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2008年06月 アーカイブ

2008年06月01日

4233ex 思考が時間である(再録)

思考が時間であるということ

個人的「日記」本来の姿に戻って以前のように自分が書きたいことを書くことにする。
そのほうが面白いと思う、僕にとっても、読んでくださるひとにとっても、たぶん。

今日の写真は初冬にピラタスの丘で撮影した夕景です。空の広がりと青のグラデーションが
見事です。

※写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。


☆☆☆


「思考が時間である」というクリシュナムルティの見解が真実だとするならば、僕にとっての時間とはこの日記(あるいはブログ)を書いている時間こそが真の時間と言えるのかも知れない。

そもそも時間に「真の時間」とか「偽の時間」とか言う区別があるのかどうかは僕にはわからない。

しかし、いずれにしても、僕のこの「静かな生活」にとって、「蓼科高原日記」と向かい合う時間はたとえようもなく貴重なひとときなのだ。

こうして文章を書いている---まあ実際にはキーボードをタイプしているわけだけれど---時間は、僕にしてみれば「時間が止まっている」ように感じられる。逆説的だけれどこれは真実だ。

僕にとって、経過する時間、過ぎ去った時間こそが「まぼろし」のように思われる。それはいかにも「便宜的」なもののように感じられるのだ。存在する事物の空間的移動ではなく、時間軸にそった運動を表すための便宜的装置あるいは取り決めのように感じられる。

しかしそれらの事物は本当に時間的運動をしているのだろうか?

それらは時間と名付けられた別次元の空間を移動しているのかも知れないではないか。

いずれにしても時間も空間も我々の内なる精神的装置であると考えることには充分な蓋然性があると思う。

我々の外に景色(美・あるいは世界)は存在せず、 それは我々の心の中に構成されるものなのだ。

というのは、僕の個人的な直感に基づく持論なのだけれど、歳を重ねるにつれて益々その思いは強くなった。

現実とは我々を入れる器ではなく、我々が自分で構成した世界のひとつに過ぎないのだ。

そのような意味において、僕は僕のこの現実に責任がある。


※このエントリーはアーカイブから選択して再録した番外編とでもいうべきものです。
 これを書いた僕自身が当時の自分といまの自分とを見直す作業でもあります。
 ご笑覧いただければさいわいです。


4233 カッコウの歌は遠くにありて聞き入るもの

晴れのち曇り 気温:最低 1℃/最高 16℃

この写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイのスタッフの方がロープウエイ山頂駅付近で出合った若いカモシカです。

カモシカは冬にはロープウエイから、あるいは早朝のピラタスの丘でもよく見かけるのですが、春以降はなかなか出合う機会が少ないのです。

一方、野生のニホンジカはキツネやタヌキやリス以上にピラタスの丘や蓼科周辺で良く出合うようになりました。

2枚目の写真がニホンジカです。カモシカはシカという呼称が付いていますが鹿の仲間ではなくて「牛」の仲間だそうです。蹄(ひづめ)を見ればよくわかります、ああこれは牛の仲間だって。

さて、今日は朝から良いお天気になりました。夜明けにはいつもどおりウグイスが来て美声を聴かせてくれました。

しかしそのあとにやってきたカッコウが、ひっきりなしに歌うものだから、もううるさくて・・・。

そう、カッコウって声がでかいのですよ。やはり森の彼方とか湖畔の森の陰から聞こえてくるぐらいがちょうどいい音量の歌声なのです。そのことを今朝は思い知らされました。


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2008年06月02日

4234ex アメブロ始めました

なんかさー、どこか別の場所で「はじけ」たくってさー。

で、アメブロ始めちゃいました。

ここですよん▼

http://ameblo.jp/tateshina-chronicle/


これで自分のブログは4つ目、メンバーになっているブログが1つだから、合計5つかあー。

NIkkei BPの雑誌みたいになってきたかも。ほらほら、あの「日経パソコン」「日経エンタテインメント」「日経ナントカ」・・・ってどんどん雑誌の種類が増殖している出版社ね。

わっちは、だいじょうぶかなぁー?

ははは・・・

でも、今度のは「日記」じゃないから、先にいっぱい書きためておいて日時指定で公開していくっていう裏技(?)が使えるから、だいじょうぶでしょ、たぶん。

日付とか速報性とかから解放されるって、気持ちが楽ぅううーですね。

そういえば、このエントリーのタイトルって「冷やし中華始めました」っていうポスターみたいだね。


☆☆☆


ということで、コホン、ふたたびマジメなキャラに戻って、こっちのブログはガンバらにゃーいけませんね。よろしくお願いいたします。


4234 セキレイ来たりて、水無月(みなづき)を知る

曇り 気温:最低 6℃/最高 12℃


きょうは鹿にもキツネにも出合わなかったけれど、まあ彼らは基本的に「夜行性」だから、こういう日もある。それにしてもこの森に数年前から住みついた大きな野良猫に狩られてしまったのか、リスの姿を見かけなくなった。

本当にそうならば、ゆゆしき事態だ。バードフィーダーにやってくる野鳥を狙って捕獲していたという目撃談もあり、猫の環視ができないときには、ぼくらはバードフィーディングを控える日もあるほどだ。

うちの愛犬パル(シベリアンハスキーの雄・13歳半)は、春になって雪が解けてから俄然体力を回復して、思い通りにはならないまでもかなりしっかりとした歩行で長距離の散歩ができるようになった。サプリメントとして与えていた「コエンザイム」や「ヒアルロン酸」が効いたのかも知れない。

実際、獣医さんでも処方されるくらいだから、多少なりとも効果があったのだと思う。ちょっと安心する。一時はすっかり老いてしまって、このままではいったいどうなってしまうのだろうかと心を痛めたほどだったから。

でもこのぶんならあと数年は元気に暮らせるだろう。すくなくとも都会で生きるワンコたちに比べたら天国のような環境で成長し、暮らしてきたのだから。静かな環境、きれいな空気と新鮮な水、生育環境に適した氷点下20℃の冬と雪の世界。

あ、そういえば、きょうはキセキレイハクセキレイを目撃することができた。

セキレイは歩くときに長い尾を頻繁に上下させるので、すぐにそれとわかる。セキレイを見るとああ6月なんだなーと感じるのが当地の季節感だ。

セキレイ来たりて、水無月(みなづき)を知る。


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2008年06月03日

4235ex 瞑想が僕に教えてくれたこと(再録)

瞑想が僕に教えてくれたこと

昨夜寝る前に久しぶりに瞑想をしました。ずうっと行なっていなかったのですが、その必要を感じたのです。物事が悪い方悪い方へと進んでいくように感じているからです。世界的にもそうですが、個人的にもそう感じています。

結局のところ「世界」というものは「自分の在りよう」ですから、まず根元的な自分自身の在りようをしっかりとしなければなりません。参拝、参詣でもいいですし、宗教的な祈りでも座禅でも同様の効果(?)があるのかも知れませんが、たまさか僕の場合は「瞑想」が一番なのです。

瞑想していると僕はまず僕自身になります。純粋に「僕自身が在る」という状態になって、つぎに「僕」がなくなって「在る」ということだけが残ります。そして気づくとそのとき「僕という個別の存在」を越えて「在るということ」の本質のみを感じる。そこには「自」と「他」の境界線も無く、「意識がない」ということもなく「意識がある」ということもなく、最後には「在る」ということもなくなって「充足した空(くう)」、存在で充満した空(くう)になります。

「何にもないけれど全てがある」という状態です。「存在」で充満した「空(くう)」です。もしかしたらこれが般若心経が語っている世界なのかも知れません。

そこから「現実=実際的世界」にもどって活動すると、物事がよりよく進められるような気がしているのですが、実際のところはどうなのか僕には断言できません。ごく普通のシンドイ人生です。実のところ僕は信仰を持たないただの「たまに瞑想するひと」ですから。(笑)

そんな僕がいうのも何なのですが、現代の宗教は現象面に限っていうならばかなりおかしい。宗教のために殺し合ったり争ったりいがみ合ったり・・・。まあ、昔からそうだけど・・・。

「神」とよばれる存在が在るならばそれは唯一無二であると同時に「これ」でもなく「それ」でもなく「あまねくすべて」なのだから、「異教徒」などありえない。宗教に違いがあるとすればそれは「神との向き合い方の違い」だけではないでしょうか。

「神」は教義や戒律を説いたりしないし、崇拝を強いたりしない。それは人間が神を「認識」しようとする過程で人間が作り上げた体系に過ぎない。そうした意味においてこの世に「正しい宗教」は存在しない。

ただ「自分に合った宗教」はあるかもしれない。為政者に都合のよい宗教はあるかもしれない。あらゆる宗教において未だかつて神が命じた「聖戦」など存在しない。その戦争をどのような名で呼ぼうとも、戦いを命じるのはいつも神の名を借りた権力者である。

米国が日本に原爆を投下したとき、米国の民の信ずる神は、作戦実行者たちの祈りを受け入れたのだろうか。その未曾有の大量無差別虐殺を祝福したのだろうか?その殺戮を支持し成功を手助けしたのだろうか?もしそうならば、それは「神」などではない。

それはさておき、確固たる信仰を持つことはとても尊いことだと思っています。それは素晴らしいことです。信仰の道しるべとなるべく、宗教はあるのではないかと思います。それが真の宗教の姿であり、在りようではないかとも。門外漢がこんなことを言うのは大変僭越なのですが。

そんなことを思う今日この頃です。


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4235 親友・蓼科ラヂヲ君のこと

雨のち曇り 気温:最低 5℃/最高 11℃


昨夜から降り始めた雨は土砂降りの雨。ひさしぶりに本格的な雨の音を聞く。

大雨という印象は無いけれど、激しい降りだ。そんな雨の音を聴きながら夜明けまで過ごした。

まあ、お仕事していたらまたまた夜が明けちゃったんだけれど。昔から「深夜型」なんだよね、この時間帯がいちばん集中できるしイマジネーションも豊かになるのだ。

おかげさまで、始めて1ヶ月もたたないのに楽天ブログでは当初の3倍もアクセスいただくようになった。

でもまあ、楽天ブログの場合はお互いに訪問し合ったり、コメントし合ったりというおつきあいの結果アフィリエイトのコンバージョン向上や、人脈(?)や友達の輪が広がるというメリットがあるということがあるからなのかもしれないね。

べつに僕に人気がある訳じゃないし、僕が書くことに共感できるからと言うわけでもないという部分が大きいと思う。僕のブログはアフィリエイト目的のブログじゃないから、そうじゃないひともたくさんいるということはわかっていて、それはとてもうれしい。

ほんとうの大変さをよくわかっていなくて恐縮なのだけれど、アフィリエイトを本格的にやるとものすごく大変そうですね。みなさんがんばってくださいね。

それにつけても、最も真剣に取り組んでいる本家の「蓼科高原日記」が相対的にもっともアクセスが少ないということにはいささかショックを禁じ得ない。だから、蓼科ラヂヲ(=僕の親友だ)はアメブロでまったく違ったブログを始めたんだ。

結果から言うと、最も劇的アクセス増を記録したのも、ブログランキングを駆け上ったのも、リピート訪問者が多いのも蓼科ラヂヲ君のブログなんだよね。まだ公開してたった2日なのに信じられないほどの手応えなのね。

なにしろ、「日本の中心で、愛を叫ぶ(笑)ブログ!」だからね。ははは・・・。

まだ自己紹介しか書いていなくて本当にラヂヲが書きたい文章は公開されていないのに、不思議だよね。壊れかけのラヂヲのほうが味わい深いのかも知れない。

ラヂヲ君のブログはここだよ〜ん。↓

http://ameblo.jp/tateshina-chronicle/


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2008年06月04日

4236ex shape of my heart(再録)

こころのかたち(shape of my heart)

感情がある、ということと、心がある、ということとは似て非なるものだと言うことをはっきりと認識した。つまり、感情はあっても心のない人間だってこの世には存在しうるということを確信したと言うことだ。それは倫理でもなく論理でもなく、まさしく「こころ」を持っているか否か、というクリティカルな問題なのだ。

心が無くても人に親切にすることはできるし、助けることだってできる、そのことによってその人に愛されることだってできるかも知れない。しかし、心を持たない人間はその愛にこたえることはできない。本当の意味で愛することができない。相手をどんなに好んだとしても、心がなければそれは愛とはなり得ない。

心は不確かで儚いものだ。いつの間にか失っていたとしてもすぐには気づかないほどだ。人に愛されることになれてしまっている人は特に気をつけたほうがいい。心を盗むとか無くすとかというのは比喩に過ぎないけれど、たしかに、こころが無くなってしまうことや最初から無いと言うことはありうるのだから。

もし、ひとと思いや感動を共有できないのなら、それはちょっと危ない兆候だ。価値観や嗜好性の違いならば何の問題もないけれど、もしそうでないのならば、あなたの胸の内に「こころ」というものがまだあるかどうかしっかりと確かめたほうがいい。

こころとは、愛をはぐくむゆりかごなのだ。

願わくば、僕も、そして僕の愛する人もそれを失ってしまうことのないように。あるいは最初から持っていない哀しい人でないことを祈る。愛にこたえてもらえない苦しみより、愛にこたえられない苦しみや哀しみの方がはるかに大きいからだ。

こころとは、あなたの精神のコア(核)とでもよぶべきものなのだ。

あなたの「こころのかたち(shape of my heart)」をいま一度確かめてみてはどうだろうか。

僕はすでに「こころ」を無くしてしまったのかも知れないのだけれど。


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