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3997 三五五三のリフレイン

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 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

(夏目漱石著「草枕」より:青空文庫


なあんだ、「草枕」に全部書いてあったんだ。思春期に読んだことあるのにね、当時は全然理解していなかったってことか。

いまは僕も山路(やまみち)を登りながら、そう考えるよ。

それはさておき、

読んでくれているひとはごく少数だろうけど、書くことができなくなった僕は過去の戯言を繰り返すしか能がないのだ。

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エントリーナンバー 3557 2006.11.08 を繰り返す:

本音とか正直とか公正とか、そんな言葉も概念もおとぎ話の中にしか出てこないのだ。世界は嘘と欺瞞と不公正に満ち、不公平がその実体に違いない。愛という名のメタファーに救いを求めるほか無い。しかし、メタファーはあくまでもメタファーでしかない。愛は人間存在によってのみ存在させることができる。愛はそのままでは生き続けられない。

世の中が公平であるとか、神が正義であるとかいうのと同様にそんなものはわれわれの妄想でしかない。信じる努力なしに愛は永遠ではないし、闘う勇気無しには正義は存在すら危うい。戦争や闘争は人間の原初的性向であり、平和や融和はその合間に訪れる僥倖(ぎょうこう)に過ぎない。

だからこそわれわれは演技するのだ。この世界は本来的に平和であるかのように、人間は平和をなによりも愛する生き物であるかのように、人間とその社会は必然的に正義と公平を志向するものなのだと。社会正義は必ずなされるものなのだと。愛さえあれば平和は必ず訪れるものなのだと。

別に悲観的にものを見ているわけではない。ことさら斜に構えて世界を見ようとしているのでもない。僕はただ可能な限り公平に見極めたいだけなのだ。僕なりのささやかな勇気を持って。

先日僕は、この日記を書くことが僕の生業でもあるペンションからお客様を遠ざける結果になっているのではないかという疑念を持っていることを告白した。本当にそう考えているのだ。現代社会においてひとは耳に心地よいものを志向する、自我に心地よいものにのみ心が傾く。

時代はまさに誘惑の時代を迎えている。社会はいまや、少なくとも、市場は「女性原理」に従って動き始めている。それは倫理を越えた原理である。それは「心地よさ」こそが市場原理であるような世界だ。


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以下、今日のコメント:

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少なくとも現代消費社会は「女性原理」に逆らうものは生き残れない時代になった。

それでみんなは幸せになっているのだろうか。

女性だけでも幸せになっているならそれはそれでよいのだけれど、

どうも女性も男性もあんまりしあわせそうには見えないもの。

「女性原理」だけ、ではダメなんだ、たぶん。

「男性原理」と両方があって初めてバランスのとれた世界が実現できるのだと思う。

つまらない結論だけど、真実はそんなものさ。

だから、誰も聞く耳を持たない。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。

このペンション村でもね、だから僕は嫌われている、たぶん。

情に棹(さお)さして流される方が心地よいもの、誰だって。

寛容に振る舞ったほうが得だし、気分が良いもの。

僕だって例外ではない。

でも誰かが理を説かなければ間違った方向に突っ走ってしまうから。

でも、もうそれもやめた。

多少、利に聡く(さとく)なったのかもしれない。

ほんとうのところは、もう疲れちゃっただけなのだけれど。

だから、口をつぐんで「空気を読む」ことだけに集中しよう。

しばらくは自分のことだけを考えて暮らすことにする。

今一度自分の足場を固めなければ、もうなにも言えない。

勝てば官軍というのは、どんな社会でも普遍の法則なのだ。

群れるんだったら力のある派閥に属することだ。

それができないのだったら徹底して「いいひと」になりきることだ。

唯我独尊の個人であることを断念しなければならない。

「個」あるいは「近代西欧的自我」を確立することは封建的地域共同体にとっては極悪な罪なのだ。

それは会社だろうが田舎の地域社会だろうが変わることなく根付いた原理原則であることを僕は確認した。

地域社会に順応した「パブリックな自我」を生きることこそが望まれている。

個人の集まりが社会ではなく、生きるための共同体の一部として個人があるに過ぎない。

オオカミのように群れて生きるのではなく、集団として全体主義的に生き抜いてきたのが人類なのかもしれない。

原初より人類はそのような生き方を脱してはいなかったのだ。

そのこともまたいま見えてきた事実のひとつだ。

それを改めない限り、暴力も戦争も決して無くならない。

それは精神あるいは心の問題ではなく、構造的な問題だからだ。

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2007年10月18日 23:01に投稿されたエントリーのページです。

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