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5164 カラヤンの哀しみ

  
2010年9月14日(火) 天気・最高/最低気温は未明のため不明。きのうは最高18℃、最低10℃、雨のち晴れ。
 
 

  
ぼくの目に映る庭のコスモス。あなたにはこれとは違って見えると想う、たぶん。観る人によって風景は違って見えるものだから…
秋を迎えた蓼科の風景がこころを慰めてくれます。山岳部の紅葉の見頃は10月にはいったらすぐです。
写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。
 
蓼科はもうすっかり秋です。朝晩だけではなく日中も秋そのものです。しかし、日中は夏のようなさわやかな陽射しがさんさんと降り注ぐので、夏らしさも楽しめる、一粒で二度おいしいグリコみたいな季節を迎えている蓼科高原です。遅い夏休みにぴったり!初秋の旅行にも最適です!
  
     
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花…
 
 
「花を見るとき、見る者は、花になる。」というのはヨガにせよなんにせよ、瞑想をしていると自然に理解できることだ。まあ、いろんな本にも書いてあるけれど、実際には瞑想を続けているうちに自然に当たり前のこととして知るものなのだ。
 
花というのはじつに不思議な存在だと想う。これは個人的な想いなのだけれど。
 
もしこの世界に花というものがなかったとしたら、どんなにか殺伐とした世界になっていたことだろう。花と言わずとも、植物がなかったとしたら、どれほど不毛な風景がここにあったことだろう。
 
マーラーの交響曲第5番をヘッドフォンで聴きながら、そんなことを考えていた。未明だから、ひとつひとつの楽器の音がはっきりと聞こえる。カラヤン指揮のベルリンフィルの演奏ということもあって、録音のダイナミックレンジが広く、カラヤンならではのプレゼンテーションとしての音楽ということもある。
 
今年はグスタフ・マーラー生誕150年だそうだけれど、そのこと以上にカラヤンのことを考えてしまう。カラヤンが指揮する演奏を聴いているといつも感じる、孤立を辞さない「決然とした意志」とその「諦めと哀しみ」を感じる。
 
それは「孤高の立場」に立たなければ成し遂げられないなにものかに挑むひとの姿と言い換えてもいい。その成し遂げたい何かがどのようなことであったのかについてのぼくの考えは別稿に譲る。
 
いずれにしても、巨匠とか帝王と呼ばれるひとの奢りも超然とした態度も胸を張るような高揚感もそこにはなく、ただひたむきな営みがあり、凡俗には理解しえない哀しみがある。
 
秋の空気の中で聴くカラヤンは、ことさらその感を強く感じさせる。
 

  
 
☆たてしなラヂヲ☆

http://twitter.com/tateshina_radio
 
 
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2010年09月14日 05:24に投稿されたエントリーのページです。

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