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4166 個人的黙示録としての日記

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このように毎日日記を書き続けることにどのような意味や価値があるのかはわかりません。書き始めて11年以上たってもそれは見えて来ません。ただひとつ感じるのは、それが決して無意味ではなかったと言うことでしょうか。これは日記という形をとった記録であり、個人的な記憶のアーカイブでもあるわけです。その一点に関してはその存在意義を否定することはできないのです。

一方でこの日記を読むことの価値はといえば、自分の軌跡を再度辿るということの他に、過去の自分の思惟に学ぶと言うことがあります。しかし、第三者が読むことの価値があるのかどうか、それは読むひとが決めることになります。僕はプロの物書きではありませんから、その点について何ら責任を持つことができません。

もし「蓼科高原日記」を書いていなかったなら、おそらく僕は過去の自分の思いや思惟をすっかり忘れてしまっていたことでしょう。というか、容易にはそれを思い起こすことができなかったと思います。日記とは自分のために自分を書き残すという側面の他に、愛する人のために自分の本当の姿(shape of my heart)を書き残すという側面もあると思います。

ですから、あるときは妻に向けて語り、またあるときは息子に伝え残したいこの世界の真実を語り、そしてまれに、かつて愛したひとに語る機会のないまま過ぎてしまった真実を書き残しているのです。

それをカムフラージュするために、多くの紙幅は蓼科の自然の美しさとの邂逅を語ることに費やされていますが、それも便宜的な行為ではなく紛れもない真実として書き残してきたつもりです。なぜならそれらは僕の心に映った紛れもない真の蓼科の姿だからです。

蓼科高原日記は僕にとってはきわめて個人的な「黙示録(もくしろく)」だといえるのかも知れません。しかし、将来それを読み解いてくれる人がいるのかどうかは期待しない方が良いのでしょうね、たぶん。僕の死後、この日記が存在しつづけることができるのかどうかさえ定かではないのですから。

僕はまだ、それが数ヶ月なのか何十年かわかりませんが、神様の与えてくださった猶予期間に従って生き続け書き続けることになるのでしょう。

ひとつはっきりしていることは、書けば書くほど、僕以外のひとにとってはあまり読む価値のないものになっていくのではないかと言うことです。語り尽くせぬことを語っても、語りようのないことを語ろうと努力しても、やはりそれを伝えることはおそらくかなわないからです。

僕と同じ世界に足を踏み入れたひとだけが、この膨大な「文書」に隠された僕の世界を見ることができるからです。そして、それは仕方のないことなのです。そのことを前提に、僕はこの日記(ブログ)を書き続けています。


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2008年04月04日 23:22に投稿されたエントリーのページです。

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