晴れのち夜から曇り 気温:最低 8℃/最高 16℃
朝晩の冷え込み続く
きのうから急に気温が下がり始めたようです。一言で言ってしまえば「朝晩の冷え込み」ということなのですが、秋の冷え込みという感じではなく「夏の冷え込んだ朝」という印象です。その証拠に朝は夜露でテラスがびっしょりと濡れています。まるで雨が降ったみたいです。
こうした冷え込む夜が続くことによって紅葉はより色鮮やかになっていくわけです。だから、ぼくらはこういう気候は大歓迎です。別に寒くてしょうがないということでもないし、日中はほどよい気温と日差しでかなり快適に活動できるのですから。
何度も言いますが、ここでは「残暑」というものがそもそもありません。だかいます。朝方の凛とした大気と空の色はまさに「初秋」を感じさせます。クルマのエンジンに火を入れるとき、きょうはエアコンが入るかなそれともヒーターが入るかなと、ちょっとゲームのような感じで楽しんでいます。
今日はヒーターが入りました。オートエアコンの温度設定は24℃です。で、ヒーターが入りました。午後2時、外気温計は20℃を示しています。試しに窓を開けてみると、なにか聞こえる。エンジンを止めると周囲はしんと静まりかえり、耳の奥からキーンという音が聞こえてくるほどです。
そして聞こえたのです。もう死に絶えたとばかり思っていた蝉の声が。蓼科で、それもこのピラタスの丘でエゾハルゼミ(6月に鳴いて、そして終わります)以外の蝉の声を聞くこと自体異例のことなのに、9月のこの時期に蝉の声を聞くなどということは想定外のことなのです。
やはり温暖化の波はこんな山岳地にまで及んでいるということでしょうか。
さて、きのうの続きです。
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僕にとっての村上春樹とは(2)
僕にとって村上春樹は自分の文章作法のほとんどすべてを学んだ作家のひとり
です。もちろん「模倣」はしていませんが、多少スタイルが似てくるのは致し
方ないのかも知れません。基本的には自分の「内的言語」レベルでのはなしで
す。
彼は「メタファー」の作家と言っても良いのかも知れません。ゲーテがファウ
ストに言わせたあの科白「万物はメタファーである。」という、まさにあの意
味において。
彼の作品は若き日に彼が学んだギリシャ悲劇の様式美と厳格な構成によって精
緻に組み立てられた「寓話」として読むと、その意図を読み違えることが少な
いように感じています。その構成力と、さりげなくてめだたないけれど精緻な
しつらえには舌を巻くばかりです。
もちろんストーリーテラーとしての「ぼく」(に代表される主人公)のキャラ
クターに村上春樹自身の世界観がぎっしりつまっているわけだけれど、僕は
(そして多くの共感者)は「ぼく」に自分を重ね合わせつつこの「ワンダーラ
ンド」を不思議なリアリティーをもって突き進んでいくことになります。「す
べてはメタファーである」というキーワードをしっかりと胸に技はしっかりとその作品の輪郭をとらえていないと、「海辺のカフ
カの」後半のストーリーがまったく訳の分からないものになるかも知れませ
ん。
「ノルウェイの森」がベストセラーになる以前は、その形而上学的展開から女
性には敬遠される作家ナンバーワンだった村上春樹です。そして男性しか抱く
ことのない「憧憬」。社会的にはちっぽけな存在かも知れないけれど、自分な
りのハードボイルドなルールを絶対に譲らない主人公。
フランソワーズ・サガンやボーボワール、卑近な例では吉本ばななの作品を男
性が100%は理解できないのと同様に、女性には村上春樹の作品の100%
を読み解くことはできないのかも知れません。それはしかたのないことです。
男性と女性とは根源的にまったく異なった世界に生きているのですから。我々
がこの世界や価値を共有していると想っているのは美しい共同幻想に過ぎませ
ん。
村上作品はそのこともまた、僕に教えてくれました。
大学時代には本を読もうと決意して4年間で3400冊、文字通り目がつぶれ
るほど古今東西の書物に埋もれて(ふつうの学生生活もして)過ごしました
が、後年、村上春樹という作家に出会えただけでもその甲斐あったというもの
です。彼の作品を読む上で大学時代の乱読が大いに役に立ったことは言うまで
もありません。それ以来、努力はほとんど報われることのない想いに終わるけ
れど、多少は役に立つこともあると、いうのが僕の心情です。
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参考文献(蓼科高原日記2004年1月29日付より):
クリシュナムルティが言うように「思考が時間である」。あるいは、ラビンド
ラナート・タゴールが言うように:
「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るた
めに私たちが使っている概念なのである。」
「もしリアリティをめぐるすべての知識が経験にはじまり経験に終わると
するアインシュタインが正しいならば、出来事の意味を汲みとる源となるよう
な外郭のリアリティは存在しないことになる。」
「われわれの知覚がそのようなものであると受け止めたもの、それが世界
だ。そのことを疑う者はいない。われわ
晴れ 気温:最低 0℃/最高 8℃
ようやく夢を見なくなった。正確に言うなら、覚醒後、夢を見たことを自覚しなくなった。いつだって夢は見ているのだ、脳が生きていて眠っているときには。
この秋は夕方や早朝に野生の鹿の遠吠えを聞くのが日課になった。キューンというもの悲しげなその声に深い森を想像し、じつは自分がそのまっただ中にいることを自覚する。以前はこの季節の夕刻に必ず聞いていたアカハラの歌声を聞くことが無くなったのはやはり気象異変の影響なのだろう。
至福の時は、そう思った瞬間から消え始めるものなのだ。
時間よとまれ、と願う。
しかし時間は止まらない。
どんどん先に行ってしまう。
深夜、いや、もう夜明けだ。愛用の旧いラジカセでマイルスの「ブルー・イン・グリーン」を聴きながら村上春樹の「ノルウェイの森」を読む。1987年製のビクターのラジカセで聴くマイルスは古き良き時代のにおいがする。1987年発表の「ノルウェイの森」もまた、僕の青春時代の香りがする。
外は静寂に支配されている。窓外にはシベリアンハスキーのパルが静かな寝息を立てている。野生鹿の遠吠えもいまは聞こえない。野鳥のさえずりもこの季節にはもう聴くことは出来ない。ピラタスの森は息を潜めて夜明けを待っている。
紅葉や観光情報のことばかり書くのにはいささか疲れてしまったというのが本音なのかも知れない。もっと他に書きたいことがあるのかも知れない。だから書けなくなってしまったのだろう。あるいは、書くことが苦痛に感じられるのだろう。
こんな夜明けには自分が本当に愛したのは誰だったのか、本当に愛したものは何だったのか、そんなことがぼんやりと見えてくる。そのひとがいまどうしているのか気にかづれない。
それはそうと、僕はよく池澤夏樹みたいな文章を書くと言われることがある。そうかも知れない。彼も僕が好きな作家のひとりだから。しかし僕は文章作法のほとんどを村上春樹の作品を読むことによって学んだ。特に真似するつもりはないけれど、僕がもっとも好きなスタイルだからだ。
池澤夏樹が僕が高校時代にどっぷりとはまっていた福永武彦の息子だと言うことを最近知って、ああなるほどと合点がいったものだった。ひとのセンティメントは変えようとしても変わるものではないということだ。
ちなみに僕が抱く世界観は池澤夏樹の「スティル・ライフ」の冒頭の文章に的確に表現されている。長いので引用は避けるけれど、機会があったら是非一読することをおすすめする。
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