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4146 思考が時間である

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個人的「日記」本来の姿に戻って以前のように自分が書きたいことを書くことにする。
そのほうが面白いと思う、僕にとっても、読んでくださるひとにとっても、たぶん。

今日の写真はピラタスの丘で撮影した夕景です。空の広がりと青のグラデーションが
見事です。クリックすると拡大してご覧いただけます。


☆☆☆


「思考が時間である」というクリシュナムルティの見解が真実だとするならば、僕にとっての時間とはこの日記(あるいはブログ)を書いている時間こそが真の時間と言えるのかも知れない。

そもそも時間に「真の時間」とか「偽の時間」とか言う区別があるのかどうかは僕にはわからない。

しかし、いずれにしても、僕のこの「静かな生活」にとって、「蓼科高原日記」と向かい合う時間はたとえようもなく貴重なひとときなのだ。

こうして文章を書いている---まあ実際にはキーボードをタイプしているわけだけれど---時間は、僕にしてみれば「時間が止まっている」ように感じられる。逆説的だけれどこれは真実だ。

僕にとって、経過する時間、過ぎ去った時間こそが「まぼろし」のように思われる。それはいかにも「便宜的」なもののように感じられるのだ。存在する事物の空間的移動ではなく、時間軸にそった運動を表すための便宜的装置あるいは取り決めのように感じられる。

しかしそれらの事物は本当に時間的運動をしているのだろうか?

それらは時間と名付けられた別次元の空間を移動しているのかも知れないではないか。

いずれにしても時間も空間も我々の内なる精神的装置であると考えることには充分な蓋然性があると思う。

我々の外に景色(美・あるいは世界)は存在せず、 それは我々の心の中に構成されるものなのだ。

というのは、僕の個人的な直感に基づく持論なのだけれど、歳を重ねるにつれて益々その思いは強くなった。

現実とは我々を入れる器ではなく、我々が自分で構成した世界のひとつに過ぎないのだ。

そのような意味において、僕は僕のこの現実に責任がある。


☆☆☆


参考文献(蓼科高原日記2004年1月29日付より):

クリシュナムルティが言うように「思考が時間である」。あるいは、ラビンド
ラナート・タゴールが言うように:

「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るた
めに私たちが使っている概念なのである。」

「もしリアリティをめぐるすべての知識が経験にはじまり経験に終わると
するアインシュタインが正しいならば、出来事の意味を汲みとる源となるよう
な外郭のリアリティは存在しないことになる。」

「われわれの知覚がそのようなものであると受け止めたもの、それが世界
だ。そのことを疑う者はいない。われわれは心とは鏡のようなもので、外の世
界の出来事を正確に映し出すだけだと思っているからである。ところが、じつ
は反対で、心のほうが創造しているのである。つまり、ひとは世界を知覚する
ことによって、自分の世界を、時間と空間の中に絶えず創造しているのであ
る。」

ということだと僕も思うのだ。子供時代から積算すれば何十年もかかって
僕は僕なりにそのような結論に到達し、その後に彼らのこのような言葉に出会
った。これはやはりシンクロニシティーではないかと思う。

折に触れて僕が言う「我々の外に景色(美・あるいは世界)は存在せず、
それは我々の心の中に構成されるものなのだ」というのはそのような意味にお
いてである。

と、まあ、こういう話題になるといくらでも語ることができるようになっ
ちゃうのだけれど、興味のある方は2003年11月16日から11月18日の蓼科高原日
記をご覧いただければさいわいです。僕が何を言いたいかが、そこにはきちん
と書いてあるから。

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2008年03月15日 23:02に投稿されたエントリーのページです。

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