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2006年09月 アーカイブ

2006年09月01日

3485 ペンションという「場」

曇り一時雨のち晴れ 気温:最低 11℃/最高 18℃

午後遅い時間になるともはやクルマはエアコンではなくヒーターが入る。そんな気候になってきた。ピラタスの丘の今日の最高気温は18℃、曇り一時雨のち晴れという天気だった。陽射しはいっそう柔らかくなり、湿度がどんどん下がっている。そのぶん体感気温はお盆の頃より低く感じられる。

今日はダイニングラウンジでストーブに火を入れた。室温21℃で、ストーブを焚くほど気温が低かったわけではないが、きょうはお客様がいらっしゃるということもあってこの季節にぬくもりを楽しむという趣向で焚いたのだった。暖かさが気持ちよいという気候になったのだ。お盆明けからわずか10日でこの激変。いかにも蓼科らしい季節感だ。

午後10時04分、外はとても寒冷な風が吹いている。愛犬パルとの散歩はウインドブレーカー1舞い羽織るだけで大丈夫だろうか。一方、寒冷な気候が快適なシベリアンハスキーのパルは絶好調で、いつもより1時間も早くから散歩に行こうと言っている。

パルが甘ったれた声を出しているので、しょうがない、少し早いが散歩に出かけるとするか。

今夜は隅から隅まで晴れ渡って、まるで絵に描いたような「満天の星」だ。銀河の中心部の濃密に密集した星がすごい迫力だ。もちろん天の川も言葉にならないほど美しい。ハンドライトを消灯し進路をパルに任せて僕はほとんど真上を仰いで歩いていた。

お客様にこのこと知らせようと思ったのだけれど、みなさまも薄手に就寝体制に入っているようなので、遠慮した。残念なことだ、こんなきれいは星空はそうそう出会えるものではないからだ。月齢や時間や季節による星座の変化など、様々な要因がぴたりとシンクロしないとこうはならない。

まさに一期一会(いちごいちえ)だ。僕らとお客様との出会いもそれに似ていると感じている。そしてそのように感じるからこそ、その出会いを大切にしたいと考えている。「客として来たりて友として去る」という言葉があるが、僕の思い描くペンションという「場」はそのようなものだ。

実際にそのような関係になるお客様も多い。あくまで「お客様」なのだけれど、同時に「友」であるような関係。そうなったときにお客様にとってペンション・サンセットは良い意味で「異界」となるのだろう。日常の「演じざるを得ない自分」をはなれて「素の自分」に戻れる場所。

ペンション・サンセットはそのような場所でありたいと願い続けている。

2006年09月02日

3486 季節・気候にふさわしい服装

晴れ 気温:最低 8℃/最高 17℃

昨夜は雲ひとつ無い快晴で、すさまじいばかりの星空を望むことができた。晴れた夜は放射冷却現象で冷え込むというセオリーどおり、今朝はぐっと冷え込んで6月中旬以来の最低気温8℃を記録した。数年前の「冷夏」の年にはお盆休みにこの気温になったことがあったが、その年はお盆休みも連日全館暖房を入れていたことを思い出す。

今朝はダイニングラウンジの気温が16℃だったので、7時前から大型ストーブに火を入れて建物全体を暖めた。客室の気温は24℃以上はあるので暖房を入れるとあっという間にむしむしと暑くなってしまうから、この季節にはこのような暖房方法をとることが多い。中旬を過ぎたら部屋の暖房も入れてちょうどいいかも知れない。

平野部では「残暑」とか。今朝の気温を体験すると、ちょっと信じがたい思いだ。お客様は、反対に、この涼しさ(というよりは「寒さ」)にかなり驚かれたようだ。しかし、陽射しがあれば気温はどんどん上昇して日中はピラタスの丘で18℃〜20℃、ここより標高が低い観光名所では20℃〜24℃になるので残暑のない心地よい晩夏が楽しめる。

こちらにお越しになるお客様は是非冬用のフリース、そして長袖のアンダーシャツを1枚是非持参していただきたい。アンダーシャツ1枚で信じられないほど温かく快適に過ごすことができるのだ。経験的には「冬用のフリース」より「長袖アンダーシャツ」のほうが温かく快適だ。少なくともTシャツにショートパンツでは朝晩の気温では凍え死んでしまうのは確実だから、僕の言葉を是非信じていただきたいのね。(^_^;)

山小屋の親父さんでも今時こんなことは言わないのかも知れないけど、「季節、気候にふさわしい服装をお願いする」しだいだ。その上で寒ければ客観的気温を勘案して全館暖房を入れるようにしているので安心されたい。

ただ、いつでもどこでもいきなり暖房や冷房で暑さ寒さを調節するというのは本末転倒だと思う。まず服で気温の変化に対応し、その上で暖房冷房(ここでは冷房は不要だけれど)を利用するのが古来からの人間の知恵なのだと思う。またそれがクールビズ、ウォームビズが定着しつつある我が国のみならず世界の時流だとも考える。

大切なお客様に寒い思いをさせるつもりは毛頭無いけれど、季節・気候にふさわしい服装で蓼科をじっくり味わっていただきたいと思っている。そのための暖房は必要十分以上のものにするつもりはない。Tシャツにショートパンツで部屋を30℃以上にむんむん暖めて過ごすというライフスタイルには賛同しかねるしだいだ。少なくともここはそのように過ごす場所ではないし、いまはそのような時代ではないと思う。

★★★

最近我が敬愛する友人ウォンウィンツァン氏のHPのリンク集からペンション・サンセットを知ったというお客様がいらしてくださることが多くなった。ご予約時にそのことを告げてくださるケースもあるし、チェックアウトの時に初めて話題にのぼってびっくりさせられることもある。

いずれにしても、ウォンウィンツァン氏との交友について語り出すと長くなるので、ここでは重複は避けるが、興味のある方はこちらでキーワードを「ウォン・ウィン・ツァン」としてサイト内検索してみてほしい。

ウォン氏とは魂の深いレベルでの縁(えにし)を感じている。何の利害関係もなく、魂のふれあいと共感のみで成立しているこれは本当の意味での「友情」だと実感している。それは「狩野さんがHPにお書きになっている世界観は私の音楽に通じています。13年の隔たりの後、それぞれが自分の世界を切り開きこのように再会したとき、それぞれのたどり着いたところが、同じところであったとは何と素晴らしいことでしょう。あの時に出会ったことの本当の意味を今、噛みしめています。」という6年前の氏の言葉に集約されているように思う。人生最良のこの出会いに感謝。

2006年09月03日

3487 そんなもんないんだよ、どこにも

晴れ 気温:最低 9℃/最高 19℃

今朝は昨日よりも温かく感じた。最低気温は9℃、放射冷却現象がなかったのか、実際の気温よりも温かい。とても良い天気で、天気概況でもここ数日は確実に好天に恵まれそうだ。湿度は盛夏、つまりお盆の頃よりずいぶん下がって同じ気温でも断然寒く感じるようになった。

館内でも活動していない限り半袖シャツでは寒く感じるようになった。夜愛犬の散歩に出るときは秋用のウインドブレーカーを羽織ってちょうど良い。帽子もかぶらないと頭が寒く感じるほどだ。今夜はあいにく雲がかかって満天の星空というわけにはいかなかった。

しかし、秋独特のこの空気を胸一杯吸いながら歩くピラタスの丘は最高だ。深夜のこの時間に標高1700m〜1800mの道を散歩しているなんて、まさに夢のような出来事ではないか。夜でも蓼科山や北横だけのシルエットがくっきりと見え、それはたとえようもなく美しく雄大だ。

9月上旬は、個人的には、夏の繁忙期の疲れがどっと出る季節なので体調管理には十分注意している。特にここ数年、自家製の天然酵母パンをお出しするようになって寝る時間が無くなってしまったので、かなり無理しなくてはならない。

それでもお客様が喜んでくだされば、そんな疲れは吹っ飛んでしまう、少なくとの精神的には。しかし物理法則に支配される肉体のほうはそうはいかないようで、疲労は確実に蓄積されてゆくようだ。ここは知恵を絞って、サービスレベルを落とさずに肉体的負担を軽減することを考えるのがまともな経営者というものだろう。反省。

NHKの朝の連続ドラマみたいにあっという間に月日は巡り、再び村上春樹の「ノルウェイの森」を読み返す季節になってしまった。こう書くとなんだか「義務感」で読み返しているみたいに聞こえるかも知れないけれど、これはあくまでも個人的な楽しみであり、年中行事なのだ。

もう何十回読んだかわからないけれど、最近自分は小説の冒頭の導入部と、主人公が直子が入っている阿美寮を訪ねるところがとても好きだと言うことに気づいた。それがこの物語の象徴的な映像として僕の中に再構築されているのだ。

そしてもう一つの変化は、ヒロインの直子一辺倒だった僕の好意が、読み返すたびにもうひとりのヒロインである緑という娘への好意に移ってきたということ。前者が死の影を背負った滅び行く美しさを象徴するならば、後者はたくましく生き抜いてゆく美しいいのちの象徴と感じられる。主人公にとってはまるで太陽のような存在、そして僕にとってもそのような存在として自分の中に息づくようになった。

そんなことをつらつら想いながらまたこの秋読み返すのだ。個人的な至福の時間だ。

それにしてもひとは「本当の幸せ」とか「本当の自分」とか「自分の居場所」とか、じつに様々なものを求めて現代という高度資本主義社会をさまよっているように感じられる。個人的体験としては「そんなもんないんだよ、どこにも!」と言ってあげたいな。

要するに僕らが求めているものは同じ「なにか」のように感じてる。その「なにか」は気づいてみればじつは「自分自身」なのだ。広大な薄明の世界に浮かぶ自分という美しい惑星なのだ。

そのことに早く気づいてほしい。気づいたからと言ってなにかが劇的に変わるわけでもないのだけれど。

2006年09月04日

3488 公開を前提とした公的な日記

晴れ 気温:最低 9℃/最高 18℃

こんな風に個人的な日記を書き続けているとたまに奇妙なメールがやってくることがある。この日記の中の「僕」は確かに「個人」として登場していても、じつは「僕という実在する個人」ではないと言うことに気づかないひとからのメールだ。

この日記を公開するにあたって、僕は個人的な文章を書きながらも、これが公衆つまり不特定多数のひとの目に触れることをちゃんと意識して書いている。だから厳密に言って、この日記は公開を前提とした公的な日記として書かれている。

巧妙に自分を隠しあるいは演じることによって、自分だけではなく他者のプライバシーにも配慮している。だからここに書かれているプライベートな出来事や想いが100%事実であるとは考えないでほしい。これは事実に基づいている部分が大きい(かもしれない)「フィクション」なのだ。この点を強調しておきたい。

したがって、個人的ポリシーとして、この日記を読んでくださった不特定多数の方と「個人的なメールのやりとり」はしない。その点をご了承いただければさいわいである。この日記における「僕」は「パブリックな(公的な)個人」であって、「実在する僕個人」とは別物なのだ。

それを混同してしまうひとがいたとしても、それはひとえに僕の「力不足」が原因だと考えている。言い方を変えるならば、蓼科高原日記は、じつは日記風の「小説もどき」だったのだとお考えいただくとわかりやすいかも知れない。

★★★

さて、そのようにして今後も蓼科高原日記を書き続けていこうと思う。

今日もとても良い天気になった。だから、今朝も最低気温は9℃まで下がった。館内の温度は18℃、客室は20℃以上あったが、残暑厳しい都市部からお越しのお客様は暖房が恋しくなる気温かも知れない。(まあ、そんなに寒くないからご安心を。ただし、フリースやセーターが必要。)

きょうは庭でウソのつがいを見かけた。もう雛の巣立ちが終わったのか、二羽だけで枝から枝へと飛び移っていた。渡り鳥たちはそろそろ渡りの準備に入ったことだろう。ここに定住している一部の野鳥を残して、しだいにその数は減じていく。ちょっと寂しい季節になった。

今夜は月がとてもきれいだ。月齢11日だからもうすぐ満月になる月だ。秋の夜の月はひときわ美しいのは古来より歌われているとおりだ。月明かりで眼前の蓼科山や北横岳はもとより遠くの山並みまでくっきりと見えるのだからすごい。

これから数日間は、愛犬との散歩もほとんどハンディライトを点けずに全行程を歩ききることができるほど明るい夜が続く。星を眺めるのもすてきだが、そんな美しい月を見ながらその柔らかな光の中を歩くのもまた至福の体験だ。

今日も静かに群青色の夜が更けてゆく。

2006年09月05日

3489 20Mbps にスピードアップ

晴れのち曇り 気温:最低 11℃/最高 19℃

今日もとても良い天気で、青い空に秋の雲が美しかった。今年はナナカマドの紅葉が目立つが、他の樹木の紅葉が遅いと言うことなのだろうか。この時期にナナカマドが紅葉して結実し、その実を落とすのはいつもどおりなのだけれど、どうも森はまだ紅葉への移り変わりを予感させない。

季節が巡るたびに、気象が変わっていくことを実感している。それにつれて自然のたたずまいも変化し続けている。やはり地球は温暖化している。これは間違いようのない実感だ。まあマクロにみればこの地球は大変動をしてきているわけだから、悲観ばかりしていてもしょうがないとは思う。

いま自分にできることから始めるほかないのかな、やっぱり、それがどんなにささやかな試みであったとしてもなにもしないで静観を決め込むよりは断然良い。

う〜む、なんだか今日は筆が進まない。

★★★

そういえば、8月31日に工事を行ってインターネット回線(CATV)が 20Mbps にスピードアップしたと書いたっけ。しかし、じっさいは実測で 2Mbps〜8Mbps 程度しか速度が出ていないことにすぐに気づいたわけだ。これはないだろうと言うことでさっそくサポートに電話して点検してもらった。それが昨日のことだ。

引き込み線から屋内配線のチェック、ケーブルモデムの交換、じっさいに PC をつないでの速度チェック。しかしおもだった速度計測サイトでの測定結果はどれも 2Mbps〜3Mbps とふるわなかった。で、このまましばらく様子を見ながら再度チェックしましょうと言うことになった。

しかしこうなるとこだわって徹底的に研究したくなる。こういうときこそ WWW が助けてくれるのだ。MTU だの MSS だの RWIN だのと知らない用語に惑わされつつも、文化系の思考回路を加熱させながら何とか理解した。ちなみに僕の環境は Macintosh(Mac OS X v10.4.7)なので情報が少なかったが、Windows をつかっているひとはその筋の情報源がもっとたくさんあるし、ツールやソフトウエアも潤沢でうらやましい限りだ。

で、各パラメーターのだいたいの最適値が出たところで RMAC というフリーウエアで設定することにした。ここに至るのにとても助けになったのがこちらのサイトの記述だった。この作業でかなり改善されて、RBB の名古屋のサーバーで測定すると 11Mbps 程度出るようになった。

その後ググって(Googleで検索して)いるうちに RMAC の検索結果に出てきたこのサイトでアップルから Broadband Tuner 1.0 という純正のパッチが配布されていることを知った。さっそくインストールするとなんと一気に 19Mbps 近くまで速度アップしたではないか。他の速度測定サイトでもいきなり 22Mbps をたたき出した。やはりマシンサイドのチューニングの問題が大きかったのだ。特に下りのバッファーのパラメーターが重要な要因だったようだ。

そして今日、プロバイダーのサポートにそのことをフィードバックしたしだい。マック使いで悩んでいるユーザーがきっと他にもたくさんいるだろうから。ちなみに自分のマシンのパラメーターが現状どう設定されているかはこちらのサイトの TCP/IP Analizer をクリックするだけで測定・表示してくれるのでおすすめだ。

以上、つまんない話かも知れないけど、ちょっとがんばれば僕のような門外漢でも出費無しで回線スピードをアップできるというお話でした。結局インターネットの利用に関してはあらゆる観点から自己責任、自己管理、自己サポートなのだと言うことを再確認したわけだ。あなたまかせひとだのみではダメなのだ。インターネット利用11年選手の実感です。

2006年09月06日

3490 スタイルの表現としてのペンション

曇りのち雨 気温:最低 11℃/最高 17℃

先日僕は『蓼科高原日記は、じつは日記風の「小説もどき」だったのだとお考えいただくとわかりやすいかも知れない。』と書いた。がっかりしたひともいるかも知れないし、裏切られたような気持ちになったひともいるかも知れない。

僕がそのように書いたことは真実だ。しかし、「真実」は一義的だが「事実」は多義的に、つまり、多様にその姿を現すものだ。この日記は事実を記している。しかしその事実はそれぞれの出来事のほんの一面に過ぎない。それが僕のような「物書き」では無い素人の文章の限界だ。

実はかつてあるお客様から「蓼科高原日記を小説のように読んでいる」と言われたことがある。そうなんだ、とそのとき僕は思った。これは書かれたとたんにフィクション(少なくとも通常の個人の日記とは異なったもの)になるのだ、と。なぜなら、先日も書いた通り、僕はある「スタイル」にしたがって日記を書いているからだ。

それは公開を前提とした日記を成立させる諸条件を満たしたガイドラインとしての「スタイル」であり、この中に登場する「僕」をぶれの少ない語り手として保持するための「スタイル」と言ってもいい。たとえば自分がペンションのオーナーであるということを大前提としてつねにお客様としての読者を意識しなければならない。

またウェブで公開する以上、公序良俗に反した記述は避けなければならない。登場する企業や組織や個人のプライバシー保護にも配慮しなければならない。観光地としての蓼科高原の不利益となるような誤った情報を伝える間違いを犯さないように慎重でなければならない。

たとえばそのようにさまざまな制約の中で僕はこの日記を書いている。「蓼科高原日記」に何らかの価値があるとするなら、「語り口」としての「このスタイル」だと(個人的には)考えている。書かれている内容にかかわりなくいつも変わることの無いこのスタイルこそが「僕」なのだ。

ペンション・サンセットがほかのペンションと決定的に異なるところ(あるいは特徴といってもいい)があるとすれば、ペンションにおいてもこのスタイルが生きているということだ。ペンションは僕の「スタイルの表現」なのだ。単なるハード、ソフトの統合体としての宿泊施設では無い。

僕のペンションになんらかの特徴的な「雰囲気」や「心地よさ」があるとするならば、僕らが「表現としてのペンション」を強く意識しているからかも知れない。ペンションは僕にとって「商売」というよりは「表現」なのだ。何かを演じているつもりは無いけれど、素(す)の自分がお客様を前にして「この場所のほんとうの心地よさ」へとご案内するということを意識している。

MC(マスター・オブ・セレモニー)として僕はペンション・サンセットという舞台に立っているのだ。僭越かも知れないけれど、僕はそう認識している。そうした意味においても、ここでの出会いは一期一会だ。

2006年09月07日

3491 プライバシー保護、匿名不可

曇りのち雨 気温:最低 13℃/最高 19℃

1996年7月1日の開設当初から、このホームページは僕の署名入りのウェブサイトとして運営されてきた。何かを語る以上、たとえば新聞の署名記事のように、誰がそう言っているのかという責任の所在をはっきりさせる必要があると信じたからだ。

もちろんのそのために自身のプライバシー保護に問題が生じる可能性はある。大変危険なことでもある。が、それはウェブ上で情報発信する以上負わなければならないリスクだと僕は考えている。そもそもペンションガイドブックにはかなり詳しくオーナーの個人情報が公開されている。ペンションとはそもそもそのような業態なのだ。

そこがほかの宿泊施設と決定的に異なるところだ。ペンションは特定の個人がその個人的責任において経営している宿泊施設なのだ。組織では無く資本でも無く「個人」が全責任を負って運営されているのがペンションという「宿」なのだ。

だから、匿名あるいはハンドルネームでペンションのホームページを公開することは僕にはできない。個人が公開する趣味のホームページとは決定的に異なるものだからだ。お客様にはその違いなどどうでも良いのかも知れないけれど、僕はそうでは無いと考えている。匿名による暴力が頻発する世の中にあって、僕はぜんぜんトレンディーじゃないのだ。

しかし蔓延する匿名性によって現代社会が犯罪の温床になってゆくのを苦々しく思っているのは僕だけでは無いと思う。匿名性とは自分が自分であることに責任を持たないということだ。自分が行うこと行ったことに対して責任をとらずに頬被り(ほおかむり)して隠れることだ。

それは「プライバシーの保護」という概念とはまったく異なる行為だ。そのことがわかっていないひとが多すぎると感じている。だからペンション・サンセットではいっさいの匿名およびハンドルネーム(ニックネーム)を認めない。

旅館業法でも宿泊者は正しく自身の氏名、住所等の事実を宿帳(宿泊者名簿、宿泊カード)に記帳することが義務づけられており、偽名等を記す行為は厳しく禁じられている。

このような主張をすると「なにを固いこと言っているんだ」とか「ずいぶん厳しいのね」と言って敬遠するひともいるが、これが本来守られてきた社会的同意事項だし、それはいまもなんら変わっていない。我が国は先進国家であり、歴史ある法治国家なのだ。

匿名性と言うのは無責任と同義である。匿名性を利用すると言うことは、自分は安全なところに身を置いて、ひとをおとしめたり攻撃したり傷つけたりする行為を行うと言うことだ。たとえば匿名性の突出した例としてはテロリズムがある。テロリズムの恐怖はその匿名性に本質があるのではなかったか。テロが蔓延するのは匿名性を甘やかす現代社会そのものにあるような気がしている。

少年犯罪の増加も現行少年法の本質である「匿名による犯罪」と言う少年犯罪の取り扱いにその本質的原因があると考えるものだ。少年法はもはや「少年保護・更生」のための法律ではなく「少年犯罪の保護」のための法律におとしめられているように感じる。少年でさえあれば「匿名性」を担保され、罪を問われず、大人のような罰も受けず、ただ見せかけの「反省」と見せかけの「更生」だけで済んでしまうのだ。これを「犯罪特権」と呼ばずになんと呼んだらいいのだろう。

いずれにしても匿名によるやり取りには真実も責任も信義も無い。諜報機関やスパイ同士の交渉では無いのだ。匿名でなければ成立しないようなコミュニケーションや契約行為などそもそもの始めから行うべきでは無いし、存在そのものが犯罪の温床となる要素を内包している。

匿名社会こそ、プライバシーの保護と言う名のもとに、犯罪性という危険な誘惑に満ちた社会を形成しているのではないか。いま立ち止まって考える必要がある。

2006年09月08日

3492 パルの術後経過

曇り 気温:最低 14℃/最高 19℃

実際の観測気温よりも、体感気温は高めの一日だった。これは湿度などの気象的要因によるものなのか、身体が秋めいた気候になじんだためなのかわからない。いずれにしても、日中は暑くは感じず、夜は以前より暖かく感じる。蓼科の山岳部では、森のそこここで赤いもの(紅葉)が見られるようになってきている。

さて、理屈っぽいことばかり書いていると嫌われるので(と言うのは嘘です)、違うことを書こうとするのだけれど、なかなか《無難な》話題がない。ブログみたいに社会的事件にコメントする形式ならかなり楽なのだけれど、それをやるつもりはあまりない。あれはあれで、トラックバックやら何やらがくるので大変気を使う作業なのでは無いかと思う。

あ、そうそう、愛犬のシベリアンハスキーのパル君が今日獣医さんでお尻にできた腫瘍の切除手術を受けた。とても健康で予防注射以外で獣医さんのお世話になったことなど無かったので、麻酔をする段になって彼はじたばたと抵抗して大変な騒ぎになった。身体が大きくて精悍な風貌のわりに子犬みたいな態度なので周囲のひとにしっかりと笑われた。まあ、それがパル君らしいところなのだけれど。

麻酔をかけるまで男性3人がかりで抑えて点滴用の針を刺したりして手術の準備を完了した。彼にしてみればそれはそれは恐ろしい体験だったに違いないが、手術をしないでほうっておくと大変なことになるのだから恨まれたとしても僕としてはしょうがないと思っている。おかげで、帰ってきてからどっと疲れが出て(何しろパル君がものすごい力で抵抗するものだから)、小一時間寝込んでしまった。

文字通り《家族》が手術を受けたわけだから、精神的にものすごく緊張状態にあったのがほっとしてとけたために急激に眠くなったのかも知れないとあとで思った。パル君のわが家における存在の大きさを改めて認識したしだい。もはや彼のいないわが家など考えられないのだ。

病理検査の結果待ちだけれど、おそらくは良性腫瘍とのことなので少し安心した。手術は問題なく終わり、お尻に長い縫合の跡が残った。麻酔から覚めたあと数時間は心ここにあらずと言った様子だったが、夜半には正気に戻っていつも通りのパル君になった。それでも僕が近づくと無理やり変なところにつれていかれてひどいことをされたとでも思っているのか、僕に対して警戒心を持っているのが感じられてちょっと寂しかった。

いまパル君は自分の犬舎にはいって、すやすやと眠っている。

これが今日のわが家のいちばん大きな出来事だった。

2006年09月09日

3493 そこそこの才能

曇りのち晴れ 気温:最低 14℃/最高 20℃

カシオのデジカメ「EXILIM」のCMに登場する女性に心魅かれる。空中回廊のようなレッドカーペットの上をファッションショーのようにウォーキングしてきてポーズを決めた時のある種不敵な微笑みになぜか強く心を動かされる。そのウォーキングする姿がまた美しい。

まったく知らない女性なのでファッションモデルだろうと勝手に思い込んでいたが、今日調べてみたらなんと昨年退団したばかりの宝塚歌劇団月組の男役トップスター、彩輝 直(あやき なお)と言う女性だった。どうりで別格のオーラを放っていたわけだ。

身長170センチのその容姿は男役だったとは信じられないほどたおやかで美しいオーラをはなっている。スターと言うものはやはり神に選ばれしものなのかも知れない。女優、彩輝 直がこのCMの魅力を引き出し、このCMの上質なクリエイティヴが彼女の魅力を最大限引き出したのだ。

カシオのウェブサイトにこのCMのメイキングオブがムーヴィーにしてアップされていた。それを見て僕はぞくぞくした、いや《血が騒いだ》と言った方がいいかも知れない。僕がその昔身を置いていた世界がそこにあったからだ。僕はあの世界を逃げ出すべきでは無かったのかも知れないと、ふと思った。

しかし僕は知ってしまったのだ。自分にはそこそこの才能しかないということを。そこそこの才能があるよりも、まったく才能がないほうがある意味では幸福なのだ。地獄よりも煉獄の方が堪え難いものなのだ。しかし才能のある人はあるひとで、その人なりの地獄を抱えながら自分の才能に突き動かされるようにして生きる他無い。そのこともまた僕は知ってしまった。

だから、やはり、いまの僕の方がかつての僕よりも幸せだと感じている。ここが僕の居場所だと心の底から思えるからだ。僕はここにいて、蓼科高原日記と言うクロニクルを毎日こつこつと書き続けることが分相応だと思う。また、それなりに幸福感も感じている。幸福感とは自分が自分であることを実感するということだからだ。

僕はいまここにいて、限りなく自分自身である。

2006年09月10日

3494 死はつねに生とともにあり

晴れ 気温:最低 13℃/最高 20℃

今日は朝から快晴、気持ちのいい秋晴れになった。午後一時曇り空になったが、その後ふたたび空は晴れ渡り美しい月と星空を堪能できた。「天高く馬肥ゆ」とはよく言ったもので夜空もやはり秋にはずいぶん高く感じる。その空気感がたまらなく爽快だ。

ペンション村の《お散歩ひろば》に植えたたくさんのコスモスが満開になった。例年よりだいぶ遅い満開だけれど、柔らかな陽射しの元でそれが風に揺れる姿はこの上ない秋の景色になっている。

9月は命の季節が終焉を迎える時節だ。植物の生育が終わり、結実し、それを落としあるいは播種し、紅葉しやがて落葉を迎える。動物の世界でも緩やかな世代交代が進行する。森はゆっくりと静寂の世界へと変わってゆく。

今夜もとても静かだ。夜更けだからと言うことでは無く、一日中静かなのだ。活気がないと言うのとも異なる、野卑で無粋な人間がそれをぶち壊さない限り続く、永遠を思わせる静寂だ。僕の人生もいまはっきりと《秋》と言う季節へと移ろっているのが実感できる。だからとても親しみを持ってこの季節を迎えるようになった。

秋は生命の終焉の季節であると同時に、収穫、結実の季節でもある。生命のピークである夏と言う季節を終えて、実りの時を迎える。人生で言うならばじつは黄金期と言ってもいいのかも知れない。確実に死へと近づいたのは確かでもそれは自然の理(ことわり)、長い上り坂もゴールが見えてきたと言うことなのかも知れない。

死が恐ろしいのでは無い。死へのプロセスが恐ろしいのだ、少なくとも僕はそう思う。死はつねに生とともにあり、それはひとつのものなのだ。だから、動物たちのようにそれをあたりまえのこととして自然に受け入れることができるようになりたい。人間は動物たちのように《いまを生きる》ということができていないから、生(つまり人生の現実ね)も死(つまりゲームオーバーね)も受け入れることが困難なのかも知れない。

それはさておき、じつに動物の自然治癒力はすさまじいものがある。愛犬パル君(シベリアンハスキー)の手術跡はよく見ないとわからないほど治癒している。麻酔が醒めた日はもとより、翌日夕方までまったく痛がらなかった。

夕方になって多少違和感を訴えてお尻を気にし出したので、もらっておいた痛み止めの錠剤を与えると、再びまったく気にしなくなり今日に至っている。昨日からなにごとも無かったかのように元気に散歩に出かけている。

獣医さんから10日後の抜糸がひと騒ぎでですよと言われているので今から覚悟している。なんでもない手術準備処置であんなに大騒ぎしたから、そんなふうに思っているのだろう。確かにパル君はそういうところで臆病で大騒ぎすることが多い。人間の悪意にさらされた経験がまったくないので、とても甘えん坊なのだろう、たぶん。

とは言え彼の戦闘能力はドーベルマンを上回るから、我々家族以外は彼を自衛的戦闘モードにさせないように注意して接するようにしなければならない。そうしないとふだんのグータラしたなごみモードから一気に精悍なコンバットモードに変わるのだ。

僕はパル君がペンション・サンセットにやってきて以来12年間、じつに多くのことを彼から学んだ。彼と一緒に過ごす時間は、彼の時間が流れる。それはわれわれ人間の時間とは決定的に異なった時間の流れだ。その中で、僕は生命にとってとても大切なことを自然に学ぶことができたように思う。彼の一挙手一投足が自然からのメッセージのように感じられた

獣医さんからは年齢のわりにとても健康なのであと3年は確実にこのまま元気で過ごせるだろうと言われた、そもそもハスキー犬は長生きだから、と。あと何年、あとどれだけ、僕はパルから教えられる日々をともに過ごすことができるのだろう。それが永遠であればいいのに。

2006年09月11日

3495 愛犬とともに歳をとるのも悪くない

曇りのち雨 気温:最低 13℃/最高 19℃

朝から雲の中に入っていた。それはいまも変わらない。曇りのち雨だったのは確かだが、その後は曇り時々雨という状況が続いている。愛犬パルは先週金曜日の手術以降どんどん回復している。昨夜の散歩、今日の散歩では手術以前よりむしろパワフルだったほどだ。やはり腫瘍のために体調が悪かったのかも知れない。

僕は今頃になって夏の繁忙期の疲れがどっと出てきたような感じだ。いくら眠っても眠くてしょうがない。どこが悪いというわけではないが、心身が休息を求めているように感じる。ちょうど激しい運動のあとのクーリングダウンのようなものなのかも知れない。

パルも日中はほとんど爆睡している。耳が少し遠くなったようだ。僕も耳が少し遠くなったようだ。パルは年齢相応かも知れないけれど、僕は年齢不相応かも知れない。子供の頃からやたら聴覚が鋭敏で30ヘルツ以下から20000ヘルツ以上まで聞こえていたから、老化が早く始まったのかも知れないし、そのことを敏感に感じるのかも知れない。

視力も衰えが激しくなってきて、老眼と乱視がかなり進んだ。もともと視力2.0以上の遠視だったから、これもそのために早いのかも知れない。また、眼のとらえる光量が減少したのか、そんなに暗いところでなくても「暗くて文字がよく見えない」ということが多くなった。その一方で星明かりのみで暗闇を歩くことができるのだから、自分の視力がどうなっているのかよくわからない。

なんだかパルと一緒に歳をとっているような気がする。別に苦にしてはいない、たとえこれがひとより早い老化現象なのだとしても、それが自分の加齢のプロセスなのだと受け入れている。肉体的な運動能力に関してはさほど衰えは感じなくなってきた。それについては老化が鈍化した感じがする。

記憶力、これは劣化が進んでいる。検索能力の衰えととらえたほうがいいタイプの記憶力の老化現象だ。「憶えているのに思い出せない」ということだ。思考能力も集中力の減退を感じている。もはや鋭敏で高速な思考は無理かも知れないが、そのように分析的ではない、総合的な思考能力はむしろ強化されたように感じる。

もちろんこれは、たとえば20代の頃の自分と比較した「相対的比較」の問題である。50代の僕に20代の能力を求めること自体が誤っていることは自覚している。ひとはその年齢なりに生きていくものだ。その年齢でしかできないことが確かにあるのだ。その年齢に達しなければわからないこともまたたくさんあるのだ。

いま僕はそのことを日々実感している。

2006年09月12日

3496 《匿名》状態における人間の行動傾向

雨 気温:最低 11℃/最高 15℃

秋の長雨のようだ。天気概況は当分雨の日が続くと告げている。でも台風が来ていないだけましかも知れない。ピラタスの丘は朝から霧がかかったような幽玄な風景になっている。雨は、そう、そんなに本格的には降っていない。ほとんど降っているのかどうかわからない程度の状況が続き、たまにはっきりとした降りになる。

今日は終日気温が低めだったけれど、寒さは感じない。身体が季節に順応してきたのと、森がいまだに湿潤で枯れていないせいだと思う。じめじめしているわけではないが、例年より湿度は高めだと思う。そのために、僕らにはこの夏はいつもより「暑く」感じられたのだが、お客様にとってはとんでもなく涼しいと感じられたという感覚のギャップがあった。例年並みの湿度ならば、ピラタスの丘の夏はもっとずっと涼しいのだ。

森の様子もいつもの9月とはいささか異なるようだ。いまだに黄葉、あるいは紅葉する樹木が散見される程度にとどまっているのだ。いつもだったら白樺の葉はすでに紅葉してはらはらと落ち始めているはずなのだ。タラノキやナナカマドやヤマブドウはそれぞれに紅葉しているはずなのだ。

地球規模で温暖化が進み、日本は亜熱帯性気候から熱帯性気候へと変化しているのではないか。様々な報道の告げるとおり、それは特異な気候としてではなく、日常的な気候として定着しつつあるように感じる。このように自然のまっただ中に身を置いているからこそ、そのことがはっきりとわかるのだ。

★★★

さて、先日(9/6)この日記で:

《しかし蔓延する匿名性によって現代社会が犯罪の温床になってゆくのを苦々しく思っているのは僕だけでは無いと思う。匿名性とは自分が自分であることに責任を持たないということだ。自分が行うこと行ったことに対して責任をとらずに頬被り(ほおかむり)して隠れることだ。

それは「プライバシーの保護」という概念とはまったく異なる行為だ。そのことがわかっていないひとが多すぎると感じている。》

ということを書いたが、今日ウェブで以下のようなことを学んだ。

《壊れ窓の理論というものがある。(中略)元々、この壊れ窓の理論は、「匿名状態では、人はより自己規制が働かず、無責任な行動をとる傾向がある」という心理学者フィリップ・ジンバルドの理論をベースにしているそうだ。そう言われてみれば、公衆便所に落書きをする人も、匿名性の保たれない自分の会社のトイレではあまり落書きはしない。もっとも壊れ窓の理論では、匿名性に加えて「窓がたくさん割れている」という事実が、さらに自己規制をなくしてしまうということを提唱している。》

出典はこちらの記事だが、記事の方の議論は僕の議論とはベクトルが異なっている。僕の興味を引いたのはこの理論における《匿名》状態における人間の行動傾向だ。誰でも「なるほど」と思うだろう。もし現在のネット界が治外法権的に「荒れて」いるとするならば、それはやはりネット特有の匿名性に対する寛容さにあるのかも知れないと僕は考えている。

本来的に「契約行為」である宿泊予約において「フリーメールアドレス(ヤフーやホットメールなどの無料メルアド)」を使うことも、個人情報保護の目的はわかるが、こちら側からみれば「準・匿名行為」に当たるということに気づいてほしい。

まともなネットショップではフリーメールアドでは買い物できないご時世に、ペンションはなめられている(あるいは下にみられている)と感じている。が、それは違うのね。これはお客様の不見識というよりは、ペンション経営者兼ウェブマスターたち(僕も含まれる)の不見識であり怠慢だと、やっぱり、僕は考える。

ペンション・サンセットでは従来からフリーメルアドの使用を避けるよう推奨してきたが、昨今むしろ増加傾向にあることを鑑みて、今後はフリーメルアドのお客様のご予約は一切受け付けないことに方向性を定めて暫時対応を変えていくつもりだ。フリーメールアドレスは匿名性を本質としたものだからだ。

そもそもフリーメルアドがどうして無料であのようなサービスを成立させているのかその仕組みを考えたことがあれば、あんなものを使う気にはならないはずだ。メルアドを取得するにはあなたの個人情報を(場合によっては洗いざらい)登録しなければならなかったのではありませんか?

僕の経験では登録したとたんにスパムメールがそのフリーメルアド発でやってきて驚いたものだ。「やられた!これはいっぱい食わされた」と思ったものだ。極論するならば、なにがしかの個人情報提供と引換にあなたはフリーメルアドを利用することができるのだ。そして一度登録した個人情報はフリーメルアドを解約したあともどこかに流れるか消えないで残るのだ。

きちんと個人情報を保護したいのならば、契約しているプロバイダーのメールアドレスをもう一つ用意して、個人的用途と、ショッピングなどの用途に分けて使うことだ。そして後者に関してはスパムメールが送りつけられてもやむを得ないと割り切ることだ。それならば、「匿名行為」あるいは「準・匿名行為」を行わなくても済むというものだ。僕はそのようにしている。

このようなことを書くと「また小うるさいことを言っている」と感じるかも知れないが、そのようなメンタリティーじたいが個人情報を売り買いするような社会を作り出していることに気づいてほしい。スパムメール(迷惑メール)の発信者が匿名、源氏名あるいは「なりすまし」であること、そしてその発信メールアドもまた匿名、「でっちあげ」あるいは「なりすまし」であることをみれば、自分が「匿名性を本質としたフリーメルアド」を使うという同様のことをしているのに文句を言える人がどれほどいるだろうか。

「匿名状態では、人はより自己規制が働かず、無責任な行動をとる傾向がある」のだ。みながそのような状態になって、より安全な社会、よりよい社会が構築できるだろうか。悪意を持って(これはもってのほかだ)、安易に、あるいは無定見に、あるいはイノセントに(そのようなひとが一番多い)「匿名行為」あるいは「準・匿名行為」を行うひとが減少するよう願うばかりだ。

2006年09月13日

3497 全然怖くないですよ〜

雨 気温:最低 10℃/最高 13℃

昨日ぐだぐだ書いてしまったけれど、要するに「個人情報保護と匿名の行使とは異なるものである」ということを言いたかった。個人情報保護を目的に匿名を行使するのは社会規範に照らしてに間違っている。個人情報を守るために匿名を行使しなければならない状況じたいを避けるのがもっとも賢明な行動だろう。

フリーメールアドレスの利用じたいは決して否定されるべきものではないが、少なくとも社会的に責任ある発言や商行為を行う場合には使用すべきではない。フリーメールアドレスはかつての一部のプリペイド携帯電話同様に「匿名性」をその本質として持っているからだ。相手にはあなたが実在する人物なのかどうかがわからない、「なりすまし」でないことを根拠無しに信用するしかない。

一方、あなたが契約しているプロバイダーの発行するメールアドレスには少なくともこの実在性の根拠が見いだせる。それは契約に際してプロバイダーに対して開示された非公開の個人情報を根拠として発行されたメールアドレスだからだ。そこが決定的に異なる。相手に対する個人情報開示とあなたの信用度とは正比例するのだ。これは社会の仕組みとして避けて通ることはできない。

「匿名」あるいは「匿名性」の乱用は避けなければならない。

どうしてそうなのかは9月6日および9月12日のこの日記で論じたので繰り返さない。


★★★

こんなことを折に触れては書くからかなあ、あるお客様に「オーナーが優しい方で良かったです。正直もっと怖い方かと勝手に思っていました。」なんて言われちゃうのかも知れない。(^_^;)

全然怖くないですよ〜。ヽ(^0^)ノ

ご安心下さい。(ホントです)

こういうことを言ったり書いたりするのはこの日記の中だけですから〜。

2006年09月14日

3498 「人を下に見る」ということ

雨のち曇り 気温:最低 9℃/最高 13℃

朝のうち雨が降っていたが、昼前から止んで曇り空になった。夕暮れ時、再びにわか雨が降ったがいまは止んで曇り空になっている。ピラタスの丘は今年は紅葉が遅く感じる。まだまだ夏の風情が濃厚なのだ。

ここ数日フリーメールアドレスたたきみたいなことになってしまったが、個人が個人的目的でちょっと危ない掲示板や当たり障り無いけどニックネームで参加するのが慣行となっている掲示板などでニックネームとともに使う分にはちょうど良いのかも知れないと思うし、それを否定するものではない。

しかし同じ「乗り」で商取引や責任ある発言をすべき場面でそれを使用することに異議を唱えただけであるということを、多くの善意のフリーメールアドレス利用者の方には誤解の無いよう、再度記しておく。

それはさておき、昨今「人を下に見る」という態度や言動や行為が増えてきている、特に、若い世代にその傾向が顕著な現象として現れてきているという。「人を下に見る」という意識は他者を自分より下に置くことによって自分をより上にいるように感じる「病んだ意識」だ。それはその根拠がないという点においても「あらゆる差別やいじめの根源的意識」である。

「人を下に見る」という態度や言動や行為はそもそも決して「品の良い」あるいは「人格の成熟した」印象を与えるものではない。それは「人間としてのあるいは一個人としてのプライド」とはまったく異なるものだ。後者は失ってはならない大切なものだが、前者は絶対的に否定解消されるべきものだ。それは相手に対して卑劣きわまりない態度だからだ。

相手が逆らえないあるいは反駁できない立場であることを見透かしてそのような態度に出るわけだからね。これは卑怯千万、卑劣きわまりない、ついでに唾棄すべき社会的行動だ。老若男女を問わず、自分のプライドの表出表現としてそのような態度をとることはまったく間違っている。プライドとはそのように野卑なものではない、もっと崇高なものだ。

本当の大人物は大人物だという態度をとらない。本当の人格者は人格者ぶらない。本当に偉いひとは偉いひとぶったりしない。それらは自然とにじみ出てある種のオーラとしてひとに伝わるものだ。「偉ぶる」必要はない、「威張る」ひつようはない、ひとを見下したような態度や言動をとるべきではない。それはあなたを貶めるだけだ、見た目は人々を自分に従わせたように見えるかも知れないけれど、人々は本当はあなたをさげすんでいるだろう。

それに気づかないとしたならそれはあなたにかしずいている人たちが良くも悪しくも狡猾で世渡り上手だからに過ぎない。あなたは「裸の王様」なのだ。

いずれにしても僕は、それが誰による誰に対するものであっても、社会的観点からも個人的信条からも、「人を下に見る」ことを許さない。

2006年09月15日

3499 排他性によってしか自己を確立できない人々

晴れのち曇り 気温:最低 8℃/最高 14℃

宗教の本質は「神」にではなくその「排他性」にある。この「排他性」無くして宗教は成立しないのだ。あらゆる戦争や武力闘争はこの排他性が原因であると言っても過言ではないだろう。宗教としての「神」が登場するのは排他性の根拠としてであり、戦争や武力闘争の理由付けとその遂行の正当性を裏付けるためである。

広島、長崎に対する米国の原爆投下「実験」を祝福した「神」を僕は信じるわけにはいかない。

無垢の人々を無差別に殺戮するテロリズムを祝福する「神」、聖戦を善とする「神」を僕は信じない。

異教徒を迫害し、殺戮する「宗教」を僕は信じない。

オウム真理教の元教祖の死刑判決確定のニュースを観て、ふとそんなことを思った。

ミクシィが隆盛を誇る時代にあって、排他性によってしか自己を確立できない人間の激増を思う。ある属性によってしか自己を位置づけられないということの危うさを思う。もちろん人間はひとりでは生きられないというのは永遠の真実だと思う。

しかし、この状況はそれとはちょっと異なっているように僕には感じられるのだ。

やはり人間も動物の一種であり、群れて生きる定めなのだと改めて思う。

「はぐれ猿」として生きることを選択したものとしては複雑な思いがする。

2006年09月16日

3500 そして日記は螺旋を描いてふりだしに戻る

曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃

僕らは過大な期待をしすぎていたのかも知れない。インターネットというインフラに、WWW(ワールドワイドウェブ)というひとつの世界観に。一個人が国境を越えて不特定多数の人々にメッセージを発信できると、いささかなりとも、思いこんでいたところがある。

しかしそれはどうも違っていたようだ。インターネットの世界でも、インターネットが出現する以前の現実世界と同じことが起こっているだけだ。個人のメッセージは個人のメッセージ以上の力を持ち得ないし、広告は広告らしくなければその効果が期待できない。新しいコミュニケーション形態は未だ出現していない。

それはケータイ以前とケータイ普及後の社会が何ら本質的変化を遂げていないということとも相通じる事実だ。それを使うのが人間である以上、そしてその人間が何ら進化していない以上、あたりまえのことかも知れない。インターネットとケータイというこのふたつのコミュニケーションのために用いられるインフラのもたらしたものといえば、社会における個人の匿名性の氾濫だけなのかもしれない。

また「匿名性」だ、やれやれ。

僕らは「匿名性」を身にまとうことによって、まるでなんでも透明にしてしまう魔法のマントをまとったような気になってしまう。自分は安全圏に身を置きながら何だってすることができる。この匿名性による自己の行為の秘匿こそ、現代社会の病理といえるだろう。

というようなことをまた書いてしまう。これでまたお客様が減ってしまうのだろう。がんばって書けば書くほど潜在顧客の数が減ってゆくような気がする。もっと楽しくて、おいしそうな話ばかり書く方が何倍良いのか知れないけれど、僕にはそれができない。

「匿名のペンションオーナー」としてお料理の四方山話(よもやまばなし)とか、パンを焼く話とかだけしていた方がずっとずっと良いのかも知れないのにね。

匿名を使わずに日記を書くという行為は結局はこのようなスタイルこのようなコンテンツへと帰結するほか無いのかも知れない。僕という実在の個人の核心から読者を遠ざけるために螺旋(らせん)を描くようにして個人的想いから話をそらせてゆくのだ。

螺旋構造(らせんこうぞう)は DNA だけではない。それは思考においても存在する構造なのだ。弁証法なども僕の感覚では「螺旋構造」そのもののプロセスのように感じる。しかも(少なくとも)僕の思考における螺旋構造はエッシャーの「だまし絵」のように、あるいは音楽における音階のように、のぼることもなくくだることもなく、進むこともなく戻ることもない。気がつけばいつの間にか「ふりだし」へと戻っている。

11年前に書き始められたこの日記は、おそらく、12年かけて巨大な「円環」を描くような気がしている。つまり、12年の歳月をかけて「ふりだし」に戻るのだ。それを「徒労」と呼ぶべきか、「いささかの進歩・進捗」と呼ぶべきか僕は知らない。

2006年09月17日

3501 秋の長雨

晴れのち曇り 気温:最低 10℃/最高 17℃

台風が近づいているというが、ここは風ひとつ無い。朝から(天気予報に反して)快晴の秋空がとても美しかった。雲もすっかり秋雲に変わった。空の写真を撮ってあとでモニターで見るとなんとど真ん中に「赤とんぼ」が写っているではないか。ファインダーではまったく確認できなかった。

午後遅くから曇り空、というかしだいに雲の中に入ってきたようだ。午後5時頃にはすっかり霧の中のような景色になった。雨は降りそうでまだ降らない。雲はコンスタントにゆっくりと流れて、じつに幽玄な情景になっている。残念ながら今日は夕陽は見ることができそうにない。

台風13号は日本海に抜けて明日の夜には東北沖の日本海あたりに到達するようだ。ここは雨もほとんど降らずあまり影響は受けそうもない。標高が高いので、上空の雨雲は平地と異なって一層のみなので、平地ほど雨は降らない。森林帯なので防風林のように機能して風の影響もほとんど無いのが通例だ。もちろん土砂災害とも無縁の土地柄だ。

天気概況によれば明日はそよ風も吹かないだろう。雨もまず降らない。台風13号の雨雲は北側に集中しているからだ。今日お泊まりのお客様にとってはじつに幸いなコースをとってくれたようだ。そもそもこの台風のおかげでせっかくの9月の3連休の人出は最悪になった。観光地にとっては泣きっ面に蜂の天気が続いた。

これで秋の長雨も一段落して、穏やかな9月らしい気候になってほしいものだ。

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2006年09月18日

3502 インターネット・セキュリティー

曇りのち晴れ 気温:最低 12℃/最高 17℃

幸いなことに、蓼科では、台風13号の影響はまったくといってよいほど無かった。朝は晴れ間がのぞいたほどだったが、その後雲がかかって、一時雨がぱらついた。しかし、夜になると空は晴れ渡って、満天の星空になった。

この連休は朝晩数時間全館暖房を入れる必要があった。暖か(暑い?)平野部からいらしたお客様とピラタスの丘で暮らしている僕らとでは体感気温が異なるので、客観的気温とお客様のよう鵜から判断して暖房を入れるかどうか決めている。

個人差もあるので、暖房を入れると「暑い」とおっしゃるお客様もいらっしゃるし、反対に「寒いので暖房を入れてください」とおっしゃるお客様もいらっしゃる。基本的には厚手のトレーナー等を羽織ってもまだ寒ければ暖房を入れるようにしている。

結果を見直してみると、土曜日は暖房を入れてちょうどよかったが、日曜日は暖房は「余計なお世話」だったかも知れない。自宅にいるときと同じ室内気候をお客様は求めていないということを学んだしだい。高原には高原のひんやりした気候を求めていらっしゃっているのだということを、危うく忘れそうになっていた。


それはそうと、CATVのインターネット回線を20MBコースに変更してからしだいに「ポート番号135」に対するアクセス試行が急激に増加した。それも同じCATVのネットワーク内の複数の個人からのものだ。調べてみるとこのポートは開けておくと大変危険なポートだそうだ。僕の場合はファイアーウォールソフトが検知してブロックしてくれたので難を逃れた。

実際、警察庁の発表でもこの135番ポートへの不正アクセス試行が急増しているとのこと。みなさんもどうぞご注意いただければさいわいだ。是非OS標準のファイアーウォールだけにまかせないで、もっと強力なファイアーウォールソフトをインルトールすべきだと思う。

特定のグローバルIPアドレスからのアクセス試行が執拗なので今日そのデータをプロバイダーに送って、その事実を報告した。グローバルIPアドレスから個人を特定できるからね。そしてどうにも目障りなので、山を下りて街のヤマダ電気で有線ブロードバンドルーターを購入して、それを経由してMacに接続するようにした。

これはプロバイダーのサポートの方の推奨する接続方法でもある。そのことは知っていたけれど、これまでこれほどしつこい不正アクセスがなかったので、スピードを優先して、HUBを介して直接PCを接続していたのだった。

ついさっき細かなファイアーウォール設定が終わったところだ。ちなみに僕が選んだのは BUFFALO BBR-4HG という機種だ。回線速度は予想していたのとは異なってほとんど落ちなかったので、満足している。セキュリティーレベルを上げると回線速度が多少落ちるのはまあやむを得ないと思う。

大切なお客様情報の入ったPCだからこそ、セキュリティーを最優先項目にしている。ルーターやセキュリティーソフトをまったく使っていないと、あなたのPCのハードディスクの中身もモニター画面もすべてが丸見えになっていることがあるのですよだって・・・ほんとに怖い話だ。


冒頭でも書いたが、今夜は満天の星空になった。この夜空をお客様に見ていただきたかった。なんて皮肉な巡り合わせなんだろう。土曜日、日曜日とも夜は雲がかかっていたからね。なんだかとっても申し訳ない思いでいる。

2006年09月19日

3503 9月らしい季節感になってきた

曇り 気温:最低 10℃/最高 14℃

今日はほとんど外に出ないで過ごした。たまにはこんな日もあるし、必要なことだと思っている。天気は朝から曇りがちで見上げれば秋の雲が美しく青空ものぞいている。しかし、陽射しがほとんど差し込まないので「晴れ」とは言いかねる。

一時雨がぱらついたがそれも止んで、結局は今日の天気は「曇り」と言うのが妥当なのだろう。ペンション・サンセットの庭の樹木も少しずつ紅葉を始めた。白樺も黄葉して落葉が始まった。ようやく9月らしい季節感になってきたようだ。

ここ数日は奇妙に温かかったが、今日はだいぶ本来の冷え込みを感じる一日になった。いまでもまだ多くの野鳥がピラタスの丘に生息していて、灌木の茂みに身を隠しながら動き回っている。その上空を鷹や鷲が低く旋回していく。

よく見れば、見渡す景色全体の色味が黄色にシフトしてきたのが感じられる。指標としてはなにもないのだけれど、これは実感だ。吹き抜ける風はもう完全に秋風になっている。陽射しは弱まり、夏のあの威勢の良さは微塵もない。思わず「ひなたぼっこ」をしたくなるくらいのものだ。

パルは気持ちよさそうに熟睡している。シベリアンハスキーだからこの冷え込み、この冷風がとても心地よいのだろう。夏に比べて日中もとてもよく寝るようになった。羽虫や蜂が飛び回らなくなって気に障ることが無くなったのも一因かも知れない。

散歩の時も往年の若犬の頃のように元気いっぱいだ。身のこなしも軽やかに、リズミカルにずんずん急坂を登っていく。彼の走りは馬のギャロップと同じスタイルなので、見ていてもとても優美に感じる。全身が新しい毛でむくむくとしてきたのでその姿もとても愛らしく美しい。

ピラタスの丘ペンション村ではコスモスが満開になり、マツムシソウが咲き乱れる季節になった。ここには「残暑」なるものは古来より存在しない。夏が終わりいきなり秋が来る。そのようにしていま秋を実感している。


さて、昨日導入した有線ブロードバンドルーターは大正解で、ルーターのファイアーウォール機能を「高度」に設定して外部からのすべてのパケットを遮断し、DHCPからのIPアドレス取得に必要なパケットのみを通すように設定した。

おかげでそれ以前にちょくちょくつついてきたアクセス試行はPCまで到達しなくなった。あんまりしつこいとpingフラッドやポートスキャンで反撃したくなっちゃうから、これでよかったのだと思う。戦争やっても双方良いこと無しだからね。

セキュリティー保護のため、あえてこの部分はあまり正確に書いていない。わざと間違ったことを書いたりもしている。やれやれ、嫌な世の中になったものだ。まあ、とにかく、ルーターとファイアーウォールソフトの使用はいまや必須のものとなったわけだ。それをやっていないとなにがあっても不思議じゃない。

それにしても今はやりの「匿名性」を担保できない同じネットワーク内の会員のPCに自分のグローバルIP丸出しで不正侵入を試みるかね。大胆というかお馬鹿というか・・・。そいつの家の前にクルマを乗り付けてぶん殴ってやろうかね。いや、それじゃあ傷害事件になっちゃうからやめておこう、馬鹿みたいだし。

2006年09月20日

3504 樹木が一斉にはらはらと落葉を始めた

晴れ 気温:最低 7℃/最高 16℃

いやー、じつに久しぶりの快晴だった。厳密に言うなら一日中陽射しがあったのはじつに久しぶりのことだ。さんさんと陽光が降り注ぐ様を見るのはいったい何日ぶりのことだろう。じつに気持ちの良い天気だ。それに呼応するかのように、ピラタスの丘の樹木が一斉にはらはらと落葉を始めた。

といってもまだ緑色の葉だから、本格的な落葉は紅葉したあとになるけれど。それでもクルマで道を走っていると木の葉がフロントウインドウをさらさらと打つのだ。絵に描いたような「秋晴れ」だった。こんな日がずうっと続いてほしいものだ。身も心もすかっとする。

夕暮れ直後に山麓の街からクルマで戻ってくると、ヘッドライトの先に鹿の群がみえた。なんと5〜6頭の野生の鹿の群が「お散歩広場」を駆け抜けてゆくところだった。その情景はまるでおとぎ話の世界のようで、なんだか現実感がない。しかし間違いなくこれは現実だ。美しい情景だ。感動する。

出かけるときも子鹿が道路の真ん中にたたずんでいて一時停止を余儀なくされた。まったくひとを恐れないから運転には十分な注意が必要だ。特に夕暮れ時から翌朝にかけて、彼らはよく現れるから、そしてクルマのヘッドライトに照らし出されるとフリーズしてしまう習性があるから。

愛犬パルと散歩に出ると、自分の吐く息が真っ白なのに気づいて驚いた。Tシャツの上にざっくりした厚手のトレーナーを着てその上にゴアテックスのマウンテンパーカという服装だったが、それでも少し寒いくらい。帰ってきたいまも顔と耳が冷たい風で冷えてちょっと痛い。

そんな気温だから、空は晴れ渡って文字通り「満天の星」が頭上に輝いている。いつみてもぞくぞくする壮大な情景だ。眺めていると心がおおらかに大きくなってくる。

そういえば最近あまり経営のことを考えなくなった。正確に言えば、頭では考えなくなった。あるのはお客様に心地よくお過ごしいただきたいという漠然とした想いだけだ。精神的にはぐっと楽になったが、このまま行くとつぶれちゃうのかな、ははは。

まあ、水は高きから低きに流れるのたとえがあるように、結局はなるようになるのだ。こんなことを言ったからって、別に僕は「やけになっている」わけではないのですよ。これはピラタスの丘の自然から学んだことなのです。

2006年09月21日

3505 ここでは誰もあなたがあなたであることを責めたりしない

晴れ 気温:最低 7℃/最高 16℃

今日もすばらしい「秋晴れ」になった。天気予報では明日も、ということはこの週末も「秋晴れ」になりそうだ。週の初めの「週間予報」では週末はずうっと雨のはずだったのではなかったか。週間予報はいつも「週末は雨」と報道するのだ、それも断定的に言い切ってくれる。

このレベルの天気予報には誰も責任を持たないし、それによって旅行・観光業者が被害を受けても誰も責任をとらない。「お詫びして訂正」という段取りもコメントもない。「占い」ではないのだからこれは誰かが責任を持つべきだし、責任をとるのが社会常識というものではないだろうか、と僕は思うんだよね、ほんと。

それはさておき、蓼科では、というかピラタスの丘では、もはや「暑い」という日はなくなった。「暖かな日」や「寒い日」はあっても、「暑い日」はもうやってこない。蓼科には「残暑」というものがそもそもの始めから無いのだ。日が暮れたとたんに気温は急降下して、外に出ると吐く息が白く見える。

すっかりそんな気候になって、シベリアンハスキーの愛犬パル君は元気いっぱいになってきた。なにしろ彼の快適気温は氷点下10℃以下だから。快適環境は一面の雪と氷の世界だから。夏毛が抜けてしだいに冬毛に生え替わり始めてムクムクとしたぬいぐるみみたいになってきた。これがかっこうよくてかわいいのだ。

この季節、里に下りればそこには絵に描いたような「里の秋」がある。ゆったりとした時間が流れ、しっとりとした大気が夏の疲れをいやしてくれる。静かな静かな季節だ。ここでは誰もあなたがあなたであることを責めたりしない。あなたはそのままのあなたでいいのだ。

2006年09月22日

3506 TVドラマ「静かな時間」

曇りのち晴れ 気温:最低 8℃/最高 16℃

平原綾香の「明日(あした)」という曲がとても好きだ。倉本聰原作のTVドラマ「静かな時間」のタイトル曲だったのだけれど、初めて聴いたときから一発でファンになってしまった。なんだか胸がきゅんとなるのね、まるで思春期の頃みたいに。年齢を重ねるにつれてそんな機会はあまりなくなっていたから、なんだか不意を突かれてしまったというわけさ。

「静かな時間」というドラマを僕は「父親」の立場から観ることになった。年齢から言って当然のことだけれど、たとえば若い人が息子の立場から観たらどんな風に感じたのだろうか。奇しくも蓼科高原日記のかつてのサブタイトルは「静かな生活」だった。「静かな時間」とほぼ同義で名付けたものだ。

じつに僕はここで静かな時間を過ごしている。ラッシュライフとも言える激しい時間を20年ほど過ごしたあとで、僕はこちらに移住したのだった。気づいたときには心身とももうぼろぼろになっていたからだ。充実した濃密な時間だったけれど、それらの時間はしっかりととるべきものを僕から奪っていったのだ。

今夜 Amazon.co.jp と楽天市場に賞品レビューを書いていてふと思った。なにを書いていてもこのスタイルは変わらないんだなあ、と。そして、ああ、このスタイルこそが僕なのだ、と。セルフアイデンティティーなんてことは考えないほうがいい、セルフイメージなんて持たないほうがいい、百害あって一利無しだ。この僕が体験者だから間違いない。

しかし、スタイルには目を向けたほうがいいのかも知れない。自分のスタイルにはこだわったほうがいい、たぶん。表現手段やメディアは何だって良いのだ。文章でも、ファッションでも、写真でも、なんでもいい。ただ、誰のまねでもない、だれもまねできない自分のスタイルを持ちたいと意識し続けることは大切なことだと思うよ。

そんなふうにして生きていると、良い想いをしたり得したりすることよりも、嫌な想いをしたり損したりすることの方が多いかも知れない。いや、きっとそうなる。でもね、自分が自分であることこそが幸福なのだ、という観点に立つならば、僕らはどんどん先に進まなければならない。この道は間違っていない、この道を進むのが正しいのだ。

生来「世渡り上手」なひとはその才能に従って生きるのが良いだろう、しかし多くの「世渡り下手」なひとたちは、「自分の土俵で自分の相撲を取る」ほかないしそれがベストなのだと確信している。要するのそれこそが自分のスタイルで生きると言うことなのだ。

自分のスタイルを持つこと、自分の文体を持つこと、まずはそのあたりから始めてみてはどうだろうか。あらためて、僕もそうしてみようと思う昨今です。

2006年09月23日

3507 ファイアーウォール、ウイルス、スパム

曇りのち晴れ 気温:最低 7℃/最高 13℃

ケーブルモデムに直接接続するのをやめて、有線ブロードバンドルーターを経由して接続するようにしてからは、同じケーブルTVのネットワーク内からのTCP 135番ポートへの執拗なアクセス試行はPCまで到達しないようになった。

アクセス試行は続いているのだろうが、ルータ内蔵のパケットフィルターでそれを遮断する設定にしてあるからだ。したがってPCにインストールしてあるファイアーウォールソフトのログにはそれらしき記録は一切無い。

OS標準搭載のファイアーウォール機能だけではこの侵入試行は防げなかったから、すくなくとも(1)ファイアーウォール機能(設定=高にすること)付きブロードバンドルーター経由でインターネットに接続するか、(2)PCに市販のファイアーウォールソフト(クライアント・モードに設定)をインストールするかのどちらかでないと、セキュリティーは保証されないという時代になったのだと思う。

初心者に限らず不正侵入とウイルスとスパムメールとをひとつのものと混同している人が見られるんで整理しておいたほうがいいだろう:

(1)ファイアーウォール機能あるいはファイアーウォールソフト=あなたのパソコンにインターネット回線などを経由して「不正侵入」してデータを窃盗したり改ざんしたり消去したりプライバシーを侵害する行為を防止するのがお仕事です。

(2)アンチウイルスソフト=メールやダウンロードファイルやホームページを通じてコンピュータウイルスを感染させたりスパイウエアをあなたのパソコンに送り込もうとする行為を防止するのがお仕事。

(3)スパムメールフィルターソフト=無作為にスパムメール(迷惑メール)を送りつけてくる行為に対してどれがスパムでどれがそうでないメールかを学習してスパムメールのみを選別してスパムメールフォルダーなどに選別隔離するのがお仕事。ただし、100%正解と言うことはないので削除する前に1日に1回は「大切なメール」が紛れ込んでいないかチェックすることが必須。最近これをやらないで待っているメールが来ないと騒ぐひとが多いので注意。

といったところだろうか。

だから、アンチウイルスソフトを入れてあるから「不正侵入」も防げる、あるいはスパムメールを防げると考えているひとは「大間違い」をしていることになる。最近は「上記3つの機能が統合された便利なセキュリティーソフトセット」も出回っているのでこの勘違いは蔓延傾向にあるようだ。よく確認して注意されたい。

★★★

「CASIO The G (ザ・ジー) ブラックフォース タフソーラー電波時計 GW-700BTJ-1JF 」が昨日 Amazon.co.jp から届いた。さっそくブレスレットの長さを自分で調整して愛用している。同封されていた案内に誘われて、カスタマーレビューなるものを書いてみました。投稿したあと掲載されるまで4〜5日かかり、それまでの間はこの腕時計についての投稿内容を再表示させる手だてがないのでここに転記することができません。

レビュアーのプロフィールにも書いたけれど・・・

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自己紹介:

どんな本が好きか、どんな音楽を好んで聴いているか、 どんな映画に感動し、どんな趣味を楽しんでいるかを知 れば、その人の人物像は自ずと明らかになるものです。

本はどんな本でも好きですが、村上春樹はデビュー以来 もっとも敬愛する作家です。音楽はリアルタイム体験し たこともあって The Beatles がバックボーンになっています。1950年代〜70年 代のモダンジャズもカラヤンやベームのクラシック音楽 も J-POP も自分の感性に訴えるものは何でも好きです。

映画はハリウッドものはあまり好きではありませんが、 その中でも優れた作品のいくつかは大好きです。よく観 るのは邦画で岩井俊二作品が好きですね。

趣味は書ききれないほど多彩・・・まあ「下手の横好き 」と言えなくもないですが。

ということで、基本的に現実社会の世渡りはあまり得意 ではなく上昇志向はあまりない「趣味人」といったとこ ろでしょうか。


興味があるもの:

自己紹介覧とダブってしまうので、省きます。レビュー が増えるに従って、少しずつ書いていきたいと思います 。

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ということです。

そういえば、これはペンション・サンセットのオーナーとしてのプロフィールにもなりますね。


そして気づいてみれば以前にも(数年前)レビューを書いていたのでした。こちらです。”RUBBER SOUL”というのがレビュアーとしての僕のニックネームです。よろしければ「参考になった」というボタンをクリックして僕を応援してください。って、ちょっと虫が良すぎるかも知れませんね。(^^ゞ

今夜もよく晴れて満天の星空です。

2006年09月24日

3508 乗馬とドライブと空に描く絵画

晴れ 気温:最低 3℃/最高 16℃

今朝はこの秋一番の冷え込みになった。最低気温3℃。昨夜からきれいに晴れ渡っていたから放射冷却現象が起きたのかも知れない。いずれにしても晴れた夜にはよく冷える。雲ひとつ無い快晴で、さんさんと陽光が降り注いで、文字通りの秋晴れになった。天気概況によれば、こんな感じのお天気があと1週間は続きそうだ。

秋は乗馬に最適の季節だ。最近は乗馬も「引き馬」といった観光的なものだけでなく、本格的な初心者レッスンを1時限受講すれば牧場の外に乗って出ることのできる「外乗」も可能になっている。料金もそれなりにするが、他の体験ものに比べて決して高いものではないので是非おすすめしたい。くわしくは白樺湖のホープロッジ乗馬牧場のHPを参照されたい。ペンション・サンセットからクルマで15〜20分ほどだ。

9月は陽射しが温かく、夏のように強烈ではないのでオープンカーでのドライブにも最適だ。別にオープンカーでなくても、窓を全開にして走ればまさにオープンエアードライビングになる。日中は風もそんなに冷たくはないから心地よいドライブを満喫できるだろう。もちろんビーナスラインを美ヶ原まで走って松本か小諸に下るコースがおすすめだ。全行程ノンストップだと2時間程度。途中でクルマを止めてゆっくりするなら3時間程度かな。とにかくおすすめ、最高ですよ。

蓼科湖はいまアキアカネ(赤とんぼ)が大量に飛んでいて、写真に写り混んでしまうのでシャッターを切るタイミングが難しい。コスモスが満開でとても美しく華やかな雰囲気だ。水面に映り混む森や山や空や雲が、まるで英国の風景画のようだ。秋の蓼科にいらしたら、是非空を見上げてほしい。じつに芸術的な、神々の絵画がそこに描かれているから。

今夜もぐっと冷え込んで、キーボードをタイプする音の他はなにも聞こえない。耳の奥からきーんと言う音が聞こえてくるほどの静寂がピラタスの丘を支配している。

2006年09月25日

3509 今日はどうしてこんなに空気が冷たいのだろう

晴れ時々曇り一時強風 気温:最低 6℃/最高 15℃

朝起きたときには雲の中、お客様がご出発になる頃には青空を背景に美しい秋の雲が流れ、秋の陽射しがさんさんと降り注ぎ、午後には曇りがちになって強風が吹きすさんで木の葉が舞い、夕方には風が止んでふたたび晴れてきた。

気温は最低が6℃、最高が15℃たったが、夜は再び6度まで気温が下がった。愛犬パルと散歩に出たが、気温以上に寒く感じ、僕はTシャツの上に冬用のpatagonia(TM)のシェルド・シンチラジャケット(分厚いフリースの裏地のついた厚手ナイロンのジャンパー)を着込んで襟を立て、頭には厚手のフリースの帽子をかぶった。

そんな出で立ちで小走りでペンション村を一周したが、まったく汗ばむことはなかった。耳が冷え切って痛いほどで、手袋をしない手が少し痛む。いつもは氷点下になるまでは手袋なんかしないのだけれど。今日はどうしてこんなに空気が冷たいのだろう。

うすい雲を透かして、星がきらめく。新月に向かっているので上空に月はない。凛とした大気と、漆黒の闇があるばかりだ。そういえば今夜は秋の虫の音が聞こえない。もう死に絶えてしまったのだろうか。森の奥の方でかさこそと音がする。一瞬驚くが、それは野生動物の立てた音ではなくて、大きな落ち葉が他の葉にあたりながら地上に落下するときの音だった。

紅葉まであと1〜2週間だ。この季節の移り変わりはめまぐるしく、あっという間だ。ぼやぼやしていると、気がついたときには銀世界になっているというものだ、いや、これは冗談抜きの話。今年こそ時系列で蓼科の紅葉の様子をたくさんの写真に写し取りたいと思っている。絵作りや、うまい下手は考えずに、記録として残そうと考えている。そのようにして写された写真の価値は何年もたってみないとわからないものだから。

それはさておき、あいかわらず Amazon.co.jp や楽天市場にカスタマーレビューを書いている。ちょっとはまってしまった感じがないでもない。書いていて気づくのは自分があいかわらずものに対するこだわりがひと一倍強いと言うことだ。モノひとつひとつにたいしてきちんと一家言あるのだ。自分でも驚くほか無い。だから、レビューはいくらでも書ける。まあ、内容やそのレベルを問われなければ、という注意書きが必要だけれど。

同様に、ペンション・サンセットでお出ししているお料理やパンやヨーグルト、その素材や調味料や調理法そして厨房で使用する道具に至るまで「一家言」持っているのだと言うことに気づいた。こだわりを持つことは悪いことではないけれど、いきすぎるとそのプラス面を台無しにしてしまうことを僕は学んだから、そうならないようにセルフコントロールに気をつけなければならないと思っている。

2006年09月26日

3510 Amazon.co.jp にカスタマーレビューを書く

曇りのち雨 気温:最低 5℃/最高 10℃

天気予報どおり正午から雨が降り出した。始めはぽつりぽつりという感じだったのが、急に夕立のような激しいふりに変わった。その後風が出たりもしたが、いまは普通のにわか雨のような降り方に変わっている。この雨は明日の朝まで降り続き、その後もぐずつくが夕方からは晴れてくるという天気概況だ。

9月8日に腫瘍の手術をした愛犬パル君の抜糸に行ってきた。最初から警戒してクルマに乗せるのもひと騒ぎだったが、獣医院が近づくにつれて何とか逃げ出そうとクルマの中でじたばたと大騒ぎしてもう大変だった。まったく大きななりをしているくせに、頭の中は子犬の頃と変わらないんだから。

しかし診察台に乗ると観念しておとなしく抜糸させた。これでもう大丈夫と言う獣医さんの言葉もあってひと安心。まあ、内臓の腫瘍では無くお尻にできた繊維腫だったので、今後も心配は無いとのこと。しかし今日の診療もまた彼にとっては怖い体験だったらしく、いまも犬舎にこもってすっかり気配を消しているパル君である。

さて、先日 Amazon.co.jp にカスタマーレビューを書いていることを記したが、これって「このレビューは参考になりましたか?」というかたちで投票ボタンを押せる仕掛けになっているので、読んだひとの反響がダイレクトにわかってしまう。当然「支持」もあれば「不支持」や「反感」や「悪意」もありうるわけだ。

その点でこの日記よりもはるかにパブリックな発言とみなされているわけで、かなり怖い行為でもあると感じている。しかしそれによって自分が鍛えられると言う側面もあるので、あえてチャレンジを続ける所存だ。いずれにしてもいまやネット界は「渡る世間は鬼ばかり」なのだ、たぶん。(ドラマは見たことないけど)

「ウェブログ(web log)」という定義から言うならば、この日記は「ブログ」と言って差し支えないが、システムや機能の観点から見れば「ブログ」の要件を満たしていない。このページはすべてHTMLによって記述されているからだ。RSS機能は備えているが、トラックバック機能やコメント書き込み機能は無い。

加えてコンテンツとしてもいまはやりの「ブログ」の要件を満たしていないように思われる。この日記は当初のタイトルが「オーナーのひとりごと」だったことからもわかるとおり、独白文なのだ。社会事象をタイムリーにとらえてインタラクティブに論じるものでは無いし、そのことに関して第三者と議論するものでも無い。

だから蓼科高原日記がいま風の「ブログ」に変身することは無いと思うし、僕にはそれができないのでは無いかと考えている。

ピラタスの丘では樹木が急激に緑から黄色へとその色彩を変化させている。今日のように強い風が吹くと庭や道路にはかなりの量の落ち葉が降り積もるようになった。じつに劇的にそのように変化したのだった。まるで誰かがかちっとスイッチをいれて季節を「秋」に切り替えたみたいに。

今夜もまた冷え込んでいる。そしてどこまでも静かな夜が更けてゆく。

2006年09月27日

3511 100万アクセス間近

曇り 気温:最低 6℃/最高 15℃

1996年7月1日がこのホームページ(正式にはウェブページあるいはウェブサイト)の誕生日なのだけれど、そのとき漠然と夢見ていたのは100万アクセス達成という里程標(メルクマール)だった。当時のインターネットの利用者数はいまの14分の1程度、現在のミクシィの会員数程度だったから、それは文字通り夢の数字だったわけだ。

その夢の数字が目前に迫っていることにいまさら気づいて、ちょいと感無量ではある。ブロードバンドが一般に普及し始めてからはアクセス数は指数関数的に増加したから、一回のアクセスのありがたさにいささか麻痺してしまっていたきらいがある。そのことを反省する昨今だ。

改めて日々アクセスしてくださる方々に感謝の念を抱くものである。が、100万アクセスももはや文字通りの里程標(メルクマール)であって、ひとつの通過点に過ぎないと考えるようになった。この日記は基本的に僕の「個人的な日記」であるけれど、このホームページの大半は僕の営む蓼科高原ペンション・サンセットの商業的なものでもあるわけだ。

後者のコンテンツ充実に向けて軸足を移す時期なのかも知れないと思っている。

2006年09月28日

3512 港に休む帆船

晴れ 気温:最低 6℃/最高 15℃

久しぶりに朝寝坊した。この時節のピラタスの森は本当に静かで、耳ざといシベリアンハスキーのパルでさえ、つい寝過ごしてしまうほどなのだ。寝室に面した庭にいる彼が寝坊すると、外からは何の物音も聞こえず、しんとした夜明けのような気配だけがあたりを支配する。庭の樹木に遮られて窓に直接陽射しが入ることがないので、カーテンを開けてみないことには今が何時なのかもわからない。

風の音、葉擦れの音、野生動物の発するかすかな気配、ボイラーが止まったときにすることんと言う配管の音。眠りを妨げる音はなにもない。穏やかなゆったりした時間が流れてゆく。ピラタスの丘の時間はそのようにゆっくり流れるのだ。

お客様のいらっしゃらない日のペンションは港で休む帆船のようだ。帆を下ろし、埠頭にもやって、しずかに息を潜めている。船体を打つちゃぷちゃぷという小波の音だけが、いまも時間が進行しているのだと告げる。ひゅーひゅーという風の音だけが、来るべき航海を予感させる。大きな帆いっぱいに風を受けて力強く外洋を進んでゆく巨体を思う。

小さな野鳥が犬舎の前で抜け落ちたパルの夏毛を収集している。この時期にいったいなにに使うのだろう。コガラは一年中ここに生息しているから、越冬に備えていまからこの暖かな毛を集めているのかも知れない。その向こうの木の下で、パルはぐっすりと眠っている。小鳥にはまったく関心がないようだ。

深い夢から覚めて僕はそのような平和な情景を観ている。深海からゆっくりゆっくりと浮上するように僕は目覚める。海面から差すほのかな光を全身で感じ、やがてそれは現実の光として視覚で捉えられ、はるか頭上で海面の揺らめく光の反射を観る。と、突然僕はここにいる。

夜床につくと、この反対のプロセスが反復される。そのように入眠し、そのように覚醒する。それがピラタスの丘の「アフターダーク」の習わしだ。夜行性動物はいるが、夜行性人間は存在しない。また、そのような人間が息づける街の明かりも、また存在しない。

2006年09月29日

3513 Amazon.co.jp に感銘を受ける

晴れのち曇り 気温:最低 6℃/最高 15℃


Amazon.co.jp でインターネットショッピングをした経験のある人は多いだろうと思う。こんなとんでもない山暮らしだから、僕もじつのところよく利用している。とても良くできたサイトで、商品検索を含めてお目当ての商品へのアクセスが容易で、その後の比較検討から購入に至るまでの流れが自然でスムーズなので、ついつい迷いを振り切って購入に至ってしまったことも一度や二度ではない。

商品ブラウズや購入の履歴をしっかり記録していて膨大なデータベースからユーザープロファイルを作成し、それに基づいて「おすすめ商品」を提示する仕掛けになっているのだけれど、その的確さと来たらまるで(たとえが悪いけれど)心の中を含めて個人情報をそっくり持って行かれたような感じなのだ。じつにツボにはまった商品を薦めてくる。

このようなサイトをペンション・サンセットのサイトで実現できたならどんなにユーザビリティーが向上するだろうかと夢想してしまう。個人的にはベスト・オブ・ベストのサイトだと評価している。

しかし、ひとたび Amazon.co.jp と連絡を取りたい事情ができたときには事情が異なってくると言うことを最近体験した。ひとことで言うならばものすごく距離を置かれている感じがして「遠い」のだ。相手の顔が見えない、相手の声が聞こえない。交渉の余地などというものはまったく存在せず、じつにプログラムどおりの対応でそれはじつに不条理を感じるほどなのだ。

試しに一度「お問い合せ」のリンクをたどってみるといい。巨大迷路みたいに堂々巡りの連続になる。ぼくはいまだにサポートの電話番号を見つけられないでいる。かろうじて奥の奥にあったお問い合せフォームにたどり着くのが精一杯だった。

そうした「日本的な意味でのホスピタリティー」を Amazon.co.jp に期待してはいけないのだろう。また、日常的な購買行動のようにフェース・ツゥ・フェースのコミュニケーションを期待してもいけないのだろう。さらに通常の「小売店」のような対応を期待してもいけないようで、Amazon.co,jp の業態は基本的に「商品取次業」であるということを知っておく必要がある。購入後の商品について Amazon.co.jp は一切関知せず、フォローはメーカーなり代理店が行うということになっているのだ。

これは批判ではなく、知り得たことの開示に過ぎない。そのようなものなのだということを言っているだけだ。それを知った上で利用する限りにおいて最高のパートナーとなりうるネット企業でありサイトなのだ。だから、そのような「但し書き」付で、今後も僕は Amazon.co.jp 利用し続けることだろう。

こんなことを書いたのも、日本的常識や社会通念から逸脱してもそれに勝るユーザビリティーを明確に示すことができるならばビジネスとして成功しうるのだという「感嘆」を述べたかったからだ。

2006年09月30日

3514 パブリックな自己

晴れ 気温:最低 7℃/最高 14℃

もう10月だというのにピラタスの丘にコスモスが咲いている。これは異例のことだ、早いときには7月から咲き始めて8月中には咲き終えてしまうのが通例だと僕は記憶している。今年は秋が早いのか遅いのかよくわからない。12年も住んでいる僕らでさえそうなのだ。

かつてこの日記は僕の想いを語る場であった。それでも良かったのは、時代がそれを許したからだ。WWWが限られたひとびとの交流の場であったころにはプライベートな自己が直情的に語ることが許されたが、パブリックな自己が語るとき直情的に語ることは許されない。

1996年当時、日本のインターネット利用者数は510万人に過ぎなかった。奇しくも現在のミクシィの会員と同じ程度のコミュニティーだったのだ。昨年の利用者数は7000万人ほどだから、14倍近くにふくれあがり、WWWの世界は現実社会を転写したかのようなリアルで物騒な世界に変貌している。

この10年間ウェブマスターとしてじつに様々な経験をしてきた。不思議な出会いもあれば、じつに奇妙な体験もした。もちろんきわめて不快な思いもしたし、これ以上はないというほどのうれしい出来事もあった。そのような10年間を経て、いまの僕はここにある。

それが「パブリックな僕」だ。以前のような個人的なプライベートな僕ではない。これを進化と呼ぶべきか、あるいは進歩と呼ぶべきか、いや、そうではなくてこれは退行だと言うべきか僕にはわからない。しかしこれは必然であって、もう戻ることはできない。それはもうすでに終わってしまったことなのだ。

過去の僕を知りたければ過去の日記を読めばよい。僕自身はそうしている。いまの自分を知りたければ、僕は自分に問いかけ、ひとはいまの日記を読み解くほか無い。まあ、そこまで手間暇かけて読む価値のある日記だとも思わないけれど。

さて、僕は「心を閉ざしてしまった」のだろうか。なにかを語ることを断念してしまったのだろうか。わかってほしいという想いを諦めてしまったのだろうか。いやそうではない、わかるひとにはわかるし、わからないひとには永遠にわからない、伝わるときは伝わるし、だめなときはだめなのだ。そんなふうに考えるようになっただけだ。

こんなふうに書くと、村上春樹の小説の主人公のように「わかってもらえなくてもいいや」というふうにみえるのだろうか。そういうのってある種の人たちの癇に触るのだろうか。そうであろうとそうであるまいと、僕は僕なのだ、これが「いま」の僕なのだ。

人生の前半、つまり山暮らしを始める以前の半生を僕は自分を偽って生き抜かざるを得なかった。だから、残り半分の人生を自分が望むとおりの自分、いや「自分があるとおりの自分」として生きてはいけないのだろうか。それは許されないことなのだろうか。

このいのちに代えても、僕はもう僕以外の自分にはなりたくないし演じたくもない。

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