出来ないことがあるということを思い知った。それは百万の言葉でも数千万の写真でも伝えることの出来ないものだ。いまここにあって、はじめて感じることの出来るもの、そういうものやことがあるのだ。

しかし人々はそのようなモノやコトをわかりやすく伝えることを求める。ユビキタスだか情報革命だかなんだか知らないけど、そういうことを伝えることが可能なインフラと技術とが実現された時代になったのだと信じ込んでいる。それは誤った認識であり、いわば都市伝説にも似た経済伝説あるいは粉飾された技術革新宣言にすぎない。

ケータイが我々の本質的ななにかを変えただろうか、イエス、なにかとても大きなものを変えてしまった。インターネットが我々の本質的ななにかを変えただろうか、イエス、なにかを劇的に変化させてしまった。それによってわれわれは幸福になっただろうか。社会は啓発され安全で明るいものになっただろうか。ノー、じつはその正反対のことが起きているように感じるのは間違った認識なのだろうか。

そのような情報革命によって情報過多社会になったために我々の情報処理能力は疲弊して、目は曇り理解力は鈍り、気づかないうちに既得権者がその特権と利益をますます増大させることを保証する社会になってしまった。小泉政権〜安倍政権へとひきつがれたこの流れは変わることなく続いている。時代は逆行している、かつての資本家と労働者という昔懐かしい構図がいまの社会にもすっきりと当てはまるではないか。

これに対してアンチテーゼを示さなければならないのに、それがなされにくいのは、「情報化社会」あるいは「構造改革」という名の空虚なテーゼあるいはプロパガンダが浸透してしまったせいだ。これらのお題目はそれに異を唱えるものを異端者として排斥するためのシステムとして「考案」されたものだったのだ。いまさら気づいても遅いかも知れない。

格差社会を目指すものがこの国を動かすシステムの中枢を占め、異を唱える大多数の領民(国民なんかじゃない、もはや)の声はかき消される。ぼくは旧来よりノンポリティカルな人間だけれど、その僕でさえそんなふうに思わざるを得ない昨今だ。

北朝鮮やイラクやテロリストたちは、そのような画策から自国民の目をそらすための「悪役」を演じさせられているだけなのかも知れない。こちら側の世界から観れば、確かにかれらは間違ったことを行っているのだから、それを改めさせることは必須なのかも知れない。が、そのプロセスを自分の企図に利用している勢力の存在を僕は感じるのだ。

2007年03月23日

3688 春来たる・・・が、まだまだ滑れる

晴れ 気温:最低 - 8℃/最高 6℃

昨日の最低気温、氷点下11℃から氷点下8℃に、最高気温氷点下6℃からプラス6℃へと一気に気温が上昇した。陽射しは温かく日中はまさに早春となった。ピラタスの丘の森の木々もよく観れば枝の輪郭がギザギザとして新緑の芽吹きへの準備に入っている。

落葉松などはもうライトブラウンの針葉をつけている。そうだ、落葉松は(その名の通り)昨秋すっかり針葉を落として枝だけになっていたはずなのだ。しかしふと気づけばしっかりと美しい色合いの針葉を付けているではないか。

常緑針葉樹のもみの木やしらびそなどはその色を緑濃いものへと変化させている。山並みもしだいに山体の色合いを変えてきている。

ピラタスの丘の広葉樹の新緑の季節は5月中旬からだけれど、蓼科湖などの湖沼部の新緑はまさにGWからになる。同時に蓼科湖では400本を越えるソメイヨシノが一斉に咲き誇り、これは写真撮影の被写体としてもおすすめだし、ただ眺めるだけでもこころがうきうきしてくるほど素晴らしい景観だ。

もうすぐ春が来る、そのことを実感させる一日だった。

不思議なのは、その一方でお隣のピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデはいまだ「春スキー」にもなっていないスキーシーズンだということなのだ。あと1週間もすれば「春スキー」の雰囲気とゲレンデ状況になってくるだろうけれど、今週末はまだ2月のハイシーズンなみの雪が満喫できる。今シーズンの締めくくりの滑り納めにおすすめだ。


※今日の写真と図版は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。
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2007年04月06日

3702 かわいい鹿が山河を滅ぼすという

晴れ 気温:最低 - 6℃/最高 7℃

雪が降ったこともあって、今週末のピラタス蓼科スノーリゾートは安心して春スキーを楽しめそうです。今日も冷え込みがきつく気温がさほど高くならなかったことも幸いでした。そうかあ、春スキーの季節でその季節ももう終わろうとしている。

この冬はなんだかあっという間だったような気がする。まあ、公的にも私的にもいろいろあったし、暖冬異変や雪不足でスキー場のオープンが遅れそうになったり。でも、一番大きいのはペンションの営業形態や位置づけそして集客形態が激変したことだと思う。

雑誌主体だった集客が去年あたりから完全にウェブ主体に移行したことを実感した。その結果、不断の情報発信がペンションの営業活動の大きな部分を占めるようになった。ホームページ制作をプロに任せるところが増加して、情報発信部分だけをブラウザベースのシステムで書き換えるというスタイルが増えている。

ペンション・サンセットのようにすべて自力で制作運営しているホームページは少数派になってしまうのだろうか。それが時流というものであり、お客様もそれを指示するのであるならば、そうするのが正しい営業的判断というものだろう。もう少し様子を見てみようと思っている。

でもね、ほんとうのところ、いちばん大切なことは「情報発信能力」よりも「情報受信能力」なのではないかと思うのです。お客様の声に耳を傾けること。それが聞こえにくい世の中になってしまっているのだけれど


ピラタスの丘でも、ここ数年徒党を組んで走り去る野生の鹿をよく見かけるようになった。最近TVでもよく報道されるようになってきたが、野生鹿の増殖は単に「かわいい」ではすまされない。増えすぎた鹿は山の植物を文字通り根こそぎ食い尽くし、木の皮を食って木を枯らし、最終的には山を崩落・崩壊させてしまうことになる。

その結果、森が消滅し、山が荒れ、崩落し、災害が頻発し、なによりも貴重な「水源地」が破壊されて枯れてしまうのだという。専門家は「いま」手を打たなければもう間に合わない、鹿の増殖に追いつくような対策は「いま」を逃したらもう取りようがないと言っている。あのかわいい鹿が山河を滅ぼすというのはにわかに実感しがたいが、それは必然的帰結なのだ。

現在の日本では人間からのみならず鹿からも「自然」を守らなければならない状況になっている。ここで「鹿が悪いわけではない、元はと言えば人間が・・・」というステレオタイプな正論を言っている余裕は我々にはもう無い。ここで言う「我々」とは自然に対して勝手なことばかりしてきた人間のことではなく、「自ら生態系の一部として自然に対してなにか手助けの出来る人間として」ということだ。

なすべきなにかをなさねばならぬ時に、いや悪いのは我々なのだから・・・と「まず反省」して終わってしまう悪しきメンタリティーを捨て、ものごとを実際的(プラクティカル)に進めることの出来る人間に我々も進化しなければ我が国の未来はないと思う昨今だ。

まず僕自身がそのような「反省して終わってしまう人間」だから・・・。(^_^;)


※今日の写真と図版は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。
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2007年05月08日

3734 いまそこにある危機と動物保護

晴れ 気温:最低 7℃/最高 20℃

GW直前にようやくプランター植えが出来る気候になって始めたコンテナガーデン作りもようやく一段落した。以前はパンジーとビオラばかりだったのだけれど、それは「寒さに強い」の一言に尽きる。今回も花苗を購入するときの基準は「とにかく寒さに強い花を!」ということだった。

GWにはいってからの温かな天候のおかげで、ようやく花が元気になってきた。もちろん、購入した時点ですでに咲き始めてはいたのだけれど、寒さに凍えていまひとつ元気がなかったのだ。これで一安心だ、しっかりと根付いてくれることだろう。

問題は花壇になにを路地植えするかということだ。これまでは寒さや霜のことだけを考えれば良かったのだけれど、昨年から様相が変わってきた。それは群れをなして出没するようになった野生の鹿による「食害」の問題だ。

ニッコウキスゲやヤナギランなどの高山植物はもちろん、われわれが丹精込めて育てた花までも食してしまうのだ。あげくのはてに森の樹木の皮をはいで食してその木を枯らしてしまう。枯れた木はやがて風倒木となって、確実に森は死んでゆく。

森が死ぬと、山の崩落が始まり、土砂崩れや土石流の災害が頻発するようになり、それはやがてすべてのいのちにとってかけがえのない「水源地」を埋めて枯らせてしまうのだ。これは人間のせいで鹿が山に追いやられて仕方なくそのようになったということではなく、反対に天敵のいない鹿を過保護しすぎて個体数が限界を超えた結果なのだ。

これは「自然保護」対「動物保護」というまったく新たな対立構造を生じさせる、われわれが初めて遭遇する「環境問題」なのだ。人間が自然を破壊しているのではなく、野生の鹿が自然を破壊しているのだ。

「すべてを人間のせいにして反省する」のもひとつの考え方だけれど、それで問題が解決するわけではない。では、人間はなにをなすべきかをきちんと提示しなければならない。この問題に関する限り、実際に手を打つことが出来る生物は「人類」しか存在しないのだから。

動物愛護の精神は正しい、おそらくは「絶対的に正しい」と僕も思う。しかし、その精神を現実に起こっている危機的状況に生かすためには、現実的な対策としてのアクションが必須なのだ。われわれとともにまず野生の鹿に対してなにかをなして欲しいし、あるいは野生の鹿のために独自の救済アクションを発動して欲しいと、個人的には思っている。さまざまな考え方や立場があるのは百も承知だが、原理原則を主張している時間はもはや残されていない。


※写真をクリックすると拡大されますので是非大きな画像でじっくり鑑賞してください。

2007年05月11日

3737 Gmail ユーザーになってみた

晴れ 気温:最低 - 3℃/最高 17℃

強風の一日

昨夜からの嵐は未明まで雨が降り続け、その後も強烈な風が吹き荒れた。強風のおかげで雲という雲はすべて吹き払われて、文字通り雲ひとつ無い空となった。冷たい北風のおかげで強い陽射しにもかかわらず、終日(外では)寒い一日となった。早朝に緊急電話回覧が回ってきて、本日は強風のためピラタス蓼科ロープウエイは運休とのことだった。この風では確かにそうするほか無い。

それにしてもこの季節に氷点下になるというのもめずらしい。ラウンジの窓からの眺めは日に日に緑色の要素が濃いものに変わっている。もっと標高の低いところではすでに新緑の森になっているが、ピラタスの丘では後ほんの少し待つことになりそうだ。


Gmail を使い始めた

ひょんなことから(というか、単純に気がつかなかっただけのことなのだけれど)Google の運営する Gmail を使い出して3週間になる。詳しいことは Google のサイトで調べていただくとして、じつにこれは Google が今後目指す方向性を示唆する革新的な Web Mail for "Web 2.0" なのではないかと感じさせる。

メールを通じて(いまだ明確な定義がなされていない、と僕には思われる) Web 2.0 というもののひとつのかたちを体験することが出来る。インターフェイスの良さ、セキュリティー、徹底したスパムメール対策による快適性、Google のサーチエンジンテクノロジーによっていつでも必要なメールをリストアップできるメールの仕分け不要の便利さには実際感銘を受ける。

僕は以前から Google Analytics のユーザーである関係で Google アカウントを持っていたので、登録と利用開始は簡単だった。初めてのひとはどんな手順になるのかはよくわからない。いずれにしても 連携アプリケーションの Google Nortifire をインストールすることによって2分ごとに更新されるメールリストのタイトルと内容の一部が心地よいサウンドとともにデスクトップ右上に表示されるのはじつに新鮮な体験だ。確実にメールコミュニケーションがスムーズになったことを実感している。


蓼科高原ピラタスの丘・写真日記

それはそうと excite. のブログサービスを利用して「蓼科高原ピラタスの丘・写真日記」というブログをテスト運用し始めた。

これはタイトルどおり「日々つれずれなるままに撮影した写真たちのアルバムです。クリックすると拡大します。」という、写真とショートコメントの簡単なブログだ。このブログに載せきれなかった写真や、観光にかかわる最新情報を"What's New"的に載せるための場として開設してみた。

URLは http://psunset.exblog.jp/ なので、興味のある方はご覧下さい。今後とも観光情報や開花情報やスキー情報なんかを載せていくつもりです。ブログ公開システムというのは、このような累積的あるいは時系列的情報を管理したり公開したりするのに最適のシステムなので、これを利用しない手はないと考えたしだいです。


※写真をクリックすると拡大されますので是非大きな画像でじっくり鑑賞してください。

2007年05月13日

3739 野生の鹿の脅威・猛威(美しい生き物なのだけれど)

晴れ 気温:最低 1℃/最高 15℃

朝から快晴でしたが、春霞のようにもやっとした大気は雪解けの水分がまだ充分蒸発していないことの現れのようです。かといって湿度が高いわけではなく、反対にからっとしています。蓼科の特徴として年間を通じて湿度が低いということが挙げられるほどですから。

諏訪地方はあの満々と水をたたえた諏訪湖畔ですら、朝日が昇ったとたんに真夏でも湿度35%になってしまうほどです。蓼科も同様で、真夏でも湿度は30%台なのです。最高気温も東京で40℃を越えているその同じ時間に22℃ほどしかないのです。

森も日に日にその色を新緑に染めつつあります。しかし、去年までと決定的に異なるのは、僕らはもはやイノセントに「野生の鹿はかわいい」などといっていられなくなったことです。もちろん、野生動物との出会いは理屈抜きに感動的です、そのことは変わりません。

が、ここまで危険が増し、食害によって貴重な森林や山野草や草原が致命的打撃を受け始めたいま、こころを鎮めて冷静に鹿たちの生態を観察し、心を鬼にしてでも取るべき対策を実行に移さなければならないと決意するのです。

今日の2枚の写真はペンション・サンセットのすぐ隣りの森の樹木ですが、鹿が届く範囲の樹皮がきれいに食べられてしまっています。この樹皮は再生しません。この「傷」によってこの木は早晩立ち枯れし、数年のうちに風倒木となります。このような状態にされた樹木が1ヘクタール(100m×100m四方)に20本ほど在り、それは全体の20%異常に当たります。

その結果がどのような事態を招くかはここのとことこの日記でも繰り返し書いてきたので今日は書きませんが、これは甚大な自然破壊、環境破壊につながるゆゆしき事態なのです。これは動物愛護の精神の本来の姿ではなく、その原理主義的側面に対策をはばかってきた行政の失策といっても良いでしょう。これは動物過保護による生態系の破壊現象です。

日が暮れた後から未明にかけて、夜行性の鹿が群れをなして悠然と道を渡る姿に驚かされることは、いまではめずらしくなくなりました。長年にわたって天敵が無く、人間たちには脅されるどころか手厚く遇されてきたかれらはなにも畏れるものはなく、車がはねそうになって急ブレーキを踏んで止まっても、悠然と、ガンをつけるかのようにこちらをにらみつけて立ち止まります。

もちろん、彼らにはヘッドライトに照らされるとフリーズしてしまうという習性があるのですが、昨日の夜僕が遭遇した鹿は、そうではなかった。ヘッドライトを消してクラクションで注意を促しても、まるでガンをつけるかのようにこちらをにらみ返して、これじゃいまはやりの「上から目線じゃん」って感じだったのです。これには唖然としましたね。日光の猿たちと同じじゃないですか。

全国で鹿の過剰増殖は加速しているそうで、いますぐ手を打ってもすでに手遅れかも知れないと専門家は口をそろえます。これは「野生鹿による自然破壊、環境破壊、生態系破壊」なのです。動物愛護団体の協力と理解も得て、協調体制で適切な対策が急がれます。ここに住んでいると、実際問題としての危機感を自然に抱くようになります。それほど被害は甚大で、鹿の振る舞いは傍若無人になってきているのです。

ということで、蓼科とりわけピラタスの丘を訪れるお客様と野生の鹿との邂逅(かいこう)の機会も以前とは比べものにならないほど高確率になっています。出合えばそれは感動しますよ、いろんな問題なんて忘れて。

でもそのときの感動を大切にしつつも、いまここで起きている現実もまた頭の片隅に置いて機会あれば考えていただければさいわいです。


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2007年05月17日

3743 ThinkPad T43 とても気に入りました

雨 気温:最低 3℃/最高 13℃

昨日何を書いたのかよく覚えていないのですが、きのうから試しに IBM ThinkPad T43 という IBM が Lenovo に OEM した最後の機種の一つでこの日記(というかブログというか)を書いていることだけは確かです。Windows XP Professional SP2 と 独特の JIS配列のキーボードを使い始めて今日で2日目です。

感想としては思ったほど難しくない、なかなか快適じゃん、といったところです。まあ、これから何が起きるかわからないので、断言はできないのですが。とにかくインターネット・セキュリティーには格別に気を配って使っています。

現在のところカスペルスキーの「インターネット・セキュリティー」の30日間試用版を使っていますが、なかなかよいです。最初はおまけでついてきた Symantec の Anti Virus を使ったのですが、これはファイヤーウォール部分は Windows 内蔵のものにお任せなので、数時間で McAfee の Internet Security Suite の30日間試用版に乗り換えました。

これを約1日使ったところで、その重さにフリーズしたみたい感じになることや挙動不審なことがあったりで、現在のカスペルスキーに変えて現在に至っています。カスペルスキーのよいところはセキュリティーソフトがいま何をやっているのかということが明快に知らされるところです。

全部お任せであとは知らない、というのも一つの選択肢ですが、McAfee はそっちの方向性ですかね。それはそれでいいと思います。が、僕の場合やはり今何をやってくれているのかを知っていたい訳です。Mac OS X と違ってウイルスやワームや諸々の危険性はまさに「いまそこにある危機」だということを、自分で実際に Windows PCを使うようになって実感しています。

それと同時に、ああ、お客様の10人中9人までがこのような環境でインターネットをご利用なのだということもとてもよくわかって勉強になります。自分の作ったホームページがどのように表示されているかも確認できて、改善点もよく見えてきました。

Mac と Windows の両方を使い分けるようになってみてこれも悪くないなあと思い始めています。とても贅沢なことなんじゃないか、と。Windows ならではのハードソフト両面の選択肢の広さやコストパフォーマンスの高さ、互換性の高さがものすごくうれしい。その点ではMacユーザーは覚悟の上とはいえ苦労を強いられてきたから。

まあ、そんなことで、ここ数日は Windows に慣れることにかかりっきりになっています。あ、それとトラックパッドやIBM独自の「トラックポイント」に慣れることに集中しています。だいぶ慣れてきたかな。

僕が初めてパソコンを使うようになったのはビジネスマン時代に会社に導入されてきた MS DOS 3.1 のマシンだったから、その経験が生きているのかもしれず、思ったほど違和感がない。1980年代のあの頃から、Cドライブだの、Dドライブだのといった仕組だったし、なにかにつけては DOS プロンプトで作業しなければならなかった時代だったから。

初めて使った仮名漢字システムは ATOK9 だったと記憶している。ワープロは一太郎、表計算はロータス1・2・3 だった。ペンションを始めてからはまずワープロ専用機を2年使い、Windows 3.1 を使うつもりだったのがひょうんなことから Mac のパワーユーザー(?)になってしまったのだった。

時代は変わっていまや普段使いのPCは何だってかまわないというところまであと一歩って感じになってきたから、 2000年以前の Mac VS Windows それぞれのユーザーが反目しあうなんて時代があったこともまた懐かしく思われる。

時代はまさに Web 2.0 に変わろうとしているのだ、いまいちよくわからない感覚的な概念だけれどね。

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※ものすごく程度の良いこの中古PCは楽天市場のアンカーネットワークサービスで購入しました。おすすめです。

2007年05月19日

3745 Windows体験3日目

雨のち晴れ 気温:最低 5℃/最高 15℃

いま、ラウンジの吹き抜けの大テーブルで、ThinkPad T43 を(初めてバッテリー駆動で使って)この日記を書いています。こういうのが10年来の夢だったのですよね。蓼科高原日記もこんな風に実際の風景の中で書きたいとずうっと思っていました。気分最高です。(^_^)b

きのうは晴れのち雨で、夜半からは激しい降りとなり未明にはダウンバースト現象で台風のような風雨となりました。落雷にトラウマのあるパル君はこうなるとどんなに激しい雨にずぶ濡れになろうと犬舎の外に出てしまうので、結局徹夜で見守ることになってしまいました。ちょうど寝ようと思った4時頃から雷雨になったのです。まあ、屈強なシベリアンハスキーの身体はこんな雨に濡れたところで全然平気なのかも知れませんが。

なんていいつつも新しいマシンとOSにちょっと夢中になっているのも事実なのですが・・・。う?ん、やっぱりビジネスに特化して使うとなるとWindowsのほうが何となくいいようですね。良くも悪しくも遊びの要素が少ない、実利的という意味で誠実なOSのように感じています。

寄らば大樹の陰っていうか、メジャーな気分というか、そういった安心感に満たされます。ああ、みんなと同じだっていうような。これはこれで心地よいものです。まあ、僕の場合はお客様のホームぺージ閲覧環境を身をもって知るという意味でもとてもとても勉強になるということが大きいのですが。

IBMとして製造した最後のマシンの一つである ThinkPad T43 を選択したのは正解でした。とても作りが良くて、よく考えられた「思想のある製品」ですね。派手さやしゃれっ気はないけれど文字通りビジネスマンが実際に持ち歩いて使い倒す環境に十分に耐え抜くノートパソコンになっています。

ただ、標準の512MBのメモリーではやはり必要最低限という感じですので、最低1GBできれば2GBに増設したいところです。初めてノートパソコンメインで仕事をしてみて、これだったら次期導入するMacはMaBook Proがいいかな、などと思い始めています。なんといっても場所を選ばないことと、音が静かなところがいいです。Windows Vista も(たぶん)ネイティブで起動できるだろうし。

それにしても数年前からそうですが、特にマクロメディアを買収してからの Adobe はひどいですね、 Symantec もそうなってきていますが、まるで Microsoft みたいな感じです。やはり寡占状態というのはろくな結果を招かないようですが、インドのタミルとヘッジファンドの結託による鉄鋼業界の再編に象徴されるように世の中というか世界はおかしな方向に突っ走りだしているようです。

ネオコンなんてろくなものじゃないと思います、要するに自分の金もうけしか考えない連中ですから。これが「グローバリゼーション」というものならば、そんなものは早いところたたきつぶさなければ人類の未来はきわめて暗いものになりそうです。

うちのホームページにヘルプをもうけた件ですが、自分で「学習」してまでも見たいホームページなんてほとんど無いのではないかという時代になったのだと思います。時代の流れを嘆かわしく思ったところで何も変わらないので、対応していくほかないようです。今後はFAQなんかも必要かと思っています。すべては「アクセシビリティー」と「ユーザビリティー」のために、ということです。

というような内容のメールを親しいお客様とやりとりしたわけです。そういうことなので、そのまま日記にしちゃいました。N様、悪しからず。(^^ゞ


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※ものすごく程度の良いこの中古のThinkPadは楽天市場のアンカーネットワークサービスで購入しました。一発目の検索で引っかかるという幸運に恵まれて入手できました。

2007年05月20日

3746 Windows体験4日目/スリルとサスペンス

晴れ 気温:最低 3℃/最高 18℃

インターネットのスリルとサスペンス

歳のせいでしょうか、お疲れ気味です。まあ30代の頃とは違うのだから、これは年齢相応というものですね。これだけ集中的に Windows XP SP2 の流儀に慣れる、扱いに習熟するにはそれだけのエネルギーが必要なのだ。

それにしてもさすがというか、噂どおりというか、Windows を使っているといろんなものが入り込んでくるのですね。ルータをかませたりセキュリティーソフトを入れておかなかったら、確かにこれは大変なことになりますね。そこが、その点では「無風状態」のMac環境と決定的に異なるところかも知れません。

今日は Symantec Norton 360 なんていう日本的なネーミングのセキュリティーソフトと、トレンドマイクロのウイルスバスター2007のお試し版をインストールして試してみましたが、前者はインタフィエスは優れているものの、ノートンシリーズ共通の「なにをやっているかが見えづらい」欠点がありました。ほんとうはすごいことをやっているのだろうけれど、それをわかりやすく見せることを考えていないで「お任せ下さい」って感じかな。

後者は初心者にもとても親切な説明を用意してあって好感が持てるのだけれど、機能的にはなんだかちょっとトレンドを外している。もちろん必須機能は完備しているのだけれど、競合他社の製品に比べると、ポジショニングが中途半端かも知れない。

結局のところ好き嫌いのレベルでしかないのだけれど、僕の場合はカスペルスキーがベスト、McAfee の Internet Security Suite がベターという印象だった。で、現在は McAfee の Internet Security Suite を暫定首位としてインルトールして稼働させて様子を見ているところです。

いずれにしてもこれは真剣勝負、Macしか使っていなかったときには絶対に味わえなかった(セキュリティーに関する)スリルとサスペンスに満ちた体験です。どんなOSでも世界標準になっちゃえばとたんに現在の Windows と同じような(まったく同じではないだろうけれど)状況になるのだろうなあ。

セキュリティービジネスが、あらゆる分野にわたってますます繁栄していく時代なのだろう。


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2007年05月24日

3750 「なぜ?」と考えないこと

晴れ 気温:最低 6℃/最高 21℃

あ、きのうは「Windows体験7日目・・・」なんてタイトル書いたくせに、Windowsのことを全然書かなかったのね、いま気がつきました。潜在意識として、あんまりその話題ばかりでもいかがなものかって気がしていたもので抑圧されて書けなかったのかも知れません。で、今日はWindows体験8日目です。

ちょうど1週間でほぼ「感触」はつかめたって言うところでしょうか。まあ、初心者でなければMacからWindowsでもその反対でも移行あるいは併用は1週間もあれば第一段階はクリアーして実用になってくるのではないかと、自分の体験からはそんなふうに感じます。

コツというものがあるとすれば、それは「なぜ?」と考えないことでしょうか。「そういうものなのだ」とまずすべてを受け入れてそのOSの作法に全面的に従うことのような気がします。僕の場合キーボード配列も異なっていて、Macは「アスキー(英語のみ)配列」なのにThinPadは(基本的には)「日本語JIS配列」なのでいろんなキーの位置が違うのです。でも、もうそれも頭を切り換えて違和感なく使い分けられるようになりました。

いや〜、人生勉強になりますね、こういうことからも学べることがたくさんあるようです。この世界に異を唱える前に、まず全面的に受け入れることって、大切な基本ですよね。そこから、そこからしか、すべては始まらない。

さて、今日のピラタスの丘は(全国的に暑かったのかも知れませんが)今年でいちばん気温が高く感じられた一日になりました。といっても気温は21℃程度だったのですが陽射しが強烈で、日なたの温度はちょうど30℃になっていました。

夜になってもあまり気温が下がらず、まだ10℃以上もあります。ここまで来ればもう暖房はいりませんが、もっと温暖な地方からいらっしゃるお客様にとっては現在の室温18℃というのは暖房を必要とする気温のようです。ということで、ご宿泊の節はちゃんと暖房を入れますからご安心下さい。

僕ら的には「今夜は蒸し暑い」ということになります、室温が18℃もあるのだから・・・。

窓外の景色は日ごとに青さを増して、新緑の透明なきらめきが窓から差し込む光に緑のスペクトルを加えています。こんなにも美しい新緑の蓼科にお越しになるお客様がものすごく少ないというのはじつにもったいないことだと、毎年この季節になるたびに思うことです。

つい今し方すぐ近くの森を野生のキツネが走り抜けていきました。ぎゃーんぎゃーんという威嚇の吠え声を立てていましたから、きっと野生の鹿の群と鉢合わせしたのかも知れません。いまではここで出合う野生動物の中では鹿がもっとも多い動物となりましたから。

さっきもペンション・サンセットの敷地の向こうの森の中をぞろぞろと通り抜けていきました。じつに悠然としたものです。天敵はとうの昔に滅び去り、脅威と呼べるものも久しく存在せず、手厚く保護されてきた彼らにとって人間は敵ではなく、怖いものなしです。

彼らによる山の自然破壊を目の当たりにしている僕らとしてはじつに「微妙な情景」ではあります。


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2007年05月25日

3751 モラルなき輩に国を売る者たち

雨 最低6℃ 最高13℃

昨夜半から降り始めた雨はかなり本格的なもになり、終日本降りとなりました。車がすっかり洗車できてしまうほどびしゃびしゃと降っています。そんな雨の中でも、自分のテリトリーを守るために必死に鳴き交わす野鳥の声が森にこだましています。

ここまで降られると今日は屋外作業は何もできません。農家の人や土木建設業の人はそれでも仕事をしているのでしょうね、大変なことです。それなのに、そういう仕事は「肉体労働」と呼ばれ古来より「知的労働者」と呼ばれる人々よりも格段に賃金が安いのはいったいなぜなのだろう。

ホワイトカラー出身の僕がこんなことを思うくらいだから、当事者の人たちの思いはいかばかりかとちょっと考え込んでしまいます。そもそも賃金は労働の対価であるという考え方というか、定義そのものが違うのではないかと思う昨今です。

賃金とは社会的優位に立つもの(すなわち経済的勝者)が社会的弱者を使役するためのインセンティブに過ぎないのではないかと思われてくる。そうでなければ「会社は株主のものである」なんて暴言を吐いて捨てるやからが闊歩する現代のような世の中は成立しない。

企業は確かに株主のものであるかもしれないが、企業活動は社会的なものなのだ。経済は資本家が金儲けをするための活動ではなく、社会を成立させるエンジンのようなものなのだ。そこには社会的使命とか社会的モラルとか社会的責任そしてある種の金儲けとは背反する理念がなければならない。

そいういったものをすべて無視して経済をゲームにしてしまったのが、金だけはたんまり持っている「ネオコン」という拝金主義資本原理主義者たちだ。かれらにはこの世界をよりよいものにしようとか、自分のマネーゲームが世界や社会やそこに暮らす市民にどのような影響を与えるかなんて金輪際考えない。

あるのは金儲けという勝利を目指したゲームだけだ。このようなやからが支配する世界は闇であり、社会的病(やまい)であるといわざるを得ない。貨幣経済はカタストロフィーの一歩手前まで来てしまったようだ。それにつけても我が国政府の脳天気ぶりにはあきれてものもいえない。

彼らには自分の国の経済や企業やそこに働く市民を守ろうという気概のかけらも感じられない。グローバリズムというスローガンの元に世界制覇を目指す米国ネオコン集団の意のままに「ぱしり」のごとき言動を繰り返すばかりだ。米国ネオコンの手先たちによっていったい幾百の伝統的日本企業が「公的資金」という名の血税を持参金にして外資にたたき売られたか、リストアップしてみるがいい。昔懐かしい「売国奴(ばいこくど)」という死語は彼らのために復活すべき時だ、と思うのね、最近。


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2007年05月26日

3752 新緑の中でふたたび思うこと

晴れ 気温:最低 2℃/最高 16℃

買い物に出かけようと駐車場に出ると、ちょうどウチの周辺をテリトリーとするおなじみのキジバトの雄がやってきて、すぐそばの落葉松の木にとまったのでした。これだったら写真におさめられる距離だと思い、あわて手首からぶら下げた Richo Caplio R5 で速射したたった1枚の写真がこれ。この直後彼は飛び立って他の木へと移っていってしまった。

写真を見てわかるとおり、都会で見かける鳩とはだいぶ違っている。近くで見るととても綺麗な鳥だ。落葉松の新緑がはっきり写っていてこれが森という森、山という山を染めていると想像してみて欲しい。この季節はなにもかもがこの色に染まる季節なのだ。

そういえば、今日は蓼科山がかすんでいる。朝のニュースでも報道されていたけれど、実にものすごい黄砂だった。地図でみると長野県というのは意外と中国に近いのですね、今更ながら再確認できたけれど。地政学的には確かに非常に危ない状況に我が国があるというのがわかる。

防衛庁が防衛省になったり、憲法改正のための国民投票法案が強行採決されたりというのはそういう危機感を世論操作にうまく使ったからこそ暴動も起きずにしゅくしゅくと流されているわけだ。しかし炉れは日本自身の問題であると同時に、米国の強い意向を反映した動きのような気がするなあ。

要するに先の戦争に負けて占領されて以来、我が国は新しい形の植民地第一号だったというわけだ。いわば「植民地 2.0」ということかもしれない。また、そのようにしてしか独立国家としての体裁を取り戻すことがかなわなかったという歴史的状況があったのかもしれない。

それはやむを得なかったし、現状もやむを得ないのかもしれないけれど、このままで良いはずはないというのも厳然たる事実でしょうね。投資ファンドという名のハゲタカ、イナゴのたぐいが来襲して、土足で我が国の経済を踏み荒らし、優良企業を買いまくって株価が上がったところで売り抜けてあとは知らないってなことが許されていいのだろうか。

そんなものはグローバリゼーションでも何でもない。事実米国は企業買収に関しての連邦法がなく、州法しかないという仕組みを作って自国企業を独善的なまでに買収から守っている。それでいて他国には全面自由化を求めるっていうのだから、日本ももう少ししたたかにならなけりゃいけないんじゃないかな。

それはさておき、というか、この辺でやめておかないとペンション・オーナーとしてはやばいという空気があるからこのへんでやめておきましょう。


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2007年06月07日

3764 ホームページ改変

晴れのち曇り一時雨 気温:最低 8℃/最高 18℃

きのうだったかな、もう時間や日にち感覚がおかしくなっていてよくわからない、あ、そうだ昨日に違いない、ペンション・サンセットのホームページの構成を大変革しました。

とはいっても、まだまだマイナーチェンジといったところで、昨年11月に一気にすべてを FLASH で編集したものに変えて昨日までがんばってきたのを、もとの HTML と CSS で構成したものに戻した訳です。「先読み貧乏」という話しが以前日経のウェブマガジンにのっていたけれど、僕が体験したのもまさにそのパターンだと思う。

いくら回線速度が速くなってマシンスペックが上がったと言っても、まだまだモデムやISDNで接続しているひとも20%以上いるのだ。ブロードバンド回線で接続していても実効スピードが遅くて悩んでいる人だっているのだった。

Google Analytics というアクセス解析ソフトの膨大なデータを見ていて、最終的にまだまだ FLASH によるコンテンツは「重くてなかなか表示されない」と考えられていて(じっさいそうなのだけれど)一般的には受け入れられていない。それどころか、嫌われてさえいるケースも想定されるのだ。

おそらくこれからのホームページは現在のブログ公開システム同様のサーバーサイドのデータベースとパブリッシングシステムの連携によるオンデマンドの公開形式へと変化していくと考えている。つまり、お客様が閲覧したいページに移動するのではなく、ホームページのほうが欲しい情報をデータベースから拾い出して編集して提示してくれるのだ。

そんな折、僕も利用しているサーバーインストールタイプのブログ公開システム Movable Type の バージョン 4.0 が発表になった。そしてその目玉機能が、ブログだけでなく企業レベルのホームページも構築できる氏捨て身へと進化した点だという。やはりこれからは CMS (コンテンツマネジメントシステム)無しに情報発信は考えられない時代になるのだろう。

じっさい、大企業のサイトはそのようなオンデマンドパブリッシングシステムで運営されている(と思われる)のだけれど、それを構築維持するためには莫大な経費がかかるわけだ。それを個人でも使えるシステムで同様のことが出来るとなればこれを見逃す手はないと思っている。

話しを戻そう。最近よく耳にする言葉に「売るためのデザインは必要ない」とか「美しいHPより見やすく情報へのアクセスが容易なHPを!」というものがある。その通りだと痛感している。特にペンションの場合、うちのような小規模のペンションでは特に、こじゃれたHPより多少「泥臭い」というか「人間くさい」ホームページのほうが親しみやすいのかも知れないと言うことを感じている。

要は「ひとの温もり」や「息づかい」が感じられるようなホームページのほうが断然良いということかも知れない。この半年新しい自分のHPに対する(データ上の)お客様の反応を見ていて、僕もそう思うようになった。

ということで今回の改変では、かっこう良いとか美しいとかと言うことは二の次にして、とにかく見やすいこと、短時間で流し読みできて大まかな要点を把握できること。ここにあるべきとお客様が潜在的に思っている場所にその情報が期待されるかたちで用意されていることに注力した。

まだまだ力不足で、日々改善を続けなければならないのだけれど、少なくともこれまでのHPよりは断然親しみやすくわかりやすくなったとは思っている。しかしこれは第一段階であって、第二段階としてサイト内ナビゲーションのしっかりした構成のシンプルなホームページを別途制作する予定でいる。

僕はペンションは「道具」あるいは「装置」としての「場」であると考えるものである。そのスペックや特徴やメリットをお伝えするのに必要以上にデザインに凝ったりクールぶったりする必要はないのだと自分に言い聞かせている。いちばん大切なのは「情報へのアクセスしやすさ」と「使いやすさ」つまり「アクセシビリティー」と「ユーザビリティー」こそが肝要なのだ。

ということで、ブログ化したこの「蓼科高原日記」のほうが一歩先んじている状態になっている。今度は、ホームページがそれに追いつく番だ。


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2007年06月09日

3766 悲しき雨音

雨 気温:最低 5℃/最高 14℃

ピラタスの丘ペンション村があるのが標高1600mから1800m。秘境と呼ばれる「坪庭」があるのがロープウエイ山頂駅前の標高2240mから2340mあたり。真夏でも別世界のピラタスの丘、それよりもさらに500mも上の山岳地帯の花は、本来なら登山をする人の目にしか触れないものばかりです。

一枚目の写真はミツバオウレン、山頂駅付近に咲きました。二枚目の写真はタチツボスミレ。坪庭の花の季節が始まりました。これからの季節、梅雨の期間も含めて7月中旬くらいまでが坪庭の花の盛りです。遊歩道が整備されているのでロープウエイであがってそのまま運動靴で楽に歩くことができます。坪庭のすばらしさは花ばかりではありません、眺めも絶景で普通なら本格的登山客しかみることのできないものです。

今日はあいにく朝から雨模様、終日降り続きました。けっこう本格的な降りでまとまった雨になりそうです。さいわい雷雨にはなりませんでした。一年中晴れていたら干ばつになって森も死んでしまいますから、雨降りの日がある程度あっても仕方ないですね、出来れば週末や休日は避けて欲しいというのが人間の勝手な願いですけれど。

午後7時半、ラウンジの室温は15℃。厚手のコットンのトレーナーだけではかなり寒く感じる。厚手のフリースジャケットかダウンパーカをはおってちょうどぬくぬくという感じです。

いつもなら何の物音も聞こえないはずが、今夜はいささか様子が異なって、ざあざあという激しい雨音に満ちています。その音の中にも実に多様な音が混じっている。雨滴が新緑を打つぱらぱらという音、樹木の葉がためた雨が落ちて地表を打つときのぱたぱたという音、鋼板製の屋根を打つかんこんという音、屋根から落ちる雨水が軒を打つことことという音。

野鳥の合唱と是非コラボレーションしてほしいほどの音楽的な雨音です。打楽器だけの演奏でもこれだけ色彩があることに驚きます。どこか和太鼓の演奏の興奮に似たものを感じます。目を閉じるとさまざまな想いが浮かんでは消えていきますが、この音楽はいつもとは異なった切ない思い出をよみがえらせるようです。

これも高原暮らしならではの醍醐味です。


それはさておき、商業的に成功しなくてはこの「高原暮らし」も成り立ちません。それはよくわかっているのですが、僕は頭が古いのだろうか、甘ちゃんなのだろうか、メールマガジンを送りつけたり甘言を弄したりしてそれを心地よく思うお客様を集客するというやりかたに違和感を覚えるのです。だからそういうことはやりません。

保養所契約獲得に奔走するよりも、旅行代理店をご接待するよりも、甘いセールストークをひねるよりも、お客様にとってもっとも心地よい場所であり続けるために全力を尽くしたいのです。利潤至上主義の商業主義は僕がもっとも忌避するところのものです。

まあ、いずれにしてもこの新自由主義とやらの世界では、間違っているのは僕の方なのだろうけれども。でもね、これは商売だと割り切って「商人(あきんど)」になりきるか、これは商売ではなく「趣味」だと決然と言い放つ覚悟でなければいまやペンションなんてやってられない。ペンションとはそのような致命的欠陥を持つ前時代的ビジネスモデルなのです。

財務的には僕は前者のスタンスを選択しなければならないのかもしれない。しかし、それだったらなんで第一線のビジネスマンをやめてここにきたのかわからなくなってしまう。同じことをやるのだったら以前の環境の方が遙かによかったからだ。

ということで、全く利益の上がらない後者の道を選んでほそぼそと生きていけたらいいなあと願うばかりなのです。お客様もペンション・サンセットにいらしたときばかりは新自由主義的グローバリズム、そのような商業主義に組み込まれる以外に生計が成り立たないという現実から解き放たれて自由に羽を伸ばしていただければうれしく思います。


※今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。
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2007年06月16日

3773 週間予報による経済的損失

晴れ 気温:最低 5℃/最高 15℃

じつに「週間天気予報」とやらはあてにならない。この10年間ずうっとそう言い続けてきたような気がするから、その間なんら進歩がなかったのだろう。つい昨日まではこの週末は雨模様で来週もぐずついた梅雨空になると断言していたのではないか?

このような「結果として、いいかげんな予報」のためにわれわれ観光業界がどれほどの経済的損失を被っているか、気象予報関係者はまったく認識していないとしか言いようがない。予報なのだから当たらないことがあるのはしかたがないと思うが、それを迅速に訂正するということを行うのが責任ある仕事というものだろう。

これまで今週末は雨だと申し上げておりましたが、その後絶好の行楽日和に変わりました。

その一言がない。

ここにもお役所仕事を発祥とする業界の末期的役人気質が息づいているのを感じる。

じじつ、今日も明日も「絶好の行楽日和」なのだ。暑いほどの陽射しに恵まれて、新緑がまぶしく輝いているのだ。週間天気予報を信用して登山や山歩きやドライブを延期したり諦めたひとがどれだけいらっしゃると思っているのだろう。しかし、「彼ら」はそんなことにはまったく無頓着に得意げに気象を語っている。そういう時代ではないのだよ、もはや。

天気予報、気象予測と経済は密接に結びついているのだ、人類史上これほど密接だったことがないほどに。そのことを、関係書誌にはよおおおおおおく認識して欲しい。気象オタクではだめなんだよ、もはや。ああ腹が立つ。


それともう一つ気がついたことがある。Microsoft と Google の戦いだ。Google Toolbar for IE のインストールに対して Windows XP が拒否反応を見せることだ。ほかの Google のアプリケーションに対してもそうなのだけれど、その動作を妨害したりはしないけれど、インストールを嫌がる気がする。

反対にアンインストールに対しては Googleアプリがそれに抵抗を示す。こんなところまで両者の確執が出ている気がしてちょっとどきっとしたり・・・。Google は Mac とはきわめて親和性が高くもっと友好的だから、意外な側面を見た思いがする、気のせいというにははっきりしすぎた振る舞いを見せるのだ。

結局、Googleアプリを一切アンインストールしてしまった。個人的には現在最高の使い心地の Gmail はもちろん使い続けているけれど。まあ、これはウェブメールだから何らかのアプリをインストールするわけではないので特に問題はない。

でも、メール着信を知らせる Gmail Nortifier ローカルアプリケーションなので同様の理由でアンインストールした。Macバージョンはとってもおしゃれにさりげなくメール着信を教えてくれるのに Windows ではダイアログのデザインも粗雑でうるさくあまり印象がよくなかったし。

競争を第一とする戦闘的経済社会というものは本当によいものなのだろうか、とここで改めて考えさせられる。そこには人の心には一切関知しない金(かね)の原理だけが一人歩きしている。もはや精神や心の時代は終焉を迎え他のだろうか。我が日本人が「エコノミックアニマル」と呼ばれ非難されさげすまれた時代を懐かしく思い出す。

競争こそ経済発展の原動力でそれがよりよい社会、よりよい世界を構築するのだなんてきれい事をのたまうネオコンの奴らの顔を見ていると、これはやはりもう一度社会主義的革命が必要な気がしてくる。
新自由主義の総本山の米国社会の自家撞着と不幸を目の当たりにすればそれが真っ赤な嘘だとわかるではないか。

米国は世界に自らの不幸のシステムをごりおし輸出する前にまず世界がうらやむ理想社会を自国に作り上げて見せてほしいものだ。人生を闘争と戦争にあけくれた、要するに殺し合いに明け暮れていた長い人類史を経て社会主義的資本主義というバランスのとれた経済にたどり着いたというのに、ふたたび昔帰りをもくろむ輩の動きには注意が必要だと思う。

あ、そうそう、Gmail のログイン先をデフォルトではなく https://mail.google.com/mail/ にするとSSLによる安全な接続が可能となるので、おすすめです。このことはあまり目立つ書き方をしていないんですよね、Gmail のページでも。


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2007年06月29日

3786 脱力の時代

曇りのち雨 気温:最低 14℃/最高 16℃

この脱力感はいったい何なのだろう。「会社は株主のものだ」という経済社会になってから、世の中はどんどん奇妙な方向へと突っ走っているけれど、会社は株主だけのものではないのだ。「会社は、企業は、社会のものなのだ」と言うことを否定したら、社会は単なる金儲けゲームのための装置になってしまう。

勝者の、既得権者の、勝手な論理のみがまかり通り、狂気の沙汰も金次第になっていく。人間の尊厳や人権や公共の福祉など一気に吹っ飛んで、非情のものたち、ひとにあらざるものたちの「金の論理」が跋扈(ばっこ)する暗黒社会へと突き進んでしまう。

要するにトランプゲームの「地主と貧民」そのままの社会になってしまうのだ。それはすでに現実のものとなってきている。強いものは強いもの同士でますます結託し、その既得権益をより強固なものとし、貧しいものたちは本来闘うべき既得権者ではなく、貧しいもの同士で争い諍い(いさかい)つぶし合っている。

「格差社会」とはそのようなものだ。格差社会とは競争社会ではなく、既得権者とそれ以外の者との格差をより強固にするシステムなのだ。そこに競争があるからこそ進歩がありチャンスがあるというのはまやかしのプロパガンダ、根拠のない幻想に過ぎない。

生存競争に明け暮れている限り「幸福への進化」など起こりえない。まさに「衣食足りて礼節を知る」のだ。ああモラルとか礼節とか尊厳とかみ?んな「死語」になってしまった。何でもありだもんね。金と権力と既得権益がすべての社会だもんね。

それにしても官僚組織というのは自身の既得権益を守り増幅するためにだけ存在するんだね。それはあたかも資産家がその資産によって社会に益をなすことよりもその運用と利益の確保に専念するかのごときだ。

そういう意味ではいまのファンドは「死に金」だ。死に金が死に神のごとく嫌われながら優良会社を買いあさり株価をつり上げては売り払う。そこには何の社会的貢献も考慮されていない、そこには企業の社会的責任やヴィジョンもない。経営理念は「短期的に資産価値を上げること」のみだ。

一部の者たちだけが享受する史上最高の好景気が続いている。我々庶民はまさに「部外者」でしかない。まったく好況を実感できない、希望も展望もない暗い日々が続いている。そして大増税。増税するなら好景気にわきたつ企業に対する法人税から始めるのがセオリーではないのか。

まさに、無理が通れば道理が引っ込むというわけだ。強行採決しか能のない与党には何も期待できず、公務員の権益保護をかかげる野党にも何も期待できない。アナーキーな雰囲気に満ちた時代になりつつある。


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2007年07月05日

3792 庭のニッコウキスゲが咲きそうです

曇りのち晴れ 気温:最低 10℃/最高 18℃

朝のうち雨が残りましたが、午後からきれいに晴れました。天気予報は12時間前にならないとまったくあてにならないようです。山岳地ですから、気象予報は困難を極めるのでしょう。それでも大きな動きで天気の移り変わりを捉えるならば、おおむね上り坂なのか下り坂なのかということはわかります。

今週末に向けて天候は緩い上り坂です。土日は雨はなさそうです。

今朝は初めて間近に聞くめずらしい歌声の野鳥が庭にやってきました。その美声にしばし聞き惚れているとシベリアンハスキーのパル君はそんな私を見ていぶかしげな顔をしていましたっけ。森を散歩しているときに聞いたことのある歌声なのですがにわかに名前が出来ません。クロツグミ・・・かな?

ペンション・サンセットの駐車場の白樺の巨木の根元のスペースに毎年咲くニッコウキスゲが数株、大きなつぼみをつけています。あと数日で大きな黄色い花が咲きそうです。昨年はきれいに咲いたと思ったら翌朝には鹿に食べられてしまいました。鹿の大好物だそうです。

今年はそうならないように、害獣よけのネットで守ってやることにしました。山を下りてホームセンターに行ったのですが、この手のネットはじつに様々なものがあってこれが意外に値が張るのです。犬猫よけから野鳥やカラス除け用、もっと大きな害獣除け、風除け、日光除け、霜よけとどれも高価な資材です。

農家の方はこういう資材を大量に使わざるを得ないわけですからその負担は大変なものでしょう。改めて農家の大変さに思いをはせました。いまの世の中、お金さえあれば何でも手に入る豊かな社会のようですが、こうして野菜や穀物を作る人々がもし居なくなったらいくらお金があったって豊かな暮らしはできないわけですよね。

ものを作る人がいなくなったら、お金を集めたりお金を増やすゲームに奔走している人たちも生活が立ちゆかなくなるのです。いわゆる知的労働(知識集約型産業)の方が肉体労働(労働集約型産業)よりも遙かに高給取りなのはどうも納得がいかないのですよね。

まあ、納得いかないことだらけなのが現実の社会というものなのでしょう。それをいかにみんなが納得のいく社会にしていけるかが永遠の課題なのかもしれません。そういう意味で我々は神様に試されているのかもしれません。


「労働の質」っていったい何なんでしょうね。頭の悪い僕には良くわからないのです。


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2007年07月06日

3793 野生鹿、人間、自然

晴れのち曇り 気温:最低 9℃/最高 18℃

もうすぐうちの駐車場のニッコウキスゲが咲きそうなので、あわててホームセンターで害獣よけのネットと支柱を買ってきて周囲を囲った。完璧とはいえないけれど、去年みたいに咲いたとたんに鹿にすっかり食べられてしまうことはないだろう。

南アルプスでも美ヶ原でも信州全域、いや日本全国で野生のニホンジカによる食害が幾何級数的に増加していることが報じられている。信州でも各自治体に対策本部が設置され始めている。すでに遅きに失した観があるけれど、何もしないよりはましというものだろう。

天敵のいない野生動物を「保護」することがどのような結果を招くかと言うことの例証がいまここにある。それは文字通り「いまそこにある危機」そして人間を脅かしている。じっさいに野生の牡鹿と一対一で対峙してみるといい。そこにあるのは恐怖だ。

あんな巨大な動物が鋭い角を振り立てて突進してきたら我々にはなすすべがない。鹿が平和的で愛らしい存在だなどというのは我々の勝手な幻想に過ぎない。野生動物は自身に危害を及ぼすと判断すれば誰彼無く攻撃してくるものだ。

まあ、そんな大自然の中にぼくらは暮らしているという証拠でもあるわけで、互いに同じ立場の動物として共存していきたいのだけれど、いまやその限界を過ぎてしまったようなのだ。たとえここに我々を含めて「人間」が存在しなかったとしても野生の鹿たちはいずれ生き延びることができなくなる数になってしまった。

それはさておき、霧ヶ峰のレンゲツツジがニッコウキスゲへと移ろっていくこの時節にピラタスの丘ペンション村隣のピラタスロープウエイで山頂駅まで昇れば、そこな標高2240mの別世界「坪庭(つぼにわ)」だ。溶岩台地に囲まれるようにして成立した貴重な高山植物の庭園となった自然の造形。

いまちょうど様々な高山植物が開花し始めて、一年でもとも美しい季節を迎えようとしている。7月、これから蓼科高原は色とりどりの高山植物の百花繚乱の季節を迎える。そして本格的な英国庭園の元祖「バラクライングリッシュガーデン」もそのもっとも美しい季節を迎えている、これを観ない手はない。

夏休みにたくさんのお客様をお迎えする準備に忙殺されながらも、この絶好の写真日和に蓼科の美を写し取りに出かけない手はない。片手間仕事になってしまうのはしょうがないけれど、貴重な記録としてあるいはビジュアルなご案内として「いまの蓼科」を写し取るのもまたぼくらの仕事なのだと思う。

なんて言ってはみたものの、じっさいにはなかなか思うように出かけられないので、その点についてはあらかじめお詫びしておきます。(^^ゞ

※今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。
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2007年07月14日

3801 あと5年・・・

雨 気温:最低 11℃/最高 14℃

台風4号による被害を受けた方々に心よりお見舞い申し上げます。

ここ長野県中部地方はまだようやく台風4号の気配を感じる程度の小雨です。風はなく、ごく普通の雨です。午後8時現在暴風雨とは無縁の天候になっています。天気概況によれば暴風雨にはならずに夜半に一時雨脚(あまあし)が強くなり、未明には穏やかな降りに戻り、昼頃から曇り空に変わるとのことです。

明後日はそのまま曇りないし晴れとなりそうです。火曜日以降は週末を含めて良いお天気に恵まれるという予報が出ています。

それにしても、ここ数年の天候異変は本物のようです。日本は亜熱帯だと言われてきましたが、どんどん熱帯雨林気候に変わりつつあるように感じます。日本が熱帯となるのはそう遠くないことのような実感があります。

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さて、この蓼科高原日記も11年毎日書き続けてきたことになります。初期のものはデータ消失して残っていませんが、残っているモノだけでも今日で3801日分ということになります。そこでつくずく考え込んでしまうのは、いったいなんのために書き続けてきたのだろうかということなのです。

最初は蓼科のいまをインターネットという新しいメディアに載せてお伝えしたいという想いだけで書き始めたのですが、やがてそれは自分の想いを語る場へと変化していきました。それはまるで私小説のようでもありました。

やがてそのことに違和感を覚えるようになると、今度は報道的スタンスに変わりました。しかしそれも違和感があって・・・。やがて時代は新自由主義の経済社会へと変わり人の心のあり方も変わってしまいました。読んでくださる方の心もそして私自身の心のありようも。

結果第一主義の社会に個人的にどんなに異議を唱えようと時代潮流は変わりそうもありません。周りを見回せば、繁盛している宿はこんな手のかかる素朴なことに力を注いではいない。プロフェッショナルなあるいはそうでなくともより商業主義ツーリズムに沿ったPR展開をネット上でも行っていることに気づきます。

周到に計算された写真やレイアウトそして広告コピー。適切な資本投下による設備増強とそのアピール。ここでもやはりより大きな資本力が幾何級数的アドバンテージを享受している。想いより何よりまず資本力がなければ勝負にならないのです。

かたくなに人の心とホスピタリティーにこだわる宿もありますが、それをするにもやはりそれができるだけの資本がなければならない。趣味でやってますから利益は出なくてもいいんですと言えるだけの内部留保がなければそんな割り切りはできないのです。

早くそういえるようになりたいのだけれど、そうなるまでにはあと5年かかるのです。その間どうすべきなのだろうか。これまでどおり「ひとのこころ」と「ホスピタリティー」にこだわって経営している限りこの赤字体質を改善することはきわめて困難であることは明白なのね。

本当にダメな経営者なのです。身の程も考えずに理想ばかり追って・・・。

2007年07月15日

3802 美しき日本の残像

雨のち晴れ 気温:最低 13℃/最高 18℃

アレックス・カーを知る

アレックス・カーという人物を知った。TVの「情熱大陸」という番組だった。彼の言葉のひとつひとつがこころに染みこんできた。もちろんすべてに賛同することは出来ないけれど、彼の語っていることはまさに我が意を得たりといったところだった。

賛同できない部分は、特に彼が外国人だからということではない、個人的見解の相違とでもいったものだ。僕には余所者(よそもの)というような偏狭な発想はない。蓼科界隈(かいわい)でも見知らぬ相手に対して反感を持つと「何処の者だ?」と誰何(すいか=名を問いただす)する習慣があるが、これこそ地域共同体の負の部分だと思う。

それはさておき、「美しい日本」というスローガンとは乖離(かいり)するばかりの某国現政権の元でわれわれ国民がそれぞれに考えなけばならないのは、失われた「日本の美」ではないのだろうか。それには「日本人の美徳」も含まれる。

欧米か!?(^^)√・・・ではなくて「欧米化」が奇妙なかたちで進んでしまったわれわれの国はこれでよいのだろうか。われわれが失ったのは美しい日本の風景や建物や習慣だけではなく、それらに現れる美しい日本のこころなのだ。

殺伐としたグローバリゼーションには決して構築できない美しい国のかたちがいままさに破壊し尽くされようとしている。美しい国を標榜する政権によって美しい日本が失われようとしている。その想いはどうあれ、いま我が国はそのような方向へと突っ走っている。

「美しき日本の残像」という彼の著書をネット書店で発注した。読後感は後日記したいと思う。

ネット書店の読者レビューで気になったことがひとつある。アレックス・カーは著書のプロフィールにあるとおりずば抜けたエリートであり世界に通用する知識人である。その彼の語り方にいま流にいうなら「上から目線」を感じて反発する書き込みが多いことだ。

その反発には、同時に、余所者がなにを言うかという反感が感じられる。残念なことだ。かれらは自分を高めるという発想を持っていないのだろうか。自分よりより高い位置からのより広いパースペクティヴを持つに至った人間を自分たちのところまで引きずり下ろすことしか考えていないのだろうか。

哀しいことだ。現代社会の縮図を見るようで、いささか絶望的な気分になってくる。


台風はそれたようです

心配した台風4号は大きく南に梶を切って、蓼科はほとんど風も吹かず豪雨にもならず、平穏な夜が明けました。降雨量の規定で今日はビーナスライン八島が原〜和田峠区間が通行禁止となりましたが、路肩の崩れなどの情報はありません。

今夜すでに空は晴れ渡っています。明日以降は晴れの予報が出ています。霧ヶ峰のニッコウキスゲもこれから満開に向かうタイミングだったので、どんな風にもびくともしなかったと思われます。今度の週末は例年どおり満開の花がすべてを埋め尽くし塗りつぶしていることでしょう。

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2007年09月21日

3870 ミッキーマウスはあんなことは絶対にしないね

晴れ 気温:最低 9℃/最高 19℃

少しずつ見えないところから紅葉が始まっている。国家的あるいは地球規模の災いが見えないところで進行しているのと同じように。

たとえが悪いかな。

でも、事実はそうなんだ。

紅葉は歓迎だけど、災いには注意深くありたい。

先日、日本国の持つ信じがたいほどの幼児性を世界に開示してしまった。これはもう取り返しがつかないから、いまさら四の五の言ってもしょうがない。個人的な問題もあったかも知れないけど、これは日本社会の持つある種の原理が働いた結果が極端な形を取ったと僕は観るね。

立場や役割こそ違え、たとえばミッキーマウスはあんなことは絶対にしないね。

ぼくらのクラブのリーダー」は非戦闘員の女子供の頭上に原爆を投下しても、特攻や自爆テロはやらない。

倫理的にではなく、論理的にその様な結論を導き出すに違いない。

でも、鉄腕アトムだったらどうだろう。

自己犠牲の精神において特攻を決意する資質があると思う。

原作を最後まで読んだひとならご存知の通り。

その根底にあるのは自分よりも他者を思いやる優しさのような気がする、あるいは、その様な心の構造、心の動き、そんな気がしてならない。それを「弱さ」と呼ぶこともできるし「救い」と見ることもできる。その様な優しさの「質」がグローバルスタンダードなものに変質するならば日本も世界と互角に渡り合えるようになるのかも知れない。でもあまり好きになれないだろうな、個人的には。

一国の総理にあんなことは二度とやってもらっては困るけど、いかにも日本らしい「現象」だった。

★★★

さて・・・と、この連休に雨は降らないと天気予報が言ってます。

ペンション・サンセットはまだ空室がありますから是非お問い合せを!

あああ、また夜が明けちゃったよ、っていうかもう午前6時じゃん。(^_^;)


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2007年09月22日

3871 小理屈はやめておっとり生きる

晴れ 気温:最低 10℃/最高 18℃

紅葉はいつもひっそりと始まる。
僕らの知らない森のどこかで、それはすでに始まっている。
風の便りにそのことを聞いた。
森を吹き抜ける風は何でも知っているのだ。
いつもならからからと風鈴のように鳴る木の葉が、
今年はまだ十分な水分を保っている。
しなやかな紅葉は美しい紅葉だ。
そのことを僕らは経験的に知っている。
ある朝窓外に展開する錦絵(にしきえ)に驚かされるのは
どれほどあとのことだろう。

★★★

きのう米国流の思考回路の象徴としてミッキーマウスを取り上げたけど、じっさい、ウォルト・ディズニーが極右思想の持ち主だったことは有名な話しだ。それをもっとも良くあらわしているキャラクターがドナルド・ダックだということも。

ディズニー第1世代の僕らはそのことを大人になってから知って、愕然とした。確かに思い当たるのだ、あれは戦意高揚とまでは行かないまでも、ある種のイデオロギーを背景に含んだアニメーションだったのだ。それはきわめて米国的な行動規範を刷り込む仕掛けになっていた。

まあ、それをいったら当時極度のコンテンツ不足に悩まされていたテレビ局がこぞって放映していた米国制作の子供向けドラマもまた同様の質を持っていたと言えるだろう。救いは、そんなものの中にどっぷりつかっていた僕らがなぜか幸運にも「洗脳」されていなかったという事実だろう。

1960年と1970年の安保反対運動には米国も驚いたことと思う。

★★★

まあ、小理屈はこのへんにして、蓼科の話をしようと思う。

今日の蓼科は「まるで真夏のような天気」になった。気温はそんなに上がらなかったけど、陽射しが強烈で久しぶりに「夏」を思い出させてくれた。チェックインするお客様も、きょうは「暑い」ですねとおっしゃることが多かった。

しかし、実際の気温はピラタスの丘で最高18℃、諏訪でも25℃程度だったのだ。人間の感覚というのはじつにあてにならない。ただ、体感的にはお客様のおっしゃるとおり夏のように暑く感じたのだ。嫌な感じの暑さではなく、からっとしたある種爽快な暑さではあるのだけれど。

でも、標高1800mに迫るピラタスの丘は、窓を開けておくと寒くなるほど涼しかったのは言うまでもない。高原そして山はもう「寒い」のだ。そのことは夕方以降にお客様もご自身で体感なさったようで、信じられないほど涼しい(っていうか「寒い」)とおっしゃっておられた。

星空がとても綺麗なのだけれど、あいにく月齢が9.7あたりで「上弦の月」が中天にかかってとても明るい。そのために暗い星が見えにくくなってしまっている。これは自然の摂理なので致し方ない。気持ちを切り替えて美しい月を眺めることにすると、それはそれでじつに感動的なのだから。

これから満月までは、夕食のあと懐中電灯無しで「月明かり」だけでピラタスの丘を散歩できる。それほどここの月は明るい。じっさいに「影踏み」あそびだってできるほどなのだ。

そんな夜に愛犬のパル君と散歩するのは楽しいひとときだ。シベリアンハスキーのパル君にとってはピラタスの丘の涼しい夏も「灼熱地獄」と感じられたに違いない。なにしろ彼は氷点下20℃になるとようやく目がらんらんと輝き出すのだから。

そんな彼も月夜の散歩は比較的涼しくて心地よさそうだ。もちろん「疲れを知らない」真冬のようには行かず、ぜいぜいいって帰ってきてがっぽがっぽと冷たい水を補給する必要があるけれど。

★★★

ピラタスの丘でも、ビーナスラインでも森のそこかしこに紅葉の兆しが見られるようになった。ペンション・サンセットの庭でも写真のようにきれいな紅葉を観ることができる。もちろん局所的なものだけれど。これがいつのまにか全体に広がっていくのだ。ふと気づくと僕らは自分が紅葉のまっただ中にいることに気づくのだ。


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2007年09月27日

3876 So What?

晴れのち曇り 気温:最低 6℃/最高 17℃

ペンション・サンセットからのながめはもうすぐ右の写真のような風景になります。10月中旬です。

山歩きや、国道299号線ドライブならそれより早くて10月上旬がこんな景色になっています。10月中旬では遅いことが多いのでこのタイミングを逃さないことです。

横谷峡などの渓谷の紅葉は10月中旬。湖沼部の紅葉は10月下旬から11月上旬です。写真撮影の方はこの時期が最適です。

★★★

太陽暦では今夜が満月(月齢15)にあたるけれど、あいにく標高1800mに近いここでは雲がかかってしまっている。おとといの「中秋の名月」は晴れ渡ってとても美しい月を愛でることができたのだけれど。

それにしても朝晩の冷え込みは本格的な秋の到来を感じさせる。もう夜露もあまり降りない。大気中の水蒸気も森の水分もずいぶん減少してきているようだ。このような冷え込みが紅葉の色づきを加速させ、より美しい紅葉風景を形成する。

★★★

そういえば昨日NHKでケータイ小説の特に文体について特集していたのだけれど、完璧な「言文一致」要するに「すべてが話し言葉で語られる」世界になっている。それはそれで良いと思うけれど、言葉の美しさや想像力をかき立てられるかという観点から見るといささかさびしい。

そこには厳密な意味での「文体」というものが成立しない。

ストーリーを語るには必要十分でとても読みやすく親しみやすいが、奥行きが出しにくい。

もっとも最初からそんなものは求めてもいないし求められてもいないのかも知れないけど。

読みやすく楽しめるし共感や感動だってある。

でもそれだけだ。

それだけで十分な市場なのだろう、たぶん。

何度も言うけど、それはそれでいい。

認める。

でもね、それだけでは言葉はますます死んでいくのだ。

本音は語り尽くせても、本質を語り合うことがない。

真実の周辺をぐるりと迂回して、つきつめることがない。

それが心地よさの秘密だ。

しかしそれは、想像力を麻痺させた即物的なものの見方しか教えない。

だからどうなのさ(So What?)の無い時代に突き進んでいる。


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2007年10月04日

3983 ポスト団塊世代の僕ら

晴れのち曇り 気温:最低 6℃/最高 14℃

秋は結実の季節、実りの季節、収穫の季節だ。それは次の世代への引き継ぎの季節でもある。旧い世代が新しい世代に未来を託して去ってゆく季節でもある。その理(ことわり)を僕自身もひしひしと感じている。

このあいだペンション村のメーリングリストでちょっとした議論になって、ヒートアップしたときに「あなたは全共闘世代だろう」といわれた。が、それは大間違いだ。僕は団塊の世代以降の先頭の世代であり、全共闘世代の正義と欺瞞の両方をしかと観て成長した世代なのだ。

だからといってその世代の人たちに悪印象は持っていないし、いまだに期待してもいるのだ。ようるすに僕は一貫して意識的にノンポリティカルな人間だったし、たぶんいまもそうなのだ。僕はただ観察していた、仔細に彼らと彼らの時代を心にとどめながら生きてきた。そういう役回りなのだ。

団塊の世代、そして全共闘世代は僕らの兄や姉の世代だから、とても親近感がある。しかし、同時に決定的に違う世代、決定的に異なる時代(隣り合った時代だったにもかかわらず)を生きてきたことを実感している。

これまで僕ら「ポスト団塊の世代」について一切論じられてこなかったことが不思議でならない。時代の証人として僕らほどふさわしい世代はないのにね。

それはそれとして、議論の最中にひとを「世代」でひとくくりにして切って捨てるというのはいかにも失敬だ。そういう君の世代は「頭を低くしていればやがて嵐は去る」主義世代なのではないかと切り返してやったけど、言うべきではないかった。僕らはそういう問題について議論していたわけではないのだから。

こういう場外乱闘は良くない。


★★★


さて、「結実」の季節の話しに戻ろう。

ピラタスの丘あたりもすっかり秋景色に変わった。一面紅葉の時節にはあともう少し。しかし、そうなると、紅葉の見頃なんてほんの1日であっという間に落葉を始めるから、この風情を楽しむなら今週末から来週末のほうがベターなのだ。

見頃を迎えた紅葉はクルマで少し走った標高2000m付近でじっくりと楽しめるのだから、心配はない。日光のような一面の紅葉(もみじ)の赤に染まった景色ではない、さまざまな色の織りなすタペストリーのような紅葉景色が蓼科そして八ヶ岳の紅葉の特徴だ。

その感動は「まあきれい!」というストレートな感動とはまた質が違ったものだ。あとになって、じーんと胸にしみてくるような感動なのだ。一度体験してみないと正確には理解できないとは思うけれど。

そういえば昨日デイヴ・ブルーベック・クァルテットの「タイム・アウト」というアルバム(あの有名なテイク・ファイブが収録されたアルバムだ)が以前聴いたときに比べて感動的でないようなことを書いたけれど、ずうっと聴いていて今日になってその印象が変化してきた。

なんだか急にじーんと胸にしみてきたのだ。初めて聴いた頃の僕にロールバックしたのかもしれない。あの頃の感触が鮮明によみがえってきた。うーん、やっぱり名盤だよこれは。演奏的にはいまは絶版で手に入りにくくなっているカーネギーホールでのライヴ版が最高にエキサイティングなのだけれど。

あのライヴは、エキサイトして演奏するデイヴ・ブルーベックの「らしくなさ」がとても良かった。そのインタープレイも丁々発止と生き生きしていてこれぞジャズって感じ。いつものお行儀の良いユニットという印象とはだいぶ異なってとっても良い。

何とか手に入れて聞き直したいと思っているのだけれど、なかなか見つけられないでいる。


★★★


さて、 ThinkPad T43 ユーザーとなって、当然ながら Windows ユーザーにもなってちょうど5ヶ月が経過した。一通りのことは経験していっぱしのことを言うようになったけれど、まあこれはこれでいいOSなんじゃないかという風に思っている。そりゃあ、言いたいことはたくさんあるけど。

シームレスに Mac と Windows を使って毎日の仕事をこなしている。いま自分がどちらを使っているかなんてほとんど意識しないほどだ。だからそれぞれに快適で軽快な「お仕事環境」を作るように心がけている。

ちなみに今日納品になった新しい2.5インチ80GBの純正HDDに早速換装した。これまでの60GBのものに比べて格段に処理速度が改善した、少なくともそのように体感できる。これまで使っていたHDDはバックアップ用として、ウルトラベイ・カセットにセットしてセカンドHDDとして内蔵してしまった。

いつでも取り外して、デフォルトのDVD/CDドライブと交換できるのが便利だ。じっさいHDD交換はねじ1本外すだけでものの5分で完了した。このあたりのメンテナンス製の高さが ThinkPad を選ぶ理由だと思う。

というような感じで、最近は Mac と Windows を半々ぐらいの比率で使うようになっている。実際このブログも文章は ThinkPad で書くことが多い。なぜってこっちの方がなんだか親密な気分になれるから。ノート型パソコンというのはデスクトップ型に比べてよりパーソナルに感じるのだ。


★★★


さて、いよいよ紅葉シーズンだ。今週末も天気予報が「晴れ」とでている。

土日はたくさんのお客様がいらっしゃるので、月曜日あたりに紅葉写真を撮りにドライブしようかと目論んでいる。


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2007年10月16日

3995 そぞろ寒い時代

晴れ 気温:最低 4℃/最高 8℃

「そぞろ寒(そぞろさむ)」というのだそうだ。

秋が深まりしんしんと冷える夜には、実際以上に寒さを感じる。

しかし同時に、秋は「柔らかな季節」だ。

少なくとも僕にとっては、現実の肌触りも心が感じるそれもとても柔らかな季節なのだ。

ぐんと湿度が下がり、さらっとした冷たい風が森を吹き抜ける。

その感触は優しい。

鋭利な刃物のような「木枯らし」とはまったく別物だ。

はらはらと舞う落葉もまた疲れた心を慰撫する。

秋は癒しの季節なのだ。

同時に人生の終わりを見通すにも最適の季節かもしれない。

少なくとも僕にとってはそうだ。

良く生きることは良く死ぬことだから。

そのことにゆったりと想いを巡らす深夜。

若い人には永遠の未来のことに思えるだろう。

きみたちにとってはなにかを終わらせてなにかを始める季節なのかも知れない。

たとえば夏の恋の終わり。

小泉政権以来世の中は「わかりやすさ」がすべてになってしまった。

劇場的であり、かつ、わかりやすいこと。

しかしそのような「わかりやすさ」がもたらすのは、
奥行きや深みのないコミュニケーションなのだ。

中身がないからこそ、「わかった」ような気がするのだ。

だからこそわかりやすいと感じる。

真実は単純だがわかりにくいものだ。

真理はシンプルだけれどほとんど理解不能なのだ。

だからひとは容易に悟りを開けない。

皮肉なことに、わかりやすさの欺瞞生を暴くためには、
「わかりやすさ」のトリックを使わなければならない。

そんな時代になってしまった。

レトリックではなく、トリックを使う。

ほんとうに、皮肉なことだ。

そぞろ寒い時代になってしまった。


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2007年10月18日

3997 三五五三のリフレイン

晴れ 気温:最低 1℃/最高 9℃

 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

(夏目漱石著「草枕」より:青空文庫


なあんだ、「草枕」に全部書いてあったんだ。思春期に読んだことあるのにね、当時は全然理解していなかったってことか。

いまは僕も山路(やまみち)を登りながら、そう考えるよ。

それはさておき、

読んでくれているひとはごく少数だろうけど、書くことができなくなった僕は過去の戯言を繰り返すしか能がないのだ。

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エントリーナンバー 3557 2006.11.08 を繰り返す:

本音とか正直とか公正とか、そんな言葉も概念もおとぎ話の中にしか出てこないのだ。世界は嘘と欺瞞と不公正に満ち、不公平がその実体に違いない。愛という名のメタファーに救いを求めるほか無い。しかし、メタファーはあくまでもメタファーでしかない。愛は人間存在によってのみ存在させることができる。愛はそのままでは生き続けられない。

世の中が公平であるとか、神が正義であるとかいうのと同様にそんなものはわれわれの妄想でしかない。信じる努力なしに愛は永遠ではないし、闘う勇気無しには正義は存在すら危うい。戦争や闘争は人間の原初的性向であり、平和や融和はその合間に訪れる僥倖(ぎょうこう)に過ぎない。

だからこそわれわれは演技するのだ。この世界は本来的に平和であるかのように、人間は平和をなによりも愛する生き物であるかのように、人間とその社会は必然的に正義と公平を志向するものなのだと。社会正義は必ずなされるものなのだと。愛さえあれば平和は必ず訪れるものなのだと。

別に悲観的にものを見ているわけではない。ことさら斜に構えて世界を見ようとしているのでもない。僕はただ可能な限り公平に見極めたいだけなのだ。僕なりのささやかな勇気を持って。

先日僕は、この日記を書くことが僕の生業でもあるペンションからお客様を遠ざける結果になっているのではないかという疑念を持っていることを告白した。本当にそう考えているのだ。現代社会においてひとは耳に心地よいものを志向する、自我に心地よいものにのみ心が傾く。

時代はまさに誘惑の時代を迎えている。社会はいまや、少なくとも、市場は「女性原理」に従って動き始めている。それは倫理を越えた原理である。それは「心地よさ」こそが市場原理であるような世界だ。


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以下、今日のコメント:

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少なくとも現代消費社会は「女性原理」に逆らうものは生き残れない時代になった。

それでみんなは幸せになっているのだろうか。

女性だけでも幸せになっているならそれはそれでよいのだけれど、

どうも女性も男性もあんまりしあわせそうには見えないもの。

「女性原理」だけ、ではダメなんだ、たぶん。

「男性原理」と両方があって初めてバランスのとれた世界が実現できるのだと思う。

つまらない結論だけど、真実はそんなものさ。

だから、誰も聞く耳を持たない。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。

このペンション村でもね、だから僕は嫌われている、たぶん。

情に棹(さお)さして流される方が心地よいもの、誰だって。

寛容に振る舞ったほうが得だし、気分が良いもの。

僕だって例外ではない。

でも誰かが理を説かなければ間違った方向に突っ走ってしまうから。

でも、もうそれもやめた。

多少、利に聡く(さとく)なったのかもしれない。

ほんとうのところは、もう疲れちゃっただけなのだけれど。

だから、口をつぐんで「空気を読む」ことだけに集中しよう。

しばらくは自分のことだけを考えて暮らすことにする。

今一度自分の足場を固めなければ、もうなにも言えない。

勝てば官軍というのは、どんな社会でも普遍の法則なのだ。

群れるんだったら力のある派閥に属することだ。

それができないのだったら徹底して「いいひと」になりきることだ。

唯我独尊の個人であることを断念しなければならない。

「個」あるいは「近代西欧的自我」を確立することは封建的地域共同体にとっては極悪な罪なのだ。

それは会社だろうが田舎の地域社会だろうが変わることなく根付いた原理原則であることを僕は確認した。

地域社会に順応した「パブリックな自我」を生きることこそが望まれている。

個人の集まりが社会ではなく、生きるための共同体の一部として個人があるに過ぎない。

オオカミのように群れて生きるのではなく、集団として全体主義的に生き抜いてきたのが人類なのかもしれない。

原初より人類はそのような生き方を脱してはいなかったのだ。

そのこともまたいま見えてきた事実のひとつだ。

それを改めない限り、暴力も戦争も決して無くならない。

それは精神あるいは心の問題ではなく、構造的な問題だからだ。

2007年10月29日

4008 ディフェンシブな社会

曇り時々晴れ 気温:最低 0℃/最高 10℃

最近電話で問い合わせをしたりするときに相手の企業なりお店なりの対応に「なにかが変わった」と感じるのは僕だけだろうか。ひとことで言ってしまえれば彼らは「身構えている」のだ。フレンドリーではなくむしろ「ディフェンシブ(防衛的)」なスタンスの応対なのだ。

これまでと少しも変わった問い合わせのしかたや態度を取っているわけではないにもかかわらず、そのような応対をされるのはいささか不本意であるわけだ。おそらくどんなに丁寧で礼儀正しく友好的な態度で連絡を取ったとしても、彼らの応対のスタンスは変わらないのではないかと思う。

それほど「クレーマー」事案が増加しているのだろうか。おそらくは、そうなのだろう。そのことはインターネットショッピングするときにも感じる。ホームページの注意事項がより詳細にまた、規定の記述がより法律に則った厳密なものになってきているのだ。

まあ、ペンションのホームページでさえ確かにそうしたクレーマー事案対応にならざるを得なくなってきているのは事実なのだが。企業等に対して社会通念上あるいは法律的に妥当性を持った「クレーム」を申し立てるひとと、そうではなく昨今「人格障害」と呼ばれているような根拠のない「難癖としてのクレーム」を申し立てるいわゆる「クレーマー」とが混同されているように感じる。

おちおち商品の不具合を知らせて相談することもできなくなってきた。ここにいたるまで消費者が過剰な反応をしすぎたのかもしれない。些事に渡って消費者があまりにも攻撃的な態度を取りすぎたのかも知れない。いまや、企業やお店が消費者に身構え、場合によっては反撃し始めている。まともな消費者にしてみればそれは不当な反撃であり、まともに話も聞かない企業や店の出現でもあるかもしれない。

日本的な心優しいホスピタリティーはいったいどこに行ってしまったのだろう。

しかしまっとうに商売してきた老舗がたった一度の不祥事のために、社会正義の錦の御旗の元に解体抹殺されてしまうご時世だ。それもまた極端に走りすぎている。そんなものは社会正義でも何でもない。消費者とそれをあおるマスコミの恐怖政治が始まっている。

それは犯罪者すべてを無差別に死刑に処するに等しい所行ではないか。まず社会的に更正させる道を模索するのが健全な社会というものではないのか。「世間様」が消失して久しいが、以来我が国はじつにバランスを欠いた米国流のぎすぎす社会になってしまったようだ。

米国が嫌われるのは自由と正義の名の下に世界を不幸にしているからだ。世界中を力づくで米国化することが彼らの言うところの「グローバリゼーション」であり「グローバルスタンダードの実現」なのだ。それは米国流の格差社会化による「不幸のシステム」の輸出でもある。

米国に依存しなければ生きていけない日本の構造的問題を改めることこそが本当の「構造改革」なのではないだろうか。格差社会化をすすめ、福祉を切り捨て、富の再分配をやめることが「構造改革」なのでは断じてないと思う。


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2007年11月10日

4020 「袋だたき」ゲームか

曇 気温:最低 - 3℃/最高 6℃

今日はこのブログについて書く。

「ブログ」という言葉がまだ無かった時代から11年以上書き続けていると、いささかくたびれてくるし書く内容だってそういつも斬新なことが書けるわけでもなくなってくる。4020エントリーも書けば充分というか、なんというか。

昔書いたことは僕自身すっかり忘れてしまっているほどだから、自分でバックナンバーを読み返して、「これってオレが書いたの?」なんてびっくりすることも多い。干支ではないけれど12年というのは物事が円環を描いて元の場所に戻ってくるのにちょうど良い時間なのかも知れない。

僕はしだいに振り出しへと戻りつつあるのを感じている。12年間の長旅を終えて、ふたたび出発点に戻ろうとしているのをはっきりと心と体で感じている。だから書くこともまた昔書いたことの繰り返しの様相を呈してくるのは、ある種の必然なのかも知れない。

ということで、昔のコンテンツ「オーナーのひとりごと」へのリンクを文末のリンクに追加することにした。また、もうひとつのコンテンツ「And I Love Her」も追加した。まあ、いずれもへたくそな文章と内容なので、いまさら恥をさらすのもどうかと思ったけれど、それらもこのブログの一部なのだからしょうがない。

そもそもこのブログのタイトルは「オーナーのひとりごと」だったのだ。

ひとりごとだからこそいろんなことを勝手放題書くことができたとも言える。しかし時代は変わり、「自主規制」という名の、あるいは情緒的で非論理的な「無言の圧力」が日増しに増大してきている。「気に入らないやつを大勢でよってたかってたたく」というじつに卑劣・愚劣な行為を良しとする風潮だ。

マスコミ諸君、社会正義の実現とは「袋だたき」ゲームなのか。たとえ殺人者であっても更生の道を模索するという社会制度なのにもかかわらず、ミスを犯したり法律に抵触したり社会倫理にもとる行いをした企業に対しては、更生の道を断ち潰してしまうのが社会正義なのか。不思議なことにマスコミ各社だけは例外的扱いで、潰されたところなど1社もないではないか。どんなに大きな不祥事でもいつの間にか立ち消えになってしまうではないか。君たちに社会正義を標榜する資格などない。

ことかように理不尽で危うい社会なのだ、いまの日本社会は。

僕のようなペンション経営者などは、そうなると、危ないことはいっさい言えないことになる。

結局、揉み手しながら耳あたりの良いことだけを言っているのが商売繁盛の秘訣なのかとも思う。多分そうなのだろう。しかし、お客様の立場に自分が立ったとき、そんなことをしてもらってもちっともうれしくないし、かえって気分が悪いと感じるのは「ちがう」のだろうか。

まあいいや、世の中がどう変わろうと、僕はひとりの人間として誠実にお客様と向き合いたいといつも思っている。


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※後日、僕と考えを同じくする識者の記事と出合った、我が意を得たりだ。

2008年01月13日

4084 主権在官国家

晴れ 気温:最低 - 12℃/最高 - 6℃

「お得感」がこの国のマーケティングを支配していることはじつに哀しい現実だと、わたしは思います。というか、それはいまや「世界」を支配している原理になりつつあるのかも知れませんね。残念ながら。

そもそもモノやサービスを購入する人を「消費者」と呼ぶことが正しいのでしょうか。モノやサービスは「消費」されてしまうモノなのでしょうか。カネはその対価でしかないのでしょうか?

サンセットは「消費」されたくはないのですが・・・やっぱり「消費」されちゃうのかなあ。(^_^;)

サラリーマン時代、大衆消費社会理論の中でマーケティング戦略の一翼を担いながら、わたしはこれは違うと想いつづけてきました。しかし巨大広告会社というのは官僚組織のレプリカと言っても良いところだったのです。時代の最先端を疾走するというのは幻想に過ぎませんでした。そんなモノは手段に過ぎず本当の価値など観ようともしないのです。

それはさておき、

ヒト、モノ(やサービス)、カネは「循環」すべきものなのです。本来そのような出自(しゅつじ)だったはずなのです。ヒト、モノ(やサービス)とそれらを媒介するカネとは相互に融合と分裂を繰り返しながら世の中を効率よく循環するものだったはずなのです。

そもそも貨幣経済は物々交換にかわる、互換性最大の画期的プロトコルだったはずなのです。

それがいまでは実態経済すら無視してカネが暴走を繰り返しているのだから、このアナーキー状態はいったい何なのだろう。そこに隠れたあるいはあからさまな意図を感じるのは、わたしだけではないと思う。

バブルを崩壊させたのも、アンタイムリーな消費税率アップや増税や金利引き上げ等々の失政は、じつはすべて意図的なものだったのではないのかと勘ぐりたくなってきます。

そのことによって明らかに「利益」を享受している人たちが居るのがその証拠です。

それにつけてもこの一票の軽さでは、こんなことを言っていてもしょせん「ごまめの歯ぎしり」なのでしょう。どこが民主主義国家だ、どこが三権分立だ、どこが主権在民だ。じつのところは、民主主義のようなかたちだけはとっている国家、三権は相互癒着して腐敗しはじめている、官僚が実権をすべて握っている主権在官国家ではないのだろうか。

やれやれ・・・。


※今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイ の許諾を得て転載しています。
 とても賑わったきょうのピラタス蓼科スノーリゾートのゲレンデの様子です。


2008年01月15日

4086 戯れ言

晴れ 気温:最低 - 12℃/最高 - 7℃

「完璧な政治的共同体とは、中産階級の数が多く、かつそれらが支配下に置かれていることであるーーアリストテレス」

アリストテレスが残した数多くの「法則」のひとつである。

かつて我が国はまさにそのようであった。

しかし、いまやそれは「現実」ではなく過去の事象として「歴史」の判断にゆだねられている。


☆☆☆


最近つくずく思うのだけれど、世の中「思いやり」がなくなった様に感じます。相手の立場とか心持ちとかをいっさい無視して、ひたすら自分の主張や利益のために攻撃するのが良し、とされているように思われます。

まあ、これが「グローバリズム」の流儀なのでしょうね。

その大本である米国ではいまだに「進化論」が否定されていたり、まともに教えることができない宗派や地域があると言うことをニュースで知って、愕然としました。宗教の弊害ここに極まれりの観がありますね。

何を信じようがそれは絶対的自由が保障されているのだから、その人たちの自由なのだけれど、自分たちと違う信仰や信条を持った人々を「異教徒」とか「異端」と切り捨てて迫害したり殺戮したりするのだけはやめて欲しいものです。

これはキリスト教だろうが、イスラム教だろうが、その他のあまたある宗教だろうが、同様です。

信仰のない世界はおそらく暗黒あるいは虚無だと思うから、だからこそ尊い信仰者をミスリードするのだけはやめて欲しいと思うのね、個人的には。


2008年02月06日

4108 積雪地のルール

晴れのち雪 気温:最低 - 13℃/最高 - 4℃


軽い雪なので屋根の積雪がなかなか落ちません。自然落下式屋根なので、もっとも急な部分で55度もあるのに、それでも落ちないのですよね。鋼板屋根と接する部分の雪だけが溶けて凍結しているためにそれが滑り止めになってしまっているわけです。

というわけで、陽射しが暖かかったり気温が急に高くなると「表層雪崩」が起きます。ウチの屋根でもそれが起こるのです。その速度は秒速5m以上なので気づいたとしてもよけることはできません。雪だけではなく岩のように硬い氷の固まりがまず落ちてくるのでとても危険なのです。

直撃を受けたら命が危ないのです。

ということで、ピラタスの丘に限らず、積雪のある地方では絶対に屋根や軒の下の「雪の落ちる場所」を通行しない、そのような場所に近づかないという注意が必要です。特にお子様は遊ぶことに夢中になってしまうとそんなことには頓着無くなりますので、目配りをしてあげて下さいね。(^^)

また、積雪の下には大きな穴が空いていたり、雪庇になっていて下が崖になっていたり、鋭利な設営物があったりしますから、やたらに積雪に踏み込んではいけません。

また、雪の下には貴重な高山植物が眠っていますし、さらに、4時間から8時間もかけて除雪してそのような状態に整備した人たちの配慮にも心を向けてあげて下さい。

除雪したひとは汗水垂らして安全のみならず景観にも配慮してそのように雪を積んでいるのです。それを踏み荒らすと景観が台無しになってしまったり、除雪済みの部分に雪が飛んでアイスバーンになって他の人が転倒する原因になったりするのです。

「郷に入らば郷に従え」の言葉どおり、一つ一つのことには長い伝統に培われた生活の知恵やしだいがあるわけです。ですから、もし地元の人間に上記のようなことを注意されてもどうかお気を悪くなさらないでいただければ幸いです。最終的にはそれがお客様の安全に直結しているのです。

わたしも都会からこちらに来たので、そんなことは実際に自分が除雪をする立場にならない限り知ることはなかったように思います。そういうことで、ご参考までに、「積雪地のルール」のほんの一部を、お知らせするしだいです。


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2008年02月18日

4120 Don't Worry, Be Happy.

晴れ 気温:最低 - 16℃/最高 - 8℃


昨年だったっけ、話題になった、映画「フラガール」を見て改めて感じるところがありました。

いまの日本の状況は過去にもきっとあって、っていうか、もっとひどいことがあったよね。

でも、そのたびに日本は、庶民はそれを乗り越えてきたのだと思う。

だから大丈夫、なんとかなるさ。

最近はそう思うことにしています。

だからといって何もしないのではありません。

これでも精一杯がんばっていると思います、そうは見えないかも知れませんが。(^^ゞ

いつものんびり、まったりしているように見えるシベリアンハスキーのパル君も、そうなのかもしれませんね。ワンコだってワンコなりに大変なのだ、たぶん。

きょうもひきつづき、子犬時代のパル君(シベリアンハスキー・雄)の写真です。


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2008年03月16日

4147 確定申告そして桜の季節

晴れ 気温:最低 - 3℃/最高 + 5℃

蓼科の桜の満開はちょうどGWにあたります。今年ももうすぐこんな春爛漫の情景が見られるのですね。高原のお花見はまた格別です。諏訪太鼓などのイベントや、甘酒の振る舞いや、ライトアップなど、蓼科は春のお祭りで盛り上がります。写真は蓼科湖畔にある聖光寺の境内のソメイヨシノで、450本ほどが一気に満開になります。写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。

☆☆☆


昨日の日記をいま書いています。現在3月17日(月)午後5時半です。自分で確定申告をしているひとにはぴんとくると思うのですが、きょうは平成19年度の確定申告の締め切り日だったのです。

確定申告が終わるたびに、今年度こそ普段からきちんと伝票の起票と会計ソフトへのデータ入力をきちんとやるんだ、と決意するのですが、夏の繁忙期あたりで挫折してそれっきりサボってしまうというパターンになってしまいます。

じつにお恥ずかしい限りですが、どうにもこの手の作業というかお仕事は僕には苦手なのですよね。ひとからは良く「きちんとしている」というように見られることが多いようなのですが、じっさいはかなり「アバウト」でずぼらなひとのようなのです、最近自覚したのですけれど・・・。ははは。(^_^;)

というようなしだいで、今回も数日徹夜で作業しての「やっつけ仕事」になってしまいました。ただ、いいわけするわけではないけれど、こうやって集中的に決算作業を行うと、普段は見えない「数字から見た自分のペンションの姿」が見えてくるのですよねー。

問題点や、反省点や、普段気になっていたことを数字で客観的に検証できたりします。これはとっても貴重な体験です。いつもお客様目線で物事を見るように努めている「つもり」でも、じつはそれは勝手な思い込みに過ぎなかったなんてことに気づかされたりもします。

一応「青色申告」なので損益計算書と貸借対照表を自分で作成して、決算処理を行うわけですが、これにはなんと「簿記2級」程度の知識が必要だと、いま使っているソフトウエアの説明書きにありました。そんなの無理じゃーん、ということで、「見よう見まね+詳しいひとに聞いて回る」という方法で何とか形だけは作れるようになりました。もちろん最期のチェックはプロの方に見ていただくようにいていますが。

いずれにしても法律とか、税金の知識は無いと確実に損をするかひどい目に遭うようですから、できる限り学ぼうと、まあずぼら人間なりに努力はしている「つもり」なのですが、それがなかなか・・・。

しみじみと思うわけですが、やはり税務会計にたけたひとはご商売も上手です。客観的に自分の商売を見つめることができて、そのうえで方向性を見定めることができるしその結果を数字で客観的に評価できるからだと思います。あああ、爪の垢でも煎じて飲みたい想いです。

それにしても、急激なこの暖かさはいったい何なのでしょうね、山麓の街に降りるともう暑くてクルマのオートエアコンが入るほどです。ピラタスの丘ペンション村の中の道路も全面乾燥路面になっているほどです。いまなら山麓からピラタス蓼科スノーリゾートまですべて換装路面を走ってこられます。

しかし、いつ雪が降るかは神様の気分しだいなので、タイヤチェーンなどの滑り止めをお忘れ無く!

2008年04月10日

4172 鹿男あをによし

雨 気温:最低 - 1℃/最高 + 1℃


シジュウカラやコガラが庭にやってくるようになった。こんな激しい雨の中でも、彼らはとても元気に飛び回っている。先日一度だけ聞いたウグイスの声は近くでは聞こえない。ホトトギスもアカハラもカッコウもまだ歌い始めていない。若い狐がシベリアンハスキーのパルに親近感を抱いてよくやってくる。僕が心惹かれたあの若い牡鹿にはその後出会っていない。

今日も終日雨降りになった。ここのところ、天気予報がやけによく当たる。当たると言えば今日2口買ったLOTO6が両方とも5等に的中した。当たらないよりはうれしいけれど、うれしさもちょびっとなりおらが春といったところで、じつに微妙である。でも400円の元手が2000円になったのだからそこそこですね。昔取った杵柄で、確率論に基づく予想数字が当たり出したのかも。

この標高(1750メートル)では雨だけれど、北横岳や蓼科山の山頂部を見上げるとしっかりと積雪しているのが見える。ウチのペンションのラウンジの窓から標高2500メートルの山頂部がすっかり見えるのだ。空は濃い灰色の雨雲に覆われ、そこから水と言うよりは氷の粒のような雨滴がしたたか地表を打つ。その音はまさに太鼓を打つ音に似て半端ではない。

目の前の谷には山麓から駆け上がってきた白い雲が満ちて、やがて大きな雲となって八ヶ岳を駆け上っていく。山水画のような、じつに荘厳な情景である。

まだ1メートルはあろうかという積雪もこの雨に少しずつ溶けて流れ出している。冷え込みがゆるんだので雪解け水で路面凍結することも少なくなった。落葉松は赤褐色の新芽をつけ、その色味が山々を染めつつある。ライトブラウンの秋の紅葉とはまた違った風情でこれも良いものだ。

今年ウチは区の隣組長(伍長)という役がまわってきたので、その用事で蓼科高原会館に出向くと、蓼科区の役員の人たちと久しぶりに顔を合わせることができた。それぞれ旅館やホテルや観光施設の社長さんたちで年齢的にも近いので、無言の同志意識みたいなものを感じる。観光不況という先はおろか現状も見定めにくい現象を前にして、みんなたいへんなのだけれど、蓼科に対する強い思いを共有していることにかわりはない。

この天気のおかげで、蓼科の桜はうまい具合にGWに満開のタイミングが合いそうだ。あまり暖かなよい天気が続くと早く咲いてしまうので、毎年はらはらする。でも、ことしはきっとベストの条件になるだろう。

それなりに写真撮影はしているのだけれど、本来僕は文章メインのひとなので、ついつい写真掲載がおろそかになってしまう。写真を載せてみれば、ぐっとショウアップして、より魅力的な体裁のブログになることは承知なのだけれど、ここ数日はちょっと他の仕事で忙しくて・・・。いましばらくお待ちくださいね、まとめて載せますから。

そういえば昨日の深夜、テレビドラマでとても気に入った「鹿男あをによし」の原作本を読了した。テレビとはまた違った充実感を感じさせてくれる小説だった。しかし不思議なことに昨秋以来、僕の周りには美しい野生の、「鹿」と「狐」と「鼠」が徘徊していることに気づく。ここは元々そのような土地なのだ。直線距離で10キロもない所に諏訪大社もあるしね。何かの因縁というか、シンクロニシティを感じる。

いま僕は少しずつではあるけれど、かつてのようにこの地の自然(あえて言うなら神々や精霊)との交信を再開しつつあるように感じている。ありていに言ってしまえば、自然との一体感を取り戻しつつあるという方がわかってもらえるかも知れないけれど。


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2008年04月14日

4176 個人的にはケータイは嫌いですが

みぞれのち雨のち晴れ 気温:最低 - 1℃/最高 + 10℃

朝のうち霙(みぞれ)、けっこう冷えましたが氷点下1℃ですから「ふつう」です。やがて雨になり、午後遅くには晴れになりました。劇的な雪解けを迎えています。信じられないほどの速度で雪が消えていきます。森の向こうからは、おびただしい量の雪解け水を落とす渓流の轟音が聞こえてきます。GWまでには根雪もすっかり消えて、「あれ?雪なんて積もっていたの?」ってな風景に変わってしまいます。だからもうタイヤチェーンは不要です。早めの高原ドライブもまた良いものです。真っ白に冠雪した山々が本当にきれいですよ。自民党のごり押ししだいでは、5月1日からはガソリンの再値上げも懸念されるので、今年のGWのドライブ旅行は4月中に予定するのが正解かもしれません。

いまやまったく官僚機構を御しきれないだらしのない政治になってしまったようです。これでは議会制民主主義国家ではなく、官僚独裁帝国主義国家と言ったほうがいいのではないかと、おじさんは思うのだよね〜。

さて、今日の話題。

個人的にはケータイは嫌いなのですが、いまさら無くすわけにも行かないでしょうね。なにしろ便利だし、「ユビキタス社会の先兵」とも言えなくもないし。はいそうです、僕は時代遅れの頑固じじいの「変人