2010年9月10日(金) 天気;快晴、気温;最低9℃、最高18℃、今週末は晴れの予報です。(この日記は翌日9/11未明に書いています)
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庭に咲くコスモス。秋の蓼科の風景がこころを慰めてくれます。山岳部の紅葉の見頃は10月にはいったらすぐです。
写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。
蓼科はもうすっかり秋です。朝晩だけではなく日中も秋そのものです。しかし、日中はさわやかな夏の陽射しがさんさんと降り注ぐので、夏らしさも楽しめる、一粒で二度おいしいグリコみたいな季節を迎えている蓼科高原です。遅い夏休みにぴったり!初秋の旅行にも最適です!
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創作としての風景
今日載せた写真は、夕方撮った庭に咲くコスモス。ぼくの目には必死に何かを求めているようにも映るのです。ひとがものを見るとき、それは創造的行為なのだと想います。だから、風景は人の心の中にあるのであって、そのへんにフルパッケージでころがっているものではない、と。
たとえばそこに森があって、樹木があって、草花がある。しかしそこに風景が見えないとするならば、それはあなたの心の問題なのだ。ぼくだってそんな時期が年に何度もやってくる。景色が見えない。確かに森はあるし花もあるのだが、それが風景として見えてこない、感動がない、美を感じない。
こうして本物の自然の中に長い間暮らしていると、マスメディア、特に安っぽいテレビ番組で思いっきり加工して「作った」、「感動的な風景」を見てうんざりすることが少なくない。もちろんまともな番組制作者はそんなことはしないから、本物の感動を伝えきっているもののほうが多いと想うのだけれど。
そんな安物の風景ばかり見ていると、本物の自然を目の前にしたときに「風景が見えない」という病が現れてくるものなのだ。風景とはひとが主体的に見つけ出し切り取り抽出した自然のことだ。大事なのはハイフィデリティ(高度に本物に近い)ということではなくて、こころで見た風景をどのような手段でどのように表現できるかということだ。
写真が上手なひとはカメラで、絵が得意な人は絵画で、言葉にぬきんでたひとは文章や詩で、それを表現すればよい。自分なりのレベルで良いのだ。自分が後になって、懐かしく思い出す手がかりとなればいいのだ。
だからぼくの写真も、「ほんものそっくり」とか「みたまま」ということにはこだわらない。ぼくの心がとらえた映像、心に映り込んだ風景を再現し記録することを一番大切にしている。そういうことだから、あなたが蓼科を訪れて、同じような咲き方のコスモスの花を見たとしても、ぼくの写真のようには見えない、たぶん。
それでいいのですよ。(o^^o)
☆たてしなラヂヲ☆
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