今日は観光案内ではなく、このブログによく書いている内面的なことを書いてみようと思う。僕はいま絶望している。身近な人々に結局は理解されていないことを知って、同時にそれは彼らのせいではなく、しかたのないことなのだという想いに到達して。(現在の蓼科高原のようす前回の記事に詳しく載せてあるので、参照いただきたい。 )
■説明しなければわからないということは、説明してもわからないということだ。
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「説明しなければわからないということは、説明してもわからないということだ。」というのは村上春樹の1Q84に登場するセリフだ。そのとおりだと想う。同時にそれは「説明しなければわからないことは、説明してもわからないことだ。」と言い替えることもできるだろう。
そして、人間はだれでもそのようなモノやコトを抱えきれないほど持っている。わかって欲しいと想う、理解して欲しいと想う。そのうえで、励まして欲しいと想う、力を貸して欲しいと想う、せめて温かな声をかけて欲しいと想う、あるいは暖かな眼差しで見守って欲しいと想う。
そのどれもが得られないとき、あるいは感じられないとき、ひとは絶望を感じるのだと想う。見捨てられたと実感するのだと想う。人が自ら命を絶つときはそんなときだろう。
もう少し厳密に表現するならば、ひとは絶望した時にではなく、忘れ去られた時自殺するのだ。
もちろん、人間は,というか生き物は、そう簡単に死ぬようにはできていない。身も心もすべてが生きるために作られているのだから。あらゆる抵抗をするに違いない。それを打ち倒して自ら死をもたらすのは簡単なことではないのだ。
死のうと想って、さっさと死ねる人間などいない。そこにいたるまでの懊悩(おうのう)は計り知れないものがあると想う。自殺した人間を「弱い」と言ってみたり、「死ぬ気になればなんでもできる!」などと言ってはばからない輩にはそれは決して理解できない。
自他に対する強く真摯な愛情と責任感がなければ自殺など選択肢に入ってこない。強くなければ自殺などできないのだ。実際に、極めて具体的なタスクとして、「自殺」を計画しリハーサルしてみれば、「いのちは自ら死ぬことを望まない」ということを思い知らされることだろう。
自分以外の人間に対して「自殺してはいけない」とは僕は言えない。しかし、自殺をリアルに考えることのできる自分は,じつは誰よりも強いこころを持った人間なのだ、誰よりも強い責任感と、誰よりも強い愛情を持った人間なのだということを知って欲しい。
そのような人間を周囲のこころある人々が見捨てるなどと言うことがあるだろうか?かつてはそんなことはありえなかった。しかしいまはどうなのか、僕にもわからない。
ひとつはっきりしていることは、「神」はそのことには無関心だと言うこと。無慈悲なのではなく関心の外にある問題だと言うこと。これは人間の世界の極めて個人的な決断なのだ。
人間は自ら死を選んではいけないということはなく、(例えば病気や犯罪や戦争によって)不条理に命を奪われなくてはならないということもない。
ただ、いのちというものは「生きる」ために在り、生きる喜びに打ち震えるものなのだ。
それが自ら断たれたり、不条理に奪われたりする現状は、唯物論的に言うなら「確率」の問題であり、「神」を信じるならば、それはあきらかな「神」の混乱/混迷のゆえである。
「ただ生きる」ということをまず初めてみようじゃないか。すべての選択権は自分に与えられているのだから。
風立ちぬ、いざ生きめやも。(仏詩人:ポール・ヴァレリー)
☆たてしなラヂヲ☆
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